第25話 母親の勘

 季節は冬になり、佐伯と仙台で再会してからほぼ一年になろうとしていた。街はクリスマスイルミネーションに彩られ、それに釣られるように人の行き来が多くなり、師走のせせこましさがそこら中に滲み出ている。僕は毎日そんな景色を眺め、そこに妙な哀愁を感じながら、忙しくなるバイトをこなしていた。

 そんな日曜日の昼過ぎ、不意に部屋の電話が鳴った。丁度ギターを手に取り、コードを奏でながら新しい曲のアレンジをイメージし始めたときだ。

 電話に出ると、相手は意外にも佐伯の母親だった。多賀城のアパートで渡した電話番号のメモを、彼女はまだ持っていたようだ。それまで一度として電話などないのだから、最初は何事かと僕は驚いた。

 彼女は声を潜めて言った。

『突然の電話で申し訳ありません。実はお目にかかってお話しさせていただきたいのですが、これからどこかで会いすることはできませんでしょうか?』

 あまりに急なお願いを、僕は怪訝に思った。

『何かありましたか?』

『いえ、特別なことは何も。ただ、ちょっと気になっていることがありまして、もしお会いできるならと思っただけなんです』

 時計を見ると、午後一時を少し過ぎたばかりだった。バイトまでは、まだ充分な時間がある。会って話しをしたら、そこからバイトへ直接向かえばいいのだ。

『それでは、二時にお宅へ伺うということで宜しいでしょうか?』

 しかし彼女は、外で会いたいと言った。それで僕は、ある予感を抱えながら、新宿駅東口のアルタ前で落ち合うことを決めた。

 最後に彼女が言った。

『このことは、主人と加奈子に内緒でお願いします』

 一時間後、佐伯の母親と落ち合い、新宿区役所へ向かうところの途中にあるコーヒーショップに入った。濃い目のコーヒーが売りの、ジャズを静かに流す上品な店だ。

 彼女はきちんと化粧をし、生活の垢をあまり感じさせない身なりになっていた。元々垢抜けた人なのだ。そのことで現在の佐伯一家の生活が、板についていることを伺うことができた。

 コーヒーを注文し終えると、「今日は突然、済みませんでした」と、彼女が控えめに言った。まだ用件を知らない僕は、彼女の目を見ながら次の言葉を待つ。

 彼女は自分たちの生活が、ようやく地に足がつく形で動き始めたことを話し出した。働くことができ、誰からも脅かされることのない自由があり、夜は不安に怯えることなくぐっすり眠れる、という話しだ。仕事があるお陰で、随分前向きに生きることができるようになったと感じているようだ。

「一度、人としての尊厳を失った私たちには、今の生活の有り難みが骨身に染みて分かリます」

 コーヒーが届くと彼女は一旦口をつぐみ、ウェイトレスが立ち去ってから、再び言葉を継いだ。

「実は今日は、加奈子のことなんです」

 そういう予感は、どこかにあった。僕はただ頷いた。

「あの子も随分明るくなりました。仕事も張り切ってやっているようで、そのことには遠藤さんに、本当に感謝しているんです。ただ、少し気になっているんです」

「何でしょうか?」

 母親は、話しをどう切り出すべきか迷うようにコーヒーを一口飲み、呼吸を整えた。

「私は、加奈子が仙台で何をしていたのかを知っています。親として、本当に心の痛むことでした。私たちはそれを、今の生活の中で必死に忘れようとしています。けれどあの子の傷は、まだ癒えていないんです。もしかしたらその傷は、一生消えないのかもしれません。全てを忘れるのは、簡単ではないんです」

 僕は、「それは分かります」と相槌を打った。彼女は僕をじっと見つめて続けた。

「遠藤さんもそのことに、わだかまりを持っていらっしゃいませんか? いえ、責めているのではありません。お若いのですから、当然のことだと思います」

 図星に近かった。佐伯はもう、純粋なままの佐伯ではないのだというわだかまりだ。そんなことはないと言いたい気持ちを抑えて、僕は正直に言った。

「僕自身がはっきり認識できていないのですが、おそらくそうだと思います」

 彼女は同意を示すように頷く。

「加奈子は、それを感じて悩んでいるようです。でも、そのことで私から遠藤さんにお願いしたいことはありません。ただ、せめて友人として、暫くあの子を見守って欲しいということだけが、私の願いなんです」

 佐伯が普段の僕から何かを感じて、母親に相談したのだろうか。

「まるで僕が彼女を見捨てようとしているような言い方ですが、どうしてそう思うのか、理由があればお聞かせ頂けませんか?」

 彼女は慌てて、手のひらを左右に振る。

「特に何かがあったわけではないんです。ただ加奈子からあなたと特別親しくしている様子は伺えないし、ときどきあの子が寂しそうに何か考え込んでいるのを見て、心配になリました。理由を聞かれたら、単なる母親の勘と答えるしかありません」

 母親にもはっきり言わないところに、佐伯の抱える闇の深さがあるのだと思った。

「そうですか……。僕は彼女に、友だちになると約束しました。だから彼女が苦しいなら、僕は力になります。むしろ、彼女にはもっと頼って欲しいと願ってさえいます。彼女が望むなら、僕は彼女の傍にいます。それ以上のことは、どうなるか分かりません。彼女次第というところもあります」

 彼女は、意外そうに目を見開いて僕を見てから、静かな笑みを顔に浮かべた。

「ありがとう、遠藤さん。人間って、歳を取って色々なことが分かると、価値観が変わるものなんです。例えば結婚相手の理想が変わるみたいに、自分にとっての大切なことが変わるんです。でもそれは、私の口からあなたや加奈子に伝えても理解できないでしょうから、今は何も言いません。今の私にできることは、あなたや加奈子を信じることだけです」彼女はそう言うと、力なく笑って続けた。「遠藤さんって加奈子が言う通り、正直な方なんですね。今日のお話しを伺い、よく分かりました」

「彼女がそんなことを?」

「ええ、あなたと加奈子が、久しぶりに仙台で会ったという日に。あの日のことは、よく覚えているんです。何ていうのかしら、再会の様子を教えてくれる加奈子は、とても幸せそうでした。あの子は仙台へ移ってから、ずっと塞いでいたんです。それが凄く嬉しそうな笑顔を作って、あなたと夜逃げの話しをしたなんて言っていました。私がそのことで心配すると、あの子はあなたを、正直で信用できる人だから心配ないと言いました。その再会のお陰で今の私たちがあるのだから、本当に不思議です」

「それは井上のお陰です」

 彼女は虚ろな目をこちらへ向け、首を軽く傾げた。

「でも、加奈子とあなたの再会がなければ、私たちはここにいなかった。もっと辿れば、あなたが加奈子の同級生じゃなかったら、何も始まらない。そしてあなたがこういう人でなければ、加奈子があなたに好意を持つこともなかった。始まりは、ずっと前にあったんです。当時主人と私は、浮かれていました。鼻も高くなっていたかもしれません。それも始まりの一つです」

 彼女には、色々なことが客観的に見えているようだ。多賀城でいつでもおどおどしていた彼女は、人としての芯を取り戻しつつあるのかもしれない。

「以前、加奈子さんにも似たようなことを言われました。やはり親子なんですね」

 母親は、その日一番の明るい笑顔を見せた。

「二十年も一緒に暮らしているんですもの」

 その笑顔は、あまりに佐伯のそれと似ていた。僕は目の前の女性に、不思議な親近感を感じることになった。

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