第29話 集中治療室
白い天井が見えた。そして自分は、マスクを着けているようだった。それを外そうとして、腕にたくさんの線が繋がっていることを気付く。
断続的な電子音が聞こえる。身体をずらしてもう少し詳しく周辺を見回そうとすると、背中に鋭い痛みを感じて上手く動けない。そして激しい頭痛もある。背中に何かがあてがわれているようだ。
消毒臭と大袈裟な機材で、そこが病院であることは分かった。しかし、自分がどうやって病院に運ばれたのかを全く思い出せない。今がいつなのかも分からず、昼か夜さえ判別できないのだ。
考え込んでいると、看護婦と医者がやってきた。彼らは何やらどたばたしていた。計器を見て僕の胸に聴診器を当て、点滴を確認した。一体何に慌てているのだろう。
「私の声が分かりますか?」
天然パーマのぼさぼさ頭に、黒縁眼鏡をかける白衣が言った。医者にしては、随分若くて頼りない風貌だ。
彼の問いかけが、自分の声が聞こえるかという質問だとすれば、答えはイエスだ。僕はただ頷いた。
「どこか痛みますか?」
頭の芯が鉛にでもなったように、脳みその回転が上がらない。しかも、気怠くて声を出すのが億劫だ。僕は再び、ただ頷いた。
「どこが痛いですか?」
放っておいて欲しいと思いながら、仕方なく僕は言葉を吐き出す。
「背中……と頭」
今度は医者が黙って頷いた。彼は手に持つカルテにずぼらそうな顔を向け、何かを書き込んだ。名札には、仲井と書かれている。
「もう大丈夫だと思いますが、あと一日か二日、ICUで様子を見させて下さい」
僕はまだ、全てを把握していなかった。頷いてさっさと眠ってしまいたい欲求を抑え、僕は声を絞り出した。
「ここはどこですか?」
仲井先生は眉間に皺を寄せ、僕の頭のねじが緩んでいるのを疑うような目付きになった。人に苛立ちや不安を与える目だ。
「ここはK大学病院ですよ。あなたはニ日前、救急車で運び込まれたんです」
「二日前?」
「ええ、刃物が肺や肝臓に触ったようで、危ない状況でした。昨日目を覚まさないので、出血多量による脳障害も心配していたのですが、今のところ大丈夫そうですね」
僕はその説明から、必死に記憶の糸を手繰り寄せる。そうだ、僕は新宿駅前で刺されたのだ。佐伯も刺され、意識不明に陥った。
あっ、彼女は?
「先生、僕と一緒に、女性も運ばれてきませんでしたか?」
彼は、「さて、どうだったかな?」と呑気に言って続けた。
「当日担当したのは別の医師なので、ちょっと分かりませんが、おそらくあなた一人だと思いますよ。それと、あなたの名前は遠藤和也さんで宜しいですか? 緊急措置として、病院側で財布の中にあった免許証を拝見させてもらったようですが」
佐伯の件が全く気にならない彼の様子に、僕は再び苛立ちを覚えた。
「名前はその通りです」
「もし知らせて欲しい人がいれば、私の方で連絡を取りますから教えて下さい」
僕は、井上の名前と大学名、学部を彼に伝えた。電話番号をすぐに思い出せなかったからだ。大学を経由して、急いで井上に連絡を取って欲しいとお願いした。
それから二日間、僕はICUの中でやり切れないほど退屈な時間を過ごした。そこにいる限り、自由は全くない。天井を眺めるか寝るか、二者択一の世界。救いは、考え事を制約されることがないことだった。
初日は主に、新宿駅前で起こったあの事件を、できるだけ細かく思い出すように努めた。
確か、陽射しの暖かい穏やかな日だった。都会らしく、サラリーマンや若い男女が大勢歩いていた。
突然現れた男たちは、がらが悪く、すぐにやくざと分かる連中だ。佐伯の行く手に立ちはだかる前、彼らはどこにいたのだろうか。あんな連中がいることに、直前まで気付かなかった。
彼らは佐伯が出口に現れた瞬間、真っ直ぐ彼女へ歩み寄った。あの場所から佐伯が出てくることを、完全に予測できていた様子だ。
そして揉み合いになり、佐伯が刺された。その間彼らは、全くこちらを見なかった。
倉本に刺された佐伯の白いコートが、血の色に染まった。彼女は僕の呼び掛けに、死んだように反応しなかった。アスファルトに頬をつけ、目を閉じた佐伯の顔は、死人のように蒼白だった。
それを思い起こすと、ますます彼女のことが気になった。しかし悔しいことに、情報を取る術がない。
井上は姿を見せなかった。いや、彼は病院に来たのではないだろうか。自分が面会できないICUに入っているため、様子を見聞きしただけで帰ったのかもしれない。
二日目は主に、事件の謎について考えた。前日の回想も、自然と何度も繰り返される。
一刻も早く、病院から出たかった。医者は、退院に最低ニ週間は掛かると言った。しかし僕は、そんなに待てないと言った。とにかく早く、佐伯の状況を知りたいのだ。医者は鼻で笑い、僕の切実な要望に対し、全く相手にしてくれなかった。
結局やることは、天井を眺めるか何かを考えることしかない。寝るという選択もあるのだから、実は三者択一の世界にいることに気付いた。おかげで縛り付けられている世界が、少しだけ広がった気がした。
それにしても倉本は、どうなったのか。公衆の面前で平然と人を刺した彼は、警察に捕まったのだろうか。あんな狂犬が野に放たれているとしたら、これからも危なくて仕方ない。
そもそも倉本は、なぜ新宿駅に現れたのか。偶然ということはあり得ない。
彼らは佐伯がそこに現れることを、最初から知っていたように振る舞っていた。もし最初から知っていたとすれば、それは何故かを考えて、僕は愕然とする。もしかしたら、自分が倉本を、仙台から新宿まで導いたのではないかと思えるからだ。
彼女と待ち合わせを決めたのは、事件のあったほんの一時間前だ。それで倉本が新宿駅前で佐伯を待ち伏せていたとすれば、それを教えたのは自分に他ならない。電話の内容を盗み聞きされたか、後をつけられたのだ。
それに倉本は、女を仕留めたら次はお前の番だと言った。つまり僕は、しっかり彼らの標的になっていた。一体彼らは、何を知っているのだろうか。何かを知っているとして、どうやって知ったのか。
分からないことだらけだった。僕はそのことを、一刻も早く井上と相談したかった。
三日目の午後に、ようやく一般病棟へ移された。僕は、すぐに病室を抜け出すことにした。もちろん医者には、暫く安静だと言われている。再び内臓に出血が起きると、今度こそ死ぬと言われていた。だからこっそり抜け出す以外なかった。
起き上がると、相変わらず背中に針を突き刺すような鋭い痛みが走る。しかし僕は、どうしても佐伯の状況を知りたかったのだ。
病院内の公衆電話から佐伯のアパートに電話をしても、誰も応答しなかった。僕は不安に押し潰されそうな息苦しさの中で、軽い目眩を感じながら受話器をフックに戻した。
そして下から落ちたコインを再び電話機に投入し、財布から取り出した井上の番号を見ながら、もう一度ダイヤルを回した。
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