第20話 取り引き

 応接室に戻り一時間も待つと、廊下で会った婦警の野村さんが現れて、再び本部長室へ案内された。

 部屋に入るなり安藤さんは、相変わらず人懐こい笑顔を僕たちに向けた。

「お時間を取らせて、申し訳ありませんでしたね。ちょっとごたごたがありましてな」

 ソファーを勧められて四人で腰掛けると、彼が早速切り出した。

「多賀城のアパートに、動きがありましたよ」

 佐伯が驚いて、身を乗り出す。安藤さんは、まあまあという具合に、手のひらをこちらに差し出しながら言った。

「大丈夫です。しびれを切らした奴らが、警護の警官に詰め寄ったようですが、抑えましたよ。ただ奴らは、所轄の制服巡査をなめているので、本部からマル暴担当刑事を送りました」

「では、両親には何もなかったのですね?」

「ええ、ご心配には及びません。組長の岡本からは、早速抗議の電話が入りましたがね。どんな権限で、うちのもんの邪魔するんだと、奴は憤慨してましたよ。それをじっくり教えてやるからと、今晩一緒に飯を食うことにしました。まあ、丁度よかったと言えなくもないですな」

 井上が言った。

「それで今日の話し合いは、上手くいきそうですか?」

 安藤さんは口を結び、ふむと鼻から息を吐く。

「私は話し合いなどしません。今お話しした通り、私は奴に説教するつもりです。佐伯さんのお話しを伺いました。それで私は、久しぶりに大変怒っているわけですよ。岡本が反省しなければ、私は奴の組を潰すつもりで乗り込みます。一応警官とうちの荒くれ刑事を数名連れていきますから、どつきあいになってもどうにかなるでしょう。そういうことですから、今日はホテルで吉報をお待ち下さい。もちろん未払い賃金の件も、きっちりねじ込みます」

 安藤さんの意気込みを聞いて、僕たちは警察本部をあとにした。部屋を出る間際、彼に念を押された。

「今日は国分町で奴と会います。話しがつくまで、その辺には近寄らない方がいい」

 ホテルへ戻ると、佐伯は早速自宅へ電話を入れた。警察で、両親は大丈夫と言われたけれど、自分で確かめるまでは心配なのだろう。母親の元気な声に安心した佐伯は、その日の警察での出来事を、静かに報告していた。

 用心して、夕食は再び井上の部屋でコンビニ弁当だ。

「東京へ帰る前に、もう一度牛タンを食べたかったわね」と松本が言う。

 その言葉に、佐伯が箸を止めた。

「私のせいで、ごめんなさい」

 松本は、慌てて取り繕った。

「あっ、そんな意味じゃないのよ。それに今回の旅行目的はあなたのことだから、無事に佐伯さんを仙台から連れ出せたら、それが一番なの」

 井上も弁当を頬張りながら言った。

「本当にそうだよ。美香は食い意地が張っているからな。牛タンなんて、いつでも食べることができる」

「分かってるわよ。それにこうやってみんなで弁当を食べるのも、遠足みたいで楽しいわね」

 一人で食べるコンビニ弁当は味気ないけれど、おかずを交換しながらみんなで食べると、確かに遠足のようで美味しい。

 佐伯は自分の財布をバーに置いてきたため、無一文だった。だから彼女の必要なものは全て僕が支払うつもりでいたけれど、井上も松本も、そんなことになったのは自分たちのせいだからと、進んでお金を負担してくれる。佐伯にはそういった気持ちが嬉しいらしく、すっかり二人に溶け込んでいた。そして、二人のような友だちができたことを、とても嬉しいと言った。井上や松本は、控えめで優しい性格を持つ佐伯をとても気に入ってくれた。

 食事が終わり、佐伯と二人で僕の部屋へ戻った。佐伯が経費を節約しようと言い、彼女の部屋はキャンセルしている。元々彼女は、一人で寝るのが不安だと言った。

 彼女の怖いという気持ちは理解できたけれど、ホテルの一室はそれなりの安心感がある。仮に不穏な連中がホテルを突き止めても、部屋まで押しかけて騒ぎ立てるのは無理があった。

 部屋に入ると、彼女はベッドの端に腰掛けて言った。

「こんなふうに友だちと楽しい時間を過ごしたのは、初めてかもしれない」

 僕は部屋の窓から外の様子を一通り眺め、異常がないことを確認してカーテンを閉めた。細かく全てが見えるわけではないけれど、五階の部屋からホテル前の通りを一通り見渡すことができる。

「佐伯はいつも友だちに囲まれて、楽しそうに見えたけれどね」

「あなたたちは、それとは全然違う。心配になれば東京から来てくれるし、警察にも一緒に行ってくれる。家族的で安心感があって、信頼も信用もできる。これからも二人は、ずっと友だちでいてくれるかしら?」

「大丈夫。井上も松本も、佐伯のことが好きみたいだよ」

 佐伯は何かに気付いたように、顔を上げた。

「あなたは、どうなの?」

 不意の問に、図らずも僕は慌ててしまう。

「嫌いなら、心配してこんなところまで来ないよ」

 彼女は、穴の開くほど僕を見つめてから言った。

「つまり、嫌いじゃないということよね。今はそれで充分。欲張り過ぎると、またよくないことが起こるから」

 冗談混じりで言った佐伯は、また人を無防備にさせる笑顔を見せた。それで僕はつい、もしかしたら自分が、佐伯のことを好きかもしれないと言いそうになる。しかし僕は、佐伯の複雑な事情を抱え、全てを飲み込む自信がなかった。

 売春をしていた彼女を、僕は本当に許せるのだろうか。友だちとして、嫌なことは早く忘れろと言うのは簡単だった。しかし自分はどうなのだろう。そういったことを、自分もきれいさっぱり忘れることができるだろうか。全て忘れて、彼女を受け入れることができるだろうか。もし自分の中でこだわりが残った場合、それでも彼女のことを好きでい続けることができるのか。そこに自信を持てないまま、僕は自分の気持ちを曖昧に彼女へ伝えるのが怖かった。

 佐伯は、そんな僕の心の内に気付いているのかいないのか、何かを思い出したように言った。

「私ね、遠藤君が仙台まで来てくれたことに、本当に感謝しているの。それがなければ、私は自分の生活を変えることができなかった。このまま流されていたら、自分は一体どうなるんだろうって不安で一杯なのに、一人じゃ何もできなかったの」

 彼女は自分の気持ちを素直に表現することができる。それは簡単そうで、実は難しいのだ。

「僕も一人じゃ何もできない。井上や松本がいないと、今回の件はお手上げだった。それで井上に、『お前はどうしたい? もし佐伯さんを助けたいなら、結果を出せ』って言われるんだ。こんなふうに物事が動いているのは、全部あの二人のおかげだよ」

 時間は夜の八時を回っていた。外からは、街のざわめきが部屋の中へ届いている。

「全部が二人のおかげってわけじゃないわよ」

 いつも控えめな佐伯にしては、珍しく強い口調だった。

「二人は元々、私を知らないのよ。それがどうして、こんなふうに関わってくれるの?」

「それは、僕が相談したからだよ」

「そうでしょう? 遠藤君の相談がなかったら、二人は何も動いてくれなかったのよ。その相談は、どうして起こったの? 私はそれが、遠藤君の気持ちから始まったと思っている。だから私は、遠藤君に感謝しているの。物事の始まりには、きっかけが必要なのよ。遠藤君は、それを作ってくれた。だから物事が進展したのは遠藤君のおかげなの」

「そんなふうに言われると、恥ずかしいよ。物事を上手く進めるには戦略と戦術が必要なんだ。井上がそれを全て考えている。つまり井上がいなければ、物事が上手く進まない」

 佐伯はくすくすと笑った。

「どちらも正しいのよ」

 そう言われると、どれが欠けても上手くいかないのだから、佐伯の言うことは正しいのかもしれない。

 会話が一段落を見せ、沈黙に身を沈めていると、佐伯が再び話し出した。

「お父さんはね、本当はバブル景気が終わることを、きちんと分かっていたの。ペーパー上でどんどん利益が膨らんで、だから銀行がお金を借りてくれっていつもお願いしにきて、証券会社も推奨株リストを持参して懸命に誘ってた。でもお父さんは、実態のないマネーゲームは危ない、株の動きが変だ、もう限界だって言ってた。だから抱えている不動産を、できるだけ安く売り抜けようとしたみたい。でも間に合わなかった。含み益が消えると、決算書はたちどころに債務超過へ変わり、銀行も慌てて資金を回収しようとした。証券会社の口座にも損失補填をしなければならないのに、突然お金が回らなくなって生活に支障をきたし出したの。当座をしのぐお金が必要になって、お父さんは銀行に何度も足を運んだわ。けれど、全く相手にしてもらえなかったみたい。結局利息は高くても、仕方なくヤミ金に生活費を借りたのよ。どこの銀行も相手にしてくれない中で、ヤミ金の人は親身に話しを聞いてくれたらしい。彼らはいざとなれば、私たちから何が取れるかを値踏みして、借金額を釣り上げていったようなの。それで借金はみるみる膨らんで、返済額が大きくなった。そのうち毎月の利息支払いも滞るようになると、今度はヤクザが現れた。それから私たちは、毎日怯えて暮らすようになったわ。お父さんが、自分の見通しが甘かったと言って、いつもヤクザに謝って、そのあと私たちに謝るの。お父さんは可愛そうなくらい、日毎卑屈になっていった。そのうちヤクザが、私に目を付け出した。単なる脅しかもしれなかったけど、それで突然お父さんが、夜逃げしようって言い出したの。これが盛岡での経緯よ。そのあとは仙台で水商売に入って、それがきっかけで今の状況になった。これまでのことは、やっぱりきちんと話しておいた方いいと思って」

 僕はその話しを、一切口を挟まずに聞いた。佐伯は説明に感情を込めるわけではなかったけれど、やや険しい真剣な目を僕に向け、説明を澄んだよく通る声に乗せた。

「噂には聞いていたけど、銀行や証券会社は酷いね。いつでも自分たちのことしか考えない。僕は佐伯が学校を去ったとき、佐伯は被害者だと思っていたんだ」

「バブルに踊らされたのは悪いけど、踊らせた人がいたのも事実なの。ただ、お金を借りたり株を買う判断をしたのは、あくまでこちら側よ。そのことでは誰にも文句は言えないし、言うつもりもないってお父さんが言ってた。だから、酷い目に遭っても仕方がないの」

 佐伯はそう言って、僕の部屋は何かの追悼式のようにしんみりとした。

 

 夜の十時、井上から電話が入った。

『安藤さんから、上手くいったと連絡が入った。ただし問題が残っているから、明日、県警本部で詳しく話したいらしい』

 僕はそれを、まだ電話が繋がっているうちに、佐伯へ伝言ゲームのように伝えた。

『向こうは、お金を払うと約束したようだ。受け渡しは安藤さんが間に入ってくれる』

「そう、ほぼ満額回答だね」

『今のところはそうだね。でも、まだ問題があるようだから、念のため外出はしない方がいい』

「分かってる。色々ありがとう」

 安藤さんは、予告通りに吉報をくれた。佐伯はその連絡を受け、もう一度多賀城へ電話を入れ、安藤さんから届いた話しを両親へ伝えた。声のトーンが幾分高くなり、佐伯がこの結果を喜んでいることが伝わってくる。

 佐伯には、松本と一緒にここへ逃げ込んでからというもの、一枚多く衣を身に着けたように、本当の感情をどこかに押し留める気配があった。彼女が受けた傷がそれほど大きいことを、僕は理解できる。しかしそのことに対し僕は、何かしらの不安を胸の奥底に抱えていた。それが何かを自分自身で把握することができず、得体の知れない黒い渦が、僕の中に浮遊していたのだ。

 しかしようやく、それが解消されようとしている。彼女の変化が、それを物語っていた。だからこそ彼女は、何があったのかを自主的に語り始めたのだ。

 母親との会話の中で彼女は、僕と一緒に東京へ行きたいことを報告した。母親の声は聞こえなくても、会話の流れで、母親が賛成していることが分かった。

 佐伯の父親の顔が脳裏に浮かぶ。彼はこの結末を、どう思っているのだろうか。こんなに上手く事が運ぶのは変だと、警戒心をまだ解いていないのかもしれない。警察が本気を示せば、ヤクザとはこうも簡単に折れるものなのか、僕にも分からなかった。そこには拍子抜けのような、簡単過ぎる意外性がある。

 彼らは圧力に屈服した振りをして、警察の熱が冷めた頃に再び動き出すつもりなのか。それとも彼らには、メンツを捨ててでも折れるしかない何かがあるのか。

 圧力に屈することは、彼らにとって死ぬことと同じであるはずだ。明日は安藤さんに、是非その辺りのことを詳しく聞きたい。余りに簡単過ぎて、払拭仕切れない不安が残るのだ。

 そういう意味で、佐伯を仙台から遠ざけることには充分な意味があった。問題は、彼女の両親だ。いっそ、一家揃って東京へ移るのが得策ではないかと思えるけれど、今後の生活を考えれば、それが簡単なことかどうかは分からないのだ。

 東京へ帰る前に、もう一度彼女の両親を交えて協議すべきかもしれない。

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