第18話 県警本部1

 ゆっくり起きた僕たちは、先ず松本に、佐伯の着る服を借りなければならなかった。佐伯はドレス姿で逃げてきたから、着替えがなかったのだ。彼女は自分のアパートへ戻るわけにもいかず、下着も含め、着替え一式を買わなければならない。

 しかし、それが問題だった。佐伯はもちろん、松本も店の関係者に面が割れている。おそらく相手は、多賀城のアパートやその周辺、仙台市街に目を光らせている。そのくらいは、組織の人間を動員してやっていそうだ。とすれば、二人を街へ連れ出すのは危険だ。しかし、僕と井上の二人だけで、女性の下着や着替えを選べるはずもなく、これには少々頭を悩ませた。それに、東京ナンバーの車は目立つために危険だ。となれば、一刻も早く仙台を出たいけれど、警察で事情を説明し、佐伯の両親についてどう対処するかをはっきりさせないことには、彼女も迂闊に東京へ逃げるわけにはいかない。

 とにかく厄介なことだらけで、普段自由気ままに生きている自分には、目が回るだけで頭は回らなかった。

 しかし、かつて修羅場を経験している井上は、こうした厄介事はそういうものだと平然としていた。

「衣類や下着は店員に歳格好を伝えて、適当に見繕って貰えばいい。自分たちで選んでレジに持っていくより、その方がずっと気楽だよ。警察へ行くのはタクシーを使おう。佐伯一家の安全については、警察の偉い人に、組長クラスと取り引きしてもらうようお願いする。警護には限界があるから、手打ちにしてもらうしか手はない」

 僕は井上の思慮深さに感心しながら、一つだけ確認した。

「取引って、警察はそんなこともするの? 仮に正義を捻じ曲げることになっても?」

 彼は頷いて即答する。

「警察も、全てに目くじらを立てていたら、人手がいくらあっても足りないんだ。だから元々、大きな獲物を追う傾向がある。どうせ手が回らない部分で、如何にも目をつぶってやるってことにしたら、取引になりそうでしょう。この件は警察上層部が絡んでいる、依頼を飲めない場合は警察全体を敵に回すことになるって言えば、向こうは折れるしかないと思う」

 それが大人のやり方であり、社会の仕組みというものなのか。そうだとすれば、僕はこれから社会へ出て、一人で生きていく自信を失ってしまいそうだ。

「井上ってさ、その歳で結構えぐいね」

「おいおい、誰のためにやってると思ってるの。それにさ、ヤクザに正攻法は通用しない。それは経験済みだよ」


 僕と井上は、通りの様子を見ながら街に出た。こちらが気を付けて見ていたせいもあるけれど、アーケード街でその筋の人を多く見掛ける。それが佐伯や松本を探しているように見えてしまうのだ。向こうにとっては、二人に警察へ駈け込まれでもしたら厄介だ。そうなれば、バーで管理買春していることが、訴えという形で公になる。そして警察は見て見ぬ振りができなくなるから、ヤクザは必死になる。

 僕や井上は面が割れていないとはいえ、それらしい人と遭遇するのは気持ちのよいものではなかった。僕たちはできるだけ近場で、速やかに買い物を済ませてホテルへ戻った。

 コンビニで買った弁当で昼食を済ませ、タクシーで宮城県警本部へ出向く。ヤクザが所轄署を見張っている可能性はあったけれど、県警本部までは手が回らないだろうという予想は、どうやら当たっていたようだ。タクシーを降りる際、一通り周辺を見回したけれど、怪しい人物は見当たらない。

 県警本部は宮城県庁と続くビルにあり、人の出入りも多く、それらの人に紛れてしまえば自分たちの存在は目立たない。

 県警本部に入って分かったのは、紹介された安藤さんというのが、県警本部長ということだった。流石に警視総監のコネは強力だ。

 安藤さんは、絨毯敷きの広い本部長室で、僕たちを出迎えてくれた。彼は警察官には珍しい顎髭を持つ、四十後半の温厚そうなおじさんだった。中肉中背で腹がやや出っ張り気味のため、全体が丸い印象だ。

 彼は僕たちに会うなり、開口一番こう言った。

「多賀城のアパートは、今のところ異状なしです。ところで、井上警視総監のご子息というのは、どちらですかな?」

 井上が、お世話になりますと自己紹介すると、安藤本部長は豪快に笑って言った。

「井上さんには、かつて随分世話になりましてね、よく知ってるんですわ。今では警視総監なのに、申し訳なさそうに電話をしてきて、うちのバカ息子がと頼まれましてな。あの方は偉くなっても、昔とちっとも変わりませんな」彼はここでも豪快に笑い、話しを続けた。「なんでも事件性があるとかで、お父上に切り込まれたそうじゃありませんか。いやあ、中々どうして、お若いのに大したもんだ。ローズマリーについては、調べておきましたよ。まあ、立ち話しもなんですから、どうぞお座り下さい」

 見た目の印象通り、人当たりのよい人だった。あとで井上に聞いた話しによると、安藤さんという人は、警察組織でも異色の人材だそうだ。顎髭を持つ警察管理職は、安藤さんくらいではないかということだ。

 ソファーに座るなり、安藤さんが佐伯と松本を見比べて言った。

「ところで佐伯さんというのは、どちらのお嬢さんですかな?」

 佐伯が私ですと頭を下げると、安藤さんは相変わらず笑顔で言った。

「あとで婦警と二人だけで、詳しい事情をお聞かせ願えませんか? できるだけ力になりますから、申し訳ないが少し時間を下さい」

 随分丁寧な対応だ。センシティブな話しになるだろうと、聴き取りに婦警を当ててくれるのも、ありがたい気遣いだった。緊張気味だった佐伯も安心したようで、顔に安堵の色が浮かんでいる。

「さて、ローズマリーというバーですが、あそこは地元の岡本組という組織の直営店みたいなもので、ママは組長のこれですな」

 安藤さんはそこで、小指を立てた。

「岡本組というのは、東京や関西広域暴力団との繋がりはありません。働く女性をアコギな方法で集めているらしいが、店の客筋が問題でしてな、宮城や中央の財界人や政界人が多いようなんですわ。中央から多く客が来るのは、一回接待で連れていかれ馴染みができたということらしいですが、まあ田舎の方が悪さもしやすいということでしょうな。とにかくまともに検挙すれば、大きな社会問題として取り沙汰されるほどのメンバーが揃っておるようです。それで県警としてもどう対処すべきか、悩んでいるところなんです。もちろん店を潰すのは、わけないのですがね」

 井上が訊いた。

「潰すことには、どんな問題があるのでしょう?」

「先ず、奴らはローズマリーを潰しても、すぐに同類の別の店を立ち上げます。顧客リストを作っているはずだから、場所と名前を変えても彼らは痛くありません。まあ、再度店を立ち上げるのは、お金がかかって手続きも面倒ではあるのですが。新規になれば認可申請が出てきますが、一見普通のバーであれば、そこだけ許可を出さないわけにはいきません。結局奴らは、しぶとく這い上がってくるわけですよ。そうなるのが分かり切っているのに店を潰すつもりで臨むと、佐伯さんの件で交渉を有利に進めることができなくなります」

「交渉についてはお願いしようと思っていたのですが、やって頂けるのですか?」

「もちろんします。交渉というより、裏取引になりますがね。それをしておかないと、佐伯さん一家の安全を保証できません。取り引きしてさえ、数%の危険性が残るかもしれません。どこにでも、跳ね返りという者が存在しますのでね。だから今回は、警察中央上層部の意向をちらつかせます。もちろん警視総監の名前は出しませんよ。警察中央上層部をちらつかせておけば、少なくとも組長や幹部連中は神経を使います」

「そんな漠然とした内容を、彼らは信じますか?」

「信じますよ、私自身が動くんですから。県警本部長が直接動く理由はそれしかないことくらい、奴らも気付きます」

「失礼ですが、取引の相手は誰で、どんな話しをされますか?」

「取引相手は岡本組長です。こちらの要求は、佐伯さん一家から、完全に手を引くこと。どうですかな? こんな感じで」

 僕は、それでいいと思った。相手が手を引いてくれたら満足だ。しかし、井上は違った。

「それでは足りません」

「え?」安藤本部長はもとより、松本も目を丸くする。もちろん僕も、何かの聞き間違いではないかと思った。

「一体、何が足りないというのですかね?」

「お金です。佐伯さんは、働いた分の給料をもらっていません」

 安藤さんは一瞬目を見開いたあと、眉間に皺を寄せ無言になった。井上の図々しいお願いに、温厚そうな彼が、とうとう腹を立ててしまったと僕は思った。

「もちろん君は、賃金未払いの件が、労働基準監督署の管轄であることを知っているのですよね」

 井上は、頷いた。

「つまり、恐喝でも人身売買でも何でもいいから、奴らを叩いて金を取れと……」

 安藤さんは顎を引き、上目使いで井上の顔を見つめる。僕は井上を、安藤さんに気付かれないよう軽く肘で突付く。しかし井上は、安藤さんを見返して構わず続けた。

「事の発端は親の借金です。彼女は何も関係ありません。しかし奴らは、暴力的に彼女がそこで働くように仕向けた。もしそうなら、せめて働いた分のお金を支払ってもらうべきです」

「なるほど、君の言うことは正しいですね。そして随分人使いが荒いようだ。お父上とは大違いですな」

 安藤さんはそう言うと、髭の上で大きな口を開け、高笑いした。

「君の言いたいことはよく分かりました。彼女から事情を詳しく聴いて、よく検討しましょう」

 交渉してくれるという話しそのものがご破算になることを恐れた僕は、その言葉で一先ず胸をなでおろす。安藤さんは井上の父親とは無関係に、きちんと僕たちに向き合ってくれていた。対応振りには、懐と思慮の深さが感じられる。

 婦警の聴き取りに応じるため、佐伯は別室へ移動した。部屋を出る間際、彼女は口を固く結んだ顔を僕に向け、無言で頷いた。これまで彼女には様々な葛藤があったはずだけれど、その目には何かを吹っ切った、決意のようなものが滲んでいる。芯を伴った、凛々しい顔付きだ。洗いざらい打ち明けて、あとは天命を待つということかもしれない。実際に、僕たちにできることは限られている。

 僕は井上と安藤さんのやり取りを聞きながら、闘うことの難しさを感じていた。世の中には歪みを作る人たちがいて、それを矯正する仕組みを機能させる人たちがいて、両者がせめぎ合いをしている。法律というものがありながら、それを無視し、あるいはすり抜けるアウトローという世界が現実に存在し、その両者の間にはある幅を持つ境界線があるのだ。安藤さんはその境界線上で、佐伯を苦しめた連中と話しをすると言っている。

 僕たちは幸運だった。こうして警察という国家権力に助けてもらえるのだから。強力なコネのおかげで近道を通り、安全に解決というゴールへ近付くことができる。しかしコネがなくても井上は、別の手を考えるだろう。実際に松本のときには、自力でどうにかしようとした。痛い目に遭ったかもしれないけれど、失敗を学習している。そして安藤さんのような立場の人と、堂々と渡り合える。その知見や執念や諸々の原動力は、一体どこからくるのだろうか。

 僕は自分を、苦学生だと自認していた。学費や生活費を、自分で稼がなければならないのだ。他の学生のように、遊びや車を乗り回すためにアルバイトをしているわけではない。それだけに僕は、軽薄で不真面目な学生を軽蔑視していた。

 しかし井上や松本と関わり、自分のそんな考えが変わった。苦学生だろうが軽薄な学生だろうが、そんなことは人の価値を上下させる要素にはなり得ない。親が何であるとか、コネのあるなしも関係ない。井上や松本はコネを使おうが使うまいが、道を切り拓く力を持っている。そして人を牽引する魅力を備えている。加えて思い切りのよさもある。

 一方で佐伯は、お嬢様育ちでありながら、家庭の状況を考慮し今の環境に身を置くことを判断した。それに対する愚痴をこぼさず、周囲を巻き込まないように気を遣い、自分はもがきながらも光を探して前を向いている。そして自分が不幸になってさえ、周囲を幸せにできる笑顔を持っている。

 そんなことを考えながら、僕は自分が、とても小さな人間に思えて仕方がなくなるのだ。

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