第22話 倉本の影2

 県警本部を出てから、佐伯の表情は重かった。会話に参加しようとせず、ずっと顔を強張らせている。倉本の件で、ショックを受けているようだ。僕はもっとフランクに、佐伯とそのことを話したかったけれど、井上と松本の前では切り出す勇気がなかった。下手をすれば、彼女をさらし者にしてしまう。こちらにその気がなくても、成り行きで会話がそのような方向へ向かってしまう可能性があるくらい、微妙な話題だ。

 佐伯がしていた仕事に関連することは、もちろん彼女はナーバスになっていたけれど、僕も同じだった。あるいは井上や松本の方が、もっと神経を使っていたかもしれない。いわゆる売春をしていたのだ。本人の意思には関係なく、両親を人質に取られた状況であったとしても、佐伯が自虐的になる気持ちは理解できる。その上倉本という暗い影が、依然としてちらついているのだ。落ち込むなという方が、無理がある。

 僕はホテルへ到着してから、井上と松本に、多賀城へ出発する前に少し時間をくれとお願いした。佐伯と二人だけで、話したかったのだ。

 二人で部屋に入ると、佐伯が先に言い出した。

「倉本の話しを聞いて、失望したでしょう?」

 佐伯には珍しく、棘のある言い方だった。僕がその言い方に驚いて黙っていると、彼女は更に言った。「私のいる世界は、やっぱりあなたのものと違うの。両親の件も、倉本にお願いすれば何とかしてくれるわ。これ以上あなたたちに負担を強いるのは、もう耐えられない」

 佐伯は髪を振り乱したりはしなかったけれど、目が座り言葉は平坦で、吐き出された言葉に一層の冷たい感情が滲んでいた。

「それは、本心なの?」

「本心よ。私はこれから、倉本のところへ行くわ」

 そう言った彼女は、部屋のドアに向かって素早く歩き出した。

 僕は呆然とするばかりで、彼女を止めることができなかった。ドアが閉まり部屋が静まり返ると、彼女の言った、『倉本にお願いすれば何とかしてくれる』という言葉が頭の中で繰り返される。僕はその言葉に、呼吸や瞬きや、そして言葉を発するための身体活動を一瞬で奪われた。

 我に返り慌てて下に降りると、ロビーにもホテル前にも、もう彼女の姿はなかった。外へ出て左右を見回しても、学生やサラリーマンが、何事もないように歩いているだけだ。雨は止んでいたけれど、まだ道路は濡れて黒く光っていた。

 僕は初めて、取り返しのつかないことをしたことに気付いた。もし佐伯が本当に倉本の元へ行ったとしたら、彼女は一体どうなるのだろうか。逆上している倉本に、酷い暴力をふるわれるかもしれない。この件を、一刻も早く井上へ知らせる必要があると気付いた僕は、急いでホテルの中へ引き返した。

 ドアをくぐりロビーに入ったところで、井上がちょうどそこに立っていた。焦っていた僕は、なぜ井上がそこにいるのかをまるで考えず、彼にすがる思いで告げた。

「井上、佐伯がいなくなった」

 井上は僕の言葉に驚きもせず、「分かってる」と言った。 

「佐伯さんは、僕の部屋にいる。今、美香と話しているよ。遠藤の部屋に電話しても出ないから、彼女を探しているんじゃないかと思って来てみた」

 その言葉で、僕の身体から力が抜ける。彼女はまだ、自分の手の届く場所にいるのだ。

「彼女が部屋を飛び出したんだって? たまたまそこでコーヒーを飲んでいて、彼女を見かけたんだよ」彼はロビーの隅にある、喫茶コーナーに目を向ける。「様子が変だったから捕まえたんだ。何があったの?」

「彼女が突然倉本のことを言い出して……」

 僕は部屋で起こったことを、ありのまま井上に伝えた。

 僕の話しを聞いた井上は、今にもご愁傷様と言いそうに顔をしかめる。

「それはきついね。まあ、佐伯さんの気持ちも分かるけど。彼女、泣いていた。今は美香に任せておいた方がいい」

 僕たちはロビーに隣接するコーヒーショップに入り、コーヒーを注文する。テーブルが五つだけの、喫茶コーナーといった小さなショップだ。ポニーテールのよく似合う二十半ばのお姉さんが、一人で全てを切り盛りしている。笑顔の綺麗な、素敵なお姉さんだった。

「佐伯さんの両親のことだけど」

 井上が切り出して、僕は我に返った。佐伯もこんなコーヒーショップをやったら似合うだろうと、その女性と佐伯を重ねて、僕は彼女に見入っていたのだ。

「多賀城へ行って、できるだけ早く東京へ移るようにお願いしようと思っている」

 僕はそのことに「ああ」と、曖昧な返事をした。少し前にあった出来事が、まだ尾を引いている。

「そのことは、佐伯がどう思っているのか分からない」

「彼女にも、両親の安全が大切だ」

「分かるけど、方法論の問題だよ」

「まだ、佐伯さんの言ったことにこだわっているの? そんなの、本心じゃないに決まってるじゃないか。ここで遠藤がぐらついたら、全てが台無しになる」

 井上の言葉に、文句じみた響きの全くないことが、僕をますます落ち込ませる。井上はものをはっきり言うけれど、決して攻撃的ではない。当たり前のことを当たり前に言うから、彼の言には妙な説得力がある。そこに思いやりさえ感じられるから、こちらはぐうの音も出ない。

「それはそうだけど……」

「そうだけど……、なに? もう、どうでもいい? さっきの慌てぶりは、そうは見えなかったけど」

 どうでもいいわけはなかった。しかし、井上には言わなかったけれど、その朝に初めて彼女と唇を合わせ、彼女に対する自分の気持ちが、ある種の輪郭を見せ始めていた矢先の出来事だ。抑制仕切れない憂鬱とも怒りともつかない負の感情が、自分の底でうごめいている。

「遠藤、あの倉本という男に嫉妬してる?」

「そんなわけないじゃないか」

 僕は即座に否定しながら、心の内ではそうかもしれないと思ってしまう。

 井上は、僕の嘘を無視して言った。

「彼女がなんと言おうと、佐伯さんの心は遠藤を向いている。彼女が倉本と出会う前から、そして今でも。遠藤の気持ちも同じだ。見ていれば分かるよ。だったらそれでいいじゃない。後で後悔しないように、彼女を最後まで助けようよ」

 僕は自分がどうしたいか分かっていながら、すぐに返事ができなかった。こういうのを、男の見栄と言うのだろうか。全てを見透かされている恥ずかしさもあった。僕はようやく答えた。

「井上の言う通りだよ。井上には本当に感謝している。ありがとう」

 僕はコーヒーが乗るテーブル越しに、感謝の気持ちを込めて頭を下げる。井上はふぐのような丸い顔に、笑みを浮かべた。

 暫くすると、松本と佐伯がやってきた。佐伯はばつが悪そうにうつむき加減で、松本が佐伯の背中に手を添え寄り添っていた。佐伯はテーブルの脇にくると、椅子に座らず僕に向いて頭を下げた。

「ごめんなさい。私、遠藤君に酷いことを言った。でも、本心じゃないの。みんなに迷惑をかけて、それで苦しくなって……」

 そんな佐伯の姿に、僕はいたたまれない気持ちになる。一番嫌な思いをして苦しんでいるのは、佐伯なのだ。

「そのことはもういいよ、分かってるから。それに、迷惑じゃないよ」

 彼女は呆然と立ったまま、無言だった。

「ねえ、座ってコーヒーでも飲まない? 怒っていないから、大丈夫だよ」

 僕は、自分の隣の椅子を引いた。佐伯は「ありがとう」と控えめに言い、ようやく隣へ座った。ショップのお姉さんが注文を取りにくる。井上は何事もなかったように、話題を変えた。

「一時間後にホテルを出発して、多賀城へ行きたいんだ。佐伯さん、御両親にアパートへ伺ってもいいかを確認してくれないかな。話しは今日安藤さんから聞いた件だよ」

 佐伯は頷いたけれど、なぜか浮かない顔をしている。それに気付いた松本が言った。

「遠慮は要らないわよ。私たちたちは、あなたの役に立つことができたら、それでいいんだから」

 佐伯はうつむいて暫く黙り込んだけれど、観念したように顔を上げた。

「違うの。実は私、お金の心配をしてるの。私はお金を持っていないし、両親もあまり持っていないと思う。ごめんなさい、こんな話しをして。でも、話しが先に進んでも、お金がなければ折角みんなで動いたことが無駄になる。私はそれが怖かったの」

 佐伯は、そんなことを話さなければならない状況を、恥じているようだ。しかし、井上が言った。

「さっき安藤さんから電話があって、岡本から百万円を現金で受け取ったらしい。それを後で貰える。東京へ行ったら、佐伯さんのお父さんには、うちの親父が仕事を紹介してくれることになっている。住む場所も親父の紹介でどうにかなりそうだ。佐伯さんは、僕たちと同じ居酒屋でバイトできたらいいと思ってる。佐伯さんがよければ、社長に頼んでみるよ。それで、当面の生活は大丈夫だと思うけど」

 井上の計画には、抜けがない。岡本からお金を取って欲しいとお願いした時点で、彼は先のことをよんでいたのかもしれない。僕もそれまで考えていたことを表明した。

「僕も三十万くらいなら持ってるし、月々の分だって少しくらい助けることができる。だから心配は要らないよ」

 松本も言った。

「あとのことは、またゆっくり考えたらいいわ。私たちはいつでも相談に乗れるわよ」

 驚いた顔で話しを聞いていた佐伯は、両手で顔を覆い、とうとう泣き出してしまった。そして指の隙間から、「ありがとう」という言葉が漏れる。彼女にとって、ハードルは一つではないのだ。一つをクリアすれば、別のハードルが現れる。その度に頼り切るわけにはいかないと考えるのは、当然のことかもしれない。そのプレッシャーは彼女にとって、決して小さくはないだろう。まして一人で全てを抱え込んできたのだ。

「佐伯、どうにかなるよ。心配なことがあれば、遠慮せずに言ってくれたらいい」

 僕の言葉に松本が、「そうよ、その通りよ」と被せる。佐伯は手で顔を塞いだまま、かすれた鳴き声を漏らして何度も頷いた。

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