第23話 二度目の夜逃げ
多賀城のアパートへ行くと、彼女の両親はまだ警戒していた。僕たちを部屋に引き入れると、外の様子をさっと確認してドアを閉める仕草が、まるで秘密アジトに潜んでいる工作員のようだった。しかし今回の訪問は、佐伯も一緒だ。しかも両親は、佐伯の電話で大方の事情を理解している。二人は以前のように、自分たちに対して警戒心をむき出しにすることはない。
僕たちは、再びリビングルームで向かい合った。人が一人増えただけで、部屋が随分窮屈に感じられる。多賀城はまだ小雨が残り、窓から入り込む光は、陰湿で憂鬱な雰囲気を含んでいた。
しかし母親は、佐伯が元気そうなことに喜んだ。今回は化粧をしているせいで、母親の顔は、僕の記憶に残る精彩な印象を取り戻しつつあった。そして父親は、前回僕たちが訪問した際の非礼を侘びた。
「全てにおいて、加奈子の確認を取らなければならなかったので、本当に申し訳ありませんでした。加奈子のことだけが、私たちの気掛かりだったのです。この子には何も罪はありませんが、私のせいで辛い目に遭わせてしまった。悔いても悔やみきれません」
佐伯が父親の言葉を遮った。
「お父さん、過ぎたことはもういいの。私は大丈夫よ。ここにいる三人のおかげなの。それより今後のことが大切よ」
父親は呆然と佐伯の顔を見てから、気を取り直して口を開く。
「そのことなんだが、私もお母さんも、お前が安全で元気ならそれでいい。お前は彼らと一緒に、東京へ行きなさい。私たちはここに残る」
「それは駄目よ。またヤクザがやってくるかもしれないし、生活だって心配なの。そんな心配を抱えていたら、私だって落ち着かないわ」
それでも父親は頑なに、自分の意見を崩さなかった。
「私たちはアルバイトでもパートでも何でもするから、生活は大丈夫だ。ヤクザがやってきたら、そのときにまた考える」
井上が口を挟んだ。
「他人が口を出して申し訳ありませんが、佐伯さんの杞憂はもっともです。一旦みんなで、東京に身を隠すのがいいと思うのですが。住む場所や仕事の心配をしているなら、それは問題ありません。幸いうちの父親のつてがあり、面倒な書類や手続きなしでどうにかなりそうです。このアパートの整理は、お金で業者に頼みます。どうしても持ち出したいものは、一旦東京の知人宅へ送ります。それなら、次の住所を誰にも知られることはありません」
「しかしそれでは、その知人に迷惑が掛かるかもしれない」
「大丈夫です。送り先は一円連合という大きな暴力団の本部ですから、もし奴らがそれを突き止めたとしても、そのあとは手も足も出ません。先方には既に話しが通っています。何も心配せず、身体だけを東京へ移して頂ければ、あとはどうにでもなります」
父親は、暴力団という言葉に反応し、怪訝な顔を作る。
「また、暴力団と関わるのですか?」
「はい。しかし、相談をした坂田さんという方は、信用の置ける真面目な人です。何も心配は要りません」
佐伯の母親が、横にいる父親の膝に手を置いた。
「お父さん、今は皆さんの好意に甘えましょうよ。それで加奈子の心配も解消するのよ」
父親は「ふむ」と言ったあと、腕組みをして黙り込んだ。彼の眉間に皺が寄り、深い沈黙が頭上から覆い被さる。
一分も待っただろうか、父親が目を開いて言った。
「分かりました。ご迷惑をお掛けしますが、どうか宜しくお願い致します」
父親は自分の両膝に手を置いて、深く頭を下げる。佐伯の顔に、開いたばかりの朝顔のような、明るい笑みが浮かんだ。
「そうと決まれば、早速準備を始めましょう。これからすぐ、引っ越し業者に来てもらいます。県警本部で紹介を受けたところへ、既に相談しましたが、運び出す物以外はその業者が処分してくれます。アパートの管理人には、移動後に連絡を入れた方がいいでしょう。もし敷金があるなら、それは諦めて下さい。引っ越しが事後連絡になりますから」
佐伯の父親は、井上の段取りのよさに驚きを隠さなかった。まだ若い井上が、各方面に話しをつけながら物事を進めることが、彼には信じられないようだ。そうやって佐伯を救ったことにも、父親は納得し始めているようだった。
井上が一本の電話を入れると、引っ越し業者の営業担当がすぐにアパートへやってきた。佐伯の両親が、運び出す物と処分する物を決め、それを営業担当へ伝える。彼はそれぞれに、白は送付、赤は処分というふうに、カラー付箋紙を貼り付けていく。安藤さんの説明で、ある程度の事情を理解している彼は、余計なことを訊かずに作業が速い。
仮に誰かが引っ越しについて訊ねてきたら、依頼者は県警本部で、送り先は東京の一円連合本部と言えばいいと、井上が念を押す。半分以上は本当の話しだ。
多賀城へ来る前、県警本部で受け取った佐伯の百万円から、引っ越し費用を支払った。そして、両親の当面の荷物をまとめ、翌日東京へ出発することにする。
僕たちは既に、仙台のホテルを引き払っていた。いつまでも同じ場所に留まるのは、危険が伴う。その日は定員オーバーを覚悟で、一台の車で白石市へ移動する。そして翌日、佐伯の両親が新幹線で東京へ移動する。
多賀城から白石までは、一時間足らずだ。仙台や多賀城から離れてしまえば、佐伯や両親の危険は随分解消される。それに、お互いが足かせにならないよう、出発まで行動を共にした方がよかった。誰にも尾行されていないことを確認しながら、多賀城を出ることが大切だった。別々に行動すれば、足のつく可能性が高まる。
その場で自分たちが予約している白石のホテルへ、佐伯の両親の部屋を追加でお願いする。まさに電光石火で全てを決め、実行に移された。うかうかしていると、新たに余計なトラブルが出現するかもしれない。
アパートを出たのは、夜の七時を過ぎた頃だった。完全な闇はそこまで迫っていたけれど、突然の引っ越しを決めた割には、随分短時間で全てを終わらせることができた。
井上は、予めアパート周辺を地図で調べ、最初に辺りを車でうろついた。無駄な回り道に同じ車がついてくれば、それは間違いなく尾行者だからだ。僕たちは車の外を、注意深く見つめた。
助手席には大柄な佐伯の父親が座り、後部座席に僕、松本、佐伯、母親の順で座った。僕の他は女性が三人でも、大人四人は流石に窮屈だ。
定員オーバーのため高速道路を避け、仙台市中心部も通らず、片側一車線の国道や県道を利用することにしていた。街を抜けると車の通りが極端に減り、尾行車の有無を楽に確認できた。
十分足らずで、一切の尾行がないことを確信する。仙台市街地に近い四号線を避け、暫く海側の道を南下し、岩沼市で国道四号線へ合流した。途中のドライブインで夕食を済ませ、僕たちは九時前に、白石市のホテルへ到着した。
白石市は、蔵王の入口として知られる。ホテルは温泉地や蔵王のリゾート地に多くあるけれど、僕たちは駅に隣接するビジネスホテルを選んでいた。佐伯の両親が合流すれば、翌日新幹線を利用するからだ。仮に不都合なことが起きても、何もない田舎より駅周辺の方が、何かと対応しやすい。
白石市まで来てしまえば、倉本に見つかることはないだろう。先ずは安全圏に脱出できたと言えた。その意味でこの逃亡計画は、順調に推移している。
こうなると、今回の計画で井上という司令塔を得たことが、最大の成功だった。彼抜きでこの件は、入口にも差し掛からなかったはずだ。その彼の優秀さは、旅の間中、ずっと自分を刺激し続けている。そして世間知らずな自分の中に、ある種の経験値がじわりと積まれていく。
両親と一緒の部屋に泊まる佐伯は、寝るまでの時間、僕の部屋に来ていた。二度目の夜逃げを敢行した彼女は、元気を取り戻しつつある。東京で生活を始め、地道にお金を稼ぎ、平穏な日々を取り戻すことができたら、彼女はもっと元気になるはずだ。
彼女は自立したあと、どうするのだろう。彼女に自分を頼る必要がなくなれば、今の二人の関係は消滅するのだろうか。
僕にはその先が見えなかったし、想像もできなかった。まっさらな白紙が目の前にありながら、その上に何かを描くことができないのだ。
今も以前も、彼女は精神的に開放されていない。いつも何かに抑圧され続けている。彼女が自分自身の魅力に気付けないことが、その最たる原因に思えた。そして彼女には、このまま気付かずにいて欲しいと願う自分がいる。そうやってこの先もずっと、彼女が自分を頼ってくれたらいいと、僕は心の隅で願っているのだ。
彼女の自分に対する依存心が、僕の心の拠り所になっているのかもしれない。
一体自分は、彼女の幸せを心から願っているのだろうか。それが怪しいことに、僕は気付き始めていた。
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