第28話 白昼の襲撃

 翌朝、バンドのメンバーと別行動で、朝早く仙台駅に行った。できるだけ早い時間の新幹線に乗るためだ。

 ホームや電車の中に、多くのビジネスマンがいた。早朝から移動を開始し、東京で打ち合わせを終えて日帰りしようとする、勤勉な人たちだ。そんな人たちは、移動中も書類に目を通している。

 大学を卒業したら、自分もこんなふうになる必要に迫られるのかと思うと、鬱陶しい気分になる。逆に彼らは自分のことを、お気楽な学生で羨ましいと思っているのかもしれない。しかし学生にも、それなりの苦悩があるのだ。僕は車窓の流れる景色を眺めながら、佐伯のことを思った。

 東京駅へ到着すると、僕は早速、ホームの公衆電話から佐伯の自宅へ電話を入れた。最初に母親が出て、短い挨拶を交わして佐伯に替わる。

 佐伯は僕の電話に、怯えるような声で『もしもし』と応じた。このときの僕は、彼女の怯えが何を意味するのか、薄っすらと理解できた。滅多にない僕からの電話に、彼女にとって聞きたくない打ち明けや相談があるのかもしれないことを、彼女は恐れている。それがあるが故に、普段の彼女は自分と微妙な距離を取っているのだ。

「今、仙台から戻った」

 彼女は僕の言う意味を咀嚼するように、少し時間を置いた。

『早かったのね。ざわついているけど、まだ駅なの?』

「そう、東京駅に着いたばかりなんだ」

『ライブはどうだったの?』

「去年と同じように盛り上がった。それでさ、電話をしたのは、ランチを一緒に食べたいと思ったからなんだ」

 彼女は小さく『えっ?』と言って、ここでも再び間を取った。随分彼女は考え込んでいるようだから、思わず僕の方から再び訊ねた。

「何か用事がある?」

『そんなことはないわよ。ただ、珍しいと思っただけ。何か話しがあるの?』

 探りを入れるような、自信のない言い方だった。僕は余計な言葉を飾らず、ありのままを伝えた。

「東京を離れてみたら、とても佐伯に会いたくなった。だから朝早い新幹線で急いで帰ってきたんだ。それだけだよ」

 彼女は、ふふふと笑って続けた。『女はね、嘘でもそんなことを言われると、嬉しくなるの』

 せっかく正直な気持ちを語った僕は、少しむきになっていたかもしれない。

「嘘じゃないよ。自分の気持ちを素直に話してるだけなんだ」

 彼女は今度、楽しそうに笑う。

『分かった。そういうことなら、喜んでお付き合いするわ』

 最後に明るくそう言った佐伯と、一時間後に新宿で落ち合うことを約束し、電話を切った。

 受話器を通した佐伯の様子は、顔が見えなくても知ることができた。途中から彼女の声が、突然華やいだからだ。

 自分の気持ちを確認し、会いたいと素直に伝えるだけで、周囲の空気が一変した。揺らぐ気持ちがすれ違いを生んでいた中で、二人の位相が突然一致したような気がしたのだ。おそらくそれは、事実だろう。そして自分も、たったそれだけのことに浮足立っている。

 彼女の気持ちを読み取れたことは、もちろん嬉しかった。しかしそれ以上に、これから前を向いて歩いていけるという希望が、自分の中に不思議な活力を生み出している。そして全てが軽くなった。僕はようやく、何かの呪縛から開放されたのかもしれない。もしそうなら、次は佐伯の番であるべきだ。彼女も開放されなければならない。そうでなければ自分も幸せな気持ちになれないことを、おぼろげながら僕は分かっていた。


 頭上に青空が見える、穏やかな日だった。時間は昼間で気温が上がり切っていなくても、風が弱いせいで寒くはなかった。

 約束の時間、新宿駅東口駅前広場に現れた佐伯は、見覚えのある白いオーバーを着ていた。一年前、久しぶりに僕たちが再会したあのとき着ていたものと、同じオーバーだ。アルタスタジオに背を向け駅前広場から駅出口を眺めていた僕は、その白いオーバーのお陰で、彼女が出てきたことを簡単に気付いた。彼女も僕を認め、笑顔で手を振る。

 その直後だった。突然二人の男が、彼女の前に立ちはだかった。一人は痩せ型の長身、もう一人は中肉中背で、どちらも柄が悪かった。中肉中背はだぼだぼのズボンにカーキ色のジャケットをだらしなく着込み、長身は縦縞模様の細いスーツに先の尖った革靴を履いて、色の濃いサングラスをしている。

 二人の男の前で佐伯の足が止まり、歩道の柵に座る僕の腰も浮いた。そこへ、身なりのよい三人目の男が現れた。頭髪はオールバックで、縦縞の黒っぽいスーツを着ている。彼は足の止まった佐伯に、余裕の態度で歩み寄った。二人の男に戸惑った佐伯は、三人目の男を見て、明らかに動揺した。目を見開き、顔も身体も硬直しているのが離れた場所から分かった。

 どう見ても三人の男はかたぎではなかったけれど、最後の男が倉本と気付くまで、やや時間がかかった。仙台初日の夜に国分町で見た、あのメルセデスの男だ。

 倉本が佐伯の腕を掴んだ。力ずくで彼女をどこかへ連れていこうとしている。僕は佐伯の方へ急いだ。倉本が何かを怒鳴り、佐伯も何かを倉本に叫んでいる。そして彼女は、自分の腕を掴む倉本の手を振りほどこうとしていた。揉め事が起きているのは傍目に明らかだったけれど、三人のヤクザが絡んでいるせいで、通行人はそれを横目で見ながら、敢えて遠巻きに避けている。周囲のみんなが、余計なトラブルに巻き込まれるのを敬遠していた。

 肩にはギターが掛かっている。いざとなれば、それも武器になるかもしれない。彼女との距離は、三十メートルくらいになっていた。僕は既に、走り出している。

 もうすぐ佐伯にたどり着くというときだ。倉本が佐伯の腹を殴ったように見えた。僕は慌てて速度を上げた。倉本は、もう一度彼女の腹を殴った。

 佐伯がゆっくり地面に崩れ落ちる。倒れて横向きになった彼女の白いコートが、お腹の辺りでじわりと赤く染まっていった。赤い色と佐伯の流血が、自分の中ですぐに結びつかなかった。そんなことがあるはずはないと、思い込もうとしていたせいだ。

 倉本が倒れた佐伯を見下ろしている。だらりと下げた右腕の先に、刃先を地面に向けたナイフがあった。そこから赤い液体が滴り落ちている。倉本が、地面に倒れた佐伯の腹に、容赦ない蹴りを入れた。異変に気付いた通行人から、恐怖の悲鳴が上がる。僕は武器にすべきギターを放り出し、思わず佐伯に覆い被さった。彼女を倉本の攻撃から守るためだ。相手に襲いかかろうとは思わなかった。自分の身に危害が及ぶことも考えなかった。とにかく佐伯を庇うのに必死だった。

 佐伯の顔が、すぐ近くにあった。彼女は気を失い、目を閉じている。

「佐伯、佐伯」

 僕の呼び掛けに、彼女は全く反応しなかった。

「誰か、救急車、救急車を呼んで」

 僕は顔を上げて叫んだ。そこへ後頭部に衝撃が走った。奴らの誰かが、僕の頭を蹴飛ばしたようだ。僕は佐伯にしがみつくように、ますます彼女を自分の身体で覆った。

「邪魔するんじゃねえ。ぶっ殺すぞ、てめえ」

 僕が後ろを向きかけたとき、今度は横っ面に蹴りを受けた。今度の衝撃は大きかった。危うく佐伯の上から外れそうになったけれど、どうにか踏ん張る。

 頭上から乾いた声が届いた。

「こいつは俺の女だ。そこをどけ、色男。慌てなくても、女を仕留めたら次はお前の番だ」

 僕は恐怖で、胃が数センチ上がったような不快感を覚えた。それでも佐伯から離れるわけにはいかない。自分が離れたら、彼女は間違いなく殺される。この男は本気だ。単なる脅しやはったりではない。既に躊躇いなく、佐伯をナイフで突き刺した。

 僕は震えながら、佐伯を覆い続けた。周囲を見回す余裕などなかった。佐伯の顔の近くで、ただ彼女の名前を呼んだ。

 彼女は死んだように無反応だった。本当に死んでしまったのかもしれない。

「頼む、目を開けてくれ。佐伯」

 パトカーのサイレンが聞こえた。誰かが通報してくれたようだ。危害を加えられても、辛抱していれば警察がやって来る。それまで耐えていればいいのだ。それよりも、一刻も早く佐伯を病院へ運びたい。

「おい、何をしている!」

 誰かの叫び声が聞こえた。視線を上の方へずらすと、二人の警官が駆け寄ってくるのが見えた。駅前派出所の巡査のようだ。

 これで救急車を呼べる。そう思ったとき、背中に鈍痛を感じた。おかしな違和感があった。僕は何が起きたのか、すぐに気付かなかった。すうっと何かが引き抜かれる感触で、背中にナイフが刺さったことを初めて知った。

 やられたと思った瞬間、再び背中に衝撃を感じた。痛いというより、やはり違和感だった。身体の中に異物が入り込んでいる感触。今度は突然、息苦しくなった。上手く呼吸できない。初めて僕は、低いうめき声を上げた。地面についた両肘の力が抜けて、自分の身体を支えるのが困難になる。力が入らない。自然に身体が震え出す。震えを止めようと思っても、逆にそれは大きくなった。身体が痙攣しているのだ。思ったより重症ではないかという気がした。

 三人の男たちが、走り去る気配を感じる。すぐに耳元で声が聞こえた。

「おい、大丈夫か!」

 そんなふうに訊かれたような気がした。しかし声が出なかった。世間が遠退く。息苦しさは相変わらずだ。先ずはそれをどうにかして欲しい。佐伯は目を閉じたまま動かない。

 このとき初めて、死を意識した。このまま二人一緒に死ぬならそれも本望かと、くだらないことを考えた。目を開けているのが苦しくなる。いや、苦しさに耐えて生きているのが辛いという感覚だ。

 僕は目を閉じて、眠ることにした。眠ってしまい、あとは野となれ山となれという心境だった。

 途端に周りが静かになって、僕は苦しみから開放された。

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