第26話 彼女との距離
もちろん母親と会ったことは、佐伯に言わなかった。母親との約束もさることながら、その日の話題は、元々佐伯に伝えられるものではないのだ。その内容を知れば、彼女はきっと傷付くだろう。
佐伯の母親と会ってから、気付けば僕は、自分が佐伯とどう関わるべきかを考えていた。単なるバイト仲間であるべきか、それともよき友人を演じ続けるべきか、あるいは恋人として振る舞うべきなのか。そして彼女はどうしたくて、自分はどうしたいのか。
僕は自分の気持ちを見失っていた。自分自身のことが分からないのだから、佐伯のことは知るはずもない。そもそも自分の感情がどこにあるかなど、考えるべきものなのかも怪しい。感情と思考の間にどんな接点があるのかを考え出すと、そこで僕はまたこんがらがってしまう。
自分の中に漂う
再び仙台のライブ遠征が、目前に迫っている。昨年と同じライブハウスでの招待演奏だ。そこへ佐伯を連れていくことを一瞬考え、彼女があの地へ戻るのは危険だと諦める。
このまま地方へ出掛け、せわしない年末をさり気なくやり過ごしたら、彼女との間にできた溝がますます広がってしまう気がした。それはそれで仕方ないという諦めの気持ちと、どうにかすべきではないかと抗う気持ちが、自分の中でせめぎ合いをしている。
居酒屋の中で、佐伯は何事もないように、テーブルを忙しく渡り歩いていた。
混み合う店内に、アルコールと揚げ物と魚の混ざった匂いが充満している。大勢の客が顔を赤くし、笑ったり声を張り上げていた。
年末らしい賑わいといえば、そうだった。決して不快ではないけれど、一体そこに、どんな意味があるのだろうと思う。大して重要でもないことを、金と時間を使い延々と語り合う。大声を出してカロリーを消費しながら、アルコールと一緒にカロリーを補給する。これがサラリーマンなのか、あるいはそれが人間というものなのか。
同じように僕も、自分の中に堆積する老廃物のような鬱憤を、一度発散すべきかもしれない。
「おい、三番テーブルがお呼びだぞ」
ダボハゼに尻を叩かれ、注文伝票を取ってテーブルに駆け寄った。注文を言うからしっかりメモを取れと、偉そうに言われる。かしこまって客の言葉に神経を集中させながら、伝票の上でボールペンを走らせた。客の言うことを、ただメモに取るだけだ。難しくも何ともない。単なる歯車として、僕は動いているに過ぎないのだ。働いているとは言い難い仕事だった。
佐伯が相手をしている客が、彼女に笑顔で話しかけていた。佐伯も嬉しそうに対応している。接客はこうあるべきという、見本のようだった。それだけで、客にとって店は居心地のよい場所になる。
他人に幸せを与えることのできる佐伯の中に、まだ闇は存在しているのだろうか。人は闇を抱えたまま、あれほど明るく振る舞えるものなのか。
そこで呆然と佐伯の仕事ぶりを眺める僕を、じっと見ている松本に気付いた。彼女と目が合うと、松本は慌てて目を逸らし自分の仕事へ戻る。
井上は事務所の中で、店内のカメラ映像を観察しながら、店員全員にインカムを通して指示を出していた。井上の発案で、回転率を上げるために新しく導入した仕組みだ。
ダボハゼの店長という肩書きはそのままで、実際は井上が店長のような仕事をしている。井上が指示を出すお陰で、店が混み合っても現場が混乱することはなくなった。注文から料理のサービングまで、スムースに事が運ぶ。いつでも井上は、工夫と実行の人間だった。彼は変化を億劫がらず怖がらない。よかれと思うことは素早く実行する。
自分も佐伯のことでは、何かを変えないと駄目だと分かっていた。何よりも、自分自身が変わる必要がある。
「遠藤、ぼんやりするな。十二番テーブルを急いで片付けて。次の客が入る」
インカムから井上の激が飛んだ。僕はまた慌てて、言われたテーブルへ駆け寄る。松本もやってきた。彼女はテーブルの食器をトレーに移しながら言った。
「遠藤君、どうしたの? 待ち客が並んでいるの。今は仕事に集中して」
僕は辛うじて、「ごめん」と言った。
佐伯を見たら、彼女はこちらを見向きもせずに、客の注文を取っている。全てのやり取りは、インカムを通して彼女にも聞こえているはずだ。
情けなかった。全てが中途半端になっている。僕はますます、落ち込むしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます