第24話 新生活
佐伯と両親は東京にたどり着いてから、一家三人で中野に暮らし始めた。井上が言ったように、彼の父親が住まいと職を紹介してくれた結果だ。佐伯の父親は小さな印刷屋で働き出し、佐伯は井上自身の口利きで、僕のバイト仲間になった。
慣れない新天地で生活を始めた割には、順調な滑り出しと言えた。そもそも身分や所得の証明がなければ、東京に居を構えることすらままならないのが普通なのだ。アパートの部屋は小さくサラリーが安くても、佐伯と両親は一家安住の地を得たことに感謝していた。僕は丁重にお礼を言われたけれど、それが自分のおかげだと自覚できない自分は、ただただ恐縮するばかりだった。
佐伯の自立計画も、順調に推移した。佐伯にとって居酒屋のバイトは、まるで天職のようだったのだ。本来彼女には、仙台のコーヒーショップで想像したように、静かな気品のある場所で厳かに仕事をするのが似合うと、依然として僕は思っている。しかし彼女が居酒屋で働いてみると、その人柄と容姿が賑やかな居酒屋に溶け込み、彼女は毎日、人を和ませる笑顔を客や同僚に与えた。周囲の評判は上々で、あのダボハゼまでもが佐伯に愛想がよいのはどうしたことだろうと、僕はそのことを訝しく思った。佐伯がいるだけで、例の声出しからダボハゼの時代錯誤的気合いまでもが消えるのだ。まるで彼が、骨抜きにされたようだった。そして、彼の井上いびりも鳴りを潜めた。
ニヶ月も経つと、いつの間にか居酒屋は、佐伯を中心に回り出していた。佐伯がテーブルに行くと、常連客の半数は、佐伯に注文以外の何かを話しかける。名前や出身地や在籍する学校名、住んでいる場所や恋人の有無についてだ。松本の場合はそんなことがないのに、佐伯だとなぜかそうなる。
僕はそんな様子が、不思議と癇に障った。佐伯が変な色仕掛けをしているわけではないけれど、彼女の八方美人ぶりに苛つく自分がいるのだ。元々佐伯には、他人に心を開かせる天性の素質がある。自分も、ライブのあとで久しぶりに彼女と会った際、そういった彼女の魅力に気付いた。しかしそう思ってさえ、佐伯の人気ぶりを見ていると、自分の中に微妙な嫉妬心がうごめき出すのを感じてしまう。それでも僕は、笑顔を作っている。そんな自分が、僕は嫌いでならなかった。
日毎明るくなっていく佐伯の様子を、井上と松本は手放しで祝福していた。佐伯自身は僕が言った通り、屈辱的な被害に遭ったことを忘れようとしていたし、井上や松本は、そもそもそんな忌まわしい事件はなかったように彼女へ接した。おそらく、いつまでもこだわっていたのは、僕だけかもしれなかった。いや、佐伯にしても、簡単に忘れることはできないはずだ。僕と佐伯の中に、その傷跡がわだかまりとして残っていることが、二人の関係に微妙な影響を与えている。そのせいで、仙台で一度だけ唇を合わせた僕たちに、その後個人的な関係の進展が訪れる気配はなかった。
そんな状況の中で、僕には自分と佐伯との間に、空まで届きそうな高い壁が見えていた。佐伯の姿はそこに見えているのに、手を出しても触れられない透明な壁だ。叩きつければ簡単に壊れそうな脆い壁に、僕は拳を付き出すことができないでいた。そして気付いたのは、その壁が自分を取り囲んでいるということだった。僕は再び、彼女に対して壁を作っていたのだ。彼女の人気に対する嫉妬心を閉じ込め、彼女の被害に対する自分のこだわりを封じ込めるために。僕はやはり、悲しいくらい根暗な人間のようだった。
もちろん、佐伯は初めての土地に慣れることで精一杯だろうし、それは彼女の両親も同じはずだった。一家の生活が安定を見せなければ、佐伯も浮かれてはいられないのだ。
彼女の過酷な環境や、それに抗う必死な気持ちは理解できた。それにしても佐伯は、基本的に仕事の休みを取ろうとせず、店側からたまに休むようにと指導されるくらい、何かに取り憑かれたように働いた。
バイトは土日もあるし、僕にはバンドの練習や曲作りがあった。二人で同時に時間を作るのが、とても難しいのだ。たまに井上や松本も一緒に四人で昼食を取り、歓談にふけることはあった。しかし所詮、それだけだった。
こうして佐伯が身近になってみると、逆に彼女との間に存在した絆が、痩せ細っていくような気がした。そして僕は、彼女に公正で寛大な態度を見せながら、その裏でますます殻に閉じこもった。
周辺にヤクザの影は見当たらなかった。彼女たちは、一先ず穏やかな生活を取り戻した格好だ。そうなると次は、父親の借金問題を解決しなければならない。井上は恒久的解決策を模索していたけれど、結果は芳しくないようだった。様々な障害があり、一筋縄ではいかないらしい。
公に動けば、相手にこちらの居場所を突き止められる。所有していた不動産の動向も調べなければならない。大半は差し押さえられ、競売に掛かって跡形もなく消滅しているだろうけれど、きちんと調査しなければ作戦も立てられないのだ。
そのことを片付けなければまるで片肺飛行のように、飛ぶには飛べるけれど、どこか落ち着かない状況が続く。一度階段を踏み外した代償は、殊の外大きかったということだ。
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