第21話 倉本の影1
目覚めると、酷い雨が降っていた。空は黒く分厚い雲に覆われ、しずくが激しく伝う窓を通した外は、七時を過ぎているとは思えないくらい暗かった。
仙台へ来て、何度目の朝だろうと指折り数えると、五回目だった。ここで初めての雨だ。昨夜吉報が届いたというのに、まるで街が泣いているようだった。
佐伯はシャワールームで、朝食へ向かうための身支度をしている。僕がベッドを抜け出すときに目覚めた彼女は、「おはよう」と声をかけてから、パジャマ姿でシャワールームに入った。ショップの店員が選んだいちご模様のパジャマは幼すぎて、案の定佐伯に全く似合わなかった。彼女には、モノトーンの幾何学模様がよかったのではないかと僕は思い、そんな感想を抱く自分に奇妙な違和感を覚える。着ているのは、かつてクラスの人気者だった佐伯なのだ。その彼女が、当時日陰者だった自分の前にパジャマ姿を晒している。今更ながら、なぜ? という疑問がないわけでもなかった。
「今日は酷い雨ね」着替えた彼女が、窓の前で僕に並んだ。「これが雪なら、ロマンティックなのに」
彼女は雨を疎んでいるような、寂しい顔付きになる。
「雨は嫌い? 僕は好きだよ」
「私は嫌い。鬱陶しいもの」
「僕はその鬱陶しさが好きなんだ。自分のいる空間が、閉鎖的に感じられるほどの酷い雨がいい」
彼女は窓の外へ向けていた視線を、驚いたように僕へ向けた。
「どうして?」
「研ぎ澄まされる気がして、物事に集中できるんだよ。僕にとって、曲作りには最適な環境なんだ」
激しい雨になると、僕はいつも色々なことを諦め、ギターを手に取り曲を作った。すると、時間の経つのが速かった。気付くといつも、三時間や四時間はあっという間に過ぎている。ただし、結果の良し悪しは別だ。出来具合は、インスピレーション次第だった。集中するとか時間をかけるとか、そういったものには関係しない。それでも僕は、不意に湧き出るひらめきが、そうした集中する時間に関係していると信じている。だから時間をかけて結果が出なくても、それを無駄だったとは考えない。
「結局僕は、根暗なんだよ」
佐伯はじっと僕を見つめて言った。
「素敵な根暗よ」
彼女は僕に向けた視線を、逸らそうとしなかった。僕もそれから、逃げることができなくなった。
彼女が目を閉じる。雨がとめどなく伝う窓の前で、僕たちは初めて、唇を合わせた。
四人で朝食を済ませ、再び県警本部を訪れるために外へ出た。ホテル周辺に、怪しい気配はなかった。念の為、前日と同じようにタクシーを使うことにする。
心配だったのは、むしろ県警本部の方だった。県警本部長が動いていることは、もはや周知の事実となったのだ。もし相手が見張るとすれば、おそらく本部の方だ。そして自分がヤクザなら、そんな危ない場所で事を起こさず、先ずはターゲットの宿泊ホテルを突き止めようとするだろう。つまり、自分たちが県警本部へ現れた事を知られず、帰りに後をつけられないことが大切なのだ。
雨脚は弱まっていたけれど、タクシーに乗り込む際、濡れるのが気になるくらいの雨量が残っていた。車が発進してから僕と井上は、絶えず車の後ろや横を確認した。
県警本部には、十五分もかからなかった。入口で停車せず、そのまま建物を一周してもらう。どうしても、慎重にならざるを得なかった。相手の嘘や報復を考えなければならない。仙台を離れるまで、気を緩めてはならないのだ。
井上が、朝食の際に言った。
「何事も、山場を越えてからが大切なんだ。上手くいったと思い詰めが甘くなると、全てが台無しになる。それにもしかしたら、まだ山場を越えていないのかもしれない」
その通りだ。僕にも井上の考えることが、先読みできるようになっている。
県警本部に到着すると、前日と同じように本部長室へ通された。安藤さんは、相変わらず上機嫌で僕たちを迎えてくれる。
「何度もご足労頂いて、申し訳ありませんなあ」
井上は、ソファーへ座る前に言った。
「いえ、こちらこそ無理なお願いばかりで、申し訳ありません。昨日はありがとうございました。それで今日は、昨夜の会談の様子を詳しく伺えると思っているのですが」
お互い向かい合って座ると、安藤さんが話し始めた。
「昨夜お伝えしたように、彼らは佐伯さんのご両親に関わることや、お嬢さんをあの店で働かせることから一切手を引きます。今後彼らの脅しはありません。これは、岡本組長が約束しました。下の者にもしっかり徹底しろと言っておきましたので、この点は問題ありません」
井上が、間髪入れずに確認した。
「彼らは、簡単に応じたのですか?」
安藤さんが、ふむと頷いて言った。
「奴らは、佐伯さんの件で私が動いていることを、非常に不思議がっていました。私が佐伯さんと、一体どんな繋がりがあるのか、ということです。ある程度のことは、正直に言いました。お嬢さんの友人が、有力な警察中央幹部に強いコネがあり、その筋から直々に依頼が入ったと。つまり、この件で下手を打てば、間違いなく警察組織全体を敵に回す、そうなれば日頃の行状全てを詮索され、お宅の組織運営に著しい支障をきたすとね。これは単なる脅しではなく、色よい返事をもらえなければ、実際にそうなると私は思っているんです。ねえ賢治君、そうでしょう?」
井上は言った。
「その通りです」
安藤さんは、嬉しそうに笑った。
「実はですな、昨日岡本と話しを着ける前に、お父上と報告がてら電話で話しましてな、そのとき総監が、賢治君は相当執念深くて手をやいていると話されておりましたよ。あの一円連合トップにもコネがあるとかで、賢治君は、その辺の下手な組長よりも強力じゃないですか。岡本にはね、今や全国を牛耳る一円連合トップまで出てくる、今回の黒幕は、それほどやばい人だと教えてやりました。これに彼はかなりびびりましてな、もう借りてきた猫のようでしたわ」
また高笑いをした安藤さんは、ここでお茶を喉へ通し、その先を続けた。
「ここまでは予定通りなんですが、二つほど、解決仕切れなかった残件がありましてな、それをお伝えしなければならず、本日ご足労願ったわけです」
ここで安藤さんは、僅かな間押し黙った。不意に水の流れが堰き止められたような、突然の沈黙が部屋全体を包み込む。この先、何が飛び出すのかという緊張が漂う中、安藤さんが説明を再開した。
「一つは、佐伯さんのお父上がお金を借りた、清水興行というヤミ金のことです。佐伯さんはそこと繋がりのある辻本という人間に見つかり、そしてローズマリーへ引き込まれた」
佐伯は無言で頷く。
「実は辻本は、今回の件を、清水興行へ一切連絡していないんです。彼は清水興行の人間ではありません。辻本は盛岡の笠井組という小さな組の一員で、笠井組は清水興行の下請けをやっているようですな。それで借金取り立てを担当していた辻本が、佐伯さんを知っていた。ところが小さなところですから盛岡では中々食えず、辻本は岡本を頼って仙台へ来ていました。彼は姑息な男でしてな、借金の肩代わりと言いながら、佐伯さんの稼いだ金を、全部岡本と一緒に吸い上げていたんです。理由は岡本に恩を売ることと、遊ぶ金欲しさです。つまり今回の件に、清水興行は全く関与していません」
井上が口を挟んだ。
「ということは、清水興行からの借金は何も変わらず、夜逃げの状態そのままになっているということですね」
「そうです」
「しかしそれは、前の状況と何も変わらないのですから、特に問題というわけではないと思うのですが」
「それはその通りです。そして我々は単なる借金問題で、踏み倒した金に目をつぶれとは流石に言えない。元々、そこまで警察が介入することはできません。ここでの問題は、辻本が清水興行へ、改めて佐伯さんの居場所を伝えてしまう可能性があることです。辻本も、清水興行の件では、警察が迂闊に動けないことを知っています。岡本は佐伯さんから手を引くと約束しましたが、清水興行が動くことに彼は関係ありませんし、手を引けとも言えない。ならば辻本が、今度は清水興行へ恩を売り、尚かつおこぼれを頂戴するため彼らをけしかけてもおかしくないということです」
佐伯の顔が、青白くなる。しかし井上は、淡々としていた。
「それで、もう一つの問題は何でしょうか?」
安藤さんの顔が、心持ち深刻になる。
「こちらの方が、少し厄介でしてな。佐伯さん、あなたは倉本龍二という男をご存知ですか?」
その名前に、佐伯が肩を震わせる。青白くなっていた彼女の顔が引きつり、彫像のように固まった。言葉を出せない彼女の代わりに、安藤さんが続ける。
「その様子では、ご存知のようですな。倉本は安岡の兄貴分で、倉本組組長です。仙台では、狂犬として名の通る武闘派です。我々も、彼には手をやいている。その倉本が、血眼になって佐伯さんを探しているらしいのです。安岡は、あなたが倉本の女だと言っていました」
佐伯がすかさず、「違います」と大きく声を上げた。それで安藤さんが、佐伯を見つめたまま一瞬押し黙る。
「あなたの言いたいことは分かります。倉本が一方的にそう考えているだけで、あなたにそのつもりはないわけですね。しかし問題は、彼がそう思い込んでいることなのです。安岡に、倉本をどうにか抑えられないかと頼んでみましたが、無理だと言われました。私との会談のことを伝えれば、倉本は萎縮するどころか逆上します。彼はそういう男です。国家権力など通用しない。刑務所に入ることなど、鼻にもかけない奴です。幸い倉本は、あなたの両親のことを知らない。そのことは、安岡の口から漏れることもありません。それだけは約束させました。しかし、もしあなたが倉本に見つかれば、どうなるか分かりません」
倉本というのは、仙台初日の夜、国分町で見たメルセデスの男ではないだろうか。そんな直感が働いた。佐伯を金で買った男……。僕の中で、憎悪に似た感情が顔を覗かせる。
井上が、ソファーから半身を乗り出した。
「お話しは分かりました。辻本という男は、笠井組を裏切っていたわけですから、それで脅しをかけて口止めしてはどうでしょうか」
「それは私も考えました。それで、岩手県警にも連絡を入れて、清水興行と笠井組を調べています。安岡にも、辻本を押さえるように頼みましたが、何分そいつは、信用のおけない奴でしてな」
井上が言った。
「なるほど。念の為、佐伯さんのご両親には、宮城を離れてもらった方がいいようですね。倉本という男の件についても、佐伯さんを仙台から連れ出してしまえば、当面は大丈夫です」
安藤さんは、ゆっくり頷いた。
「それで、あなた方が仙台を離れるのは、いつになりますかな?」
「今日の午後に多賀城へ行き、佐伯さんのご両親と今後のことを相談します。その上で、早ければ今晩、遅くとも明日には仙台を出ます。申し訳ありませんがそれまで多賀城で、現在の警護を継続して頂けませんか。倉本のことは、こちらでも考えてみます」
「警護の件は了解しましたが、倉本のことで考えるというのは、一体何を?」
「それはまだ分かりません。場合によっては、知人にお願いするかもしれません」
「実はお父上に、あなたが危ない領域に立ち入らないよう、気を付けて欲しいとお願いされているのですよ。それで、ちょっと気になりましてな。今日のお話しは、お父上に報告しても構いませんか?」
井上は、まるで意に介さず言った。
「構いませんよ。どうせ東京に帰れば、長い説教ついでに根堀葉掘り訊かれるんですから」
僕たちは安藤さんに礼を言い、県警本部を後にした。直ぐにタクシーを捕まえ、ホテルで自分たちの車へ乗り換え多賀城に行くことにした。
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