第14話 原点

「やっぱり、何かあるわね」

 車が発進すると、松本が即座にそう言った。井上は助手席に座る松本の言葉に反応せず、思い詰めたように前方を凝視してハンドルを握っている。

「あのお母さん、最後に何かを言いかけたでしょう? きっと心配な何かがあるのよ」

 井上は相変わらず無言だ。手詰まり感を覚えているのだろうか。

「せっかく来たのに、収穫がなくてごめん。これ以上二人を巻き込むのは申し訳ない。もう充分だと思う」

「これも想定内よ。そんなこと、気にする必要はないわ」

「佐伯がホテルへ連絡をくれなかったら、この件はもう終わりにしよう。今晩は、僕が美味しい海の幸でもご馳走するよ」

 この状況では、流石のアマゾネスも戦闘モードに入り切れないようで、彼女は無言になった。

 そこで、だんまりを決め込んでいた井上がぽつりと言った。

「収穫はあったよ」

 空振り三振で、バットにボールがかすりもしなかった結果に意気消沈していた僕は、井上の言葉が意外だった。

「え? どんな収穫?」

 松本も同時に同じことを口にした。二人の言葉がピタリと重なり、僕と彼女は思わず顔を見合わせる。しかし井上は、まるで関係ないことを口にした。

「なあ、秋月大吾って作家、知ってるか?」

 そんな人間は、聞いたこともない。しかし松本は、その作家を知っているようだ。

「あの退屈な小説ばかり書く、秋月大吾?」

 自分で訊いておきながら、井上は「よく知ってるね」と言った。だから何だというのだ。僕はもっと、大切なことを聞きたいのだ。

「でさ、その収穫ってなに?」

「だから、秋月大吾だよ。この作家の書いた『夕暮れの哀愁』という本が、さっきの部屋の本棚に、一冊だけぽつんとあったんだ」

「それで?」

「遠藤もこの本を読めば分かるけれど、『夕暮れの哀愁』は、借金が原因で娘をヤクザに取られ、それを色々な方法を使って奪い返すという物語なんだ」

 確かに佐伯は、変なことに巻き込まれている可能性がある。しかし、彼女の姿を目の当たりにしてさえ、そんな話には全く現実味がなかった。

「それって井上は、佐伯がそんな目に遭ってると言ってるの?」

「必ずしもそうとは言い切れないけど、この作者はかなりマイナーで、よほどの本好きじゃないと彼の著作なんて持っていない。でもあそこにあったのは、その本一冊だけだった。それはつまり、その本の内容を知りたくて、取り寄せたってことじゃないかな」

 不穏な空気を感じ取った松本が、口を挟んだ。

「もしその仮定が正しかったら、どうなるわけ?」

 井上は、淡々と答える。

「ヤクザと、対決することになるかもしれないね」

 井上の口調と顔が平常過ぎて、彼が大それたことを言っているようには聞こえなかった。

 しかし僕が唖然とする中で、松本は井上の言葉に慌てたようだ。

「賢治、あんた、自分で何を言ってるのか分かってるの?」

 松本の言葉は、詰問調だった。僕には、彼女がどうしてそれほど井上の言葉へ過剰に反応するのか、今一つ分からなかった。学生がヤクザと対決など、実際にはあり得ないではないか。もしそうする必要があるなら、それはもはや、自分たちの手には負えない事件であるべきだった。

「大丈夫だよ。同じ失敗は二度と繰り返さないから」

 同じ失敗? なんだそれは? そう言えば以前松本が、ヤクザに騙し取られた店舗を、井上が奪還したようなことを言っていた。

「そんなことを言ったって、あなた、今度こそ本当に殺されちゃうかもしれないわよ」

「だからそこは、学習したんだ」

「それでも、危険に変わりないわよ」

 松本の語気が荒くなる。僕は二人のやり取りに、戸惑うばかりだった。

「ちょっと待って。話しを上手く理解できないんだけど」

 松本が、怒った顔をこちらに向ける。

「前に賢治が、私たちの騙し取られた店舗分のお金を、ヤクザから奪い返したって言ったでしょう。そのとき賢治、彼らの事務所に連れ込まれて殺されそうになったのよ」

「そう、あれはちょっと失敗だった。何も知らなかったから、堂々とやり過ぎたんだな」

「堂々って、何をしたの?」

「民事訴訟を起こしたんだ」

「どうやって?」

「簡単だよ。訴状を作って裁判所へ届ければいい」

「それでどうなったの?」

「欠席裁判になって勝った。それでも相手は裁判所命令を無視した」

「それで?」

「今度は裁判所に、強制執行をお願いした。もちろんこれも通って、相手に裁判所の強制執行通知が届いた。それを妨害したら逮捕されるから、相手は僕たちが訴状を取り下げるよう脅迫行為に及んだ。それで、全てを手引きしていた僕がヤクザに捕まった」

 彼は世間話しのように平たい口調で言うけれど、この歳でヤクザに拉致された経験を持つ人間は、滅多にいないだろう。少なくとも、僕の周りには誰もいない。

「それからどうなったの?」

「美香が僕の父親に連絡して、父親が手を回して助かった」

「井上のお父さんって、何をしてる人なの?」

「警察の人」

「なんだよ、それ。まるでドラマや小説の世界じゃないか」

「そういうことは、結構現実にあるんだよ」

 確かにあったのかもしれない。それは分かるけれど、やはり実感がわかない。

 しかし松本は僕のそれと逆で、彼女は井上が言ったら現実になることを疑わないようだ。

「だから彼が言うと、冗談に聞こえないのよ。賢治って本当に危ないんだから」

 もちろん僕は、井上や松本に、そんな危ない橋を渡らせることなどできないと思っている。

「いや。まだ佐伯の身に何が起こっているのか分からないし、もしヤクザが関わっているとしたら、それはもう、僕たちの手には負えないと思う」

 相変わらず井上は、ハンドルを握り前方を凝視しながら言った。

「なあ、遠藤、世の中で大切なことは、結果を出すことだと思うんだ。仕事でも何でも、どうしようもないことはきっと山ほどある。今までも、そしてこれからもだよ。それで大半の人は、頑張ったけど仕方ないって言うんだ。酷いのになると、頑張ったから満足だなんて言う。でも、経過や頑張ったかどうかは重要じゃないよ。結果が全てなんだ」

「井上の言うことは分かるけれど、どうしようもないことはどうしようもないじゃないか」

「それって言い訳になっていない? ここまで頑張りましたって満足して、何かを誤魔化してない? どうしようもないことだからこそ、結果を出すことに価値があるとは思わない? どうにかしたいなら、とにかく考えてどうにかするしかないと思うけど。だから大事なことは、遠藤がどうしたいかだよ。彼女が問題に巻き込まれていたら、遠藤は助けたいかどうか、そこがポイントなんだ。そして答えはイエスかノーでいい。余計な御託は要らない。その答えが原点になる。人は原点を忘れたら、自分が今どこに立っていて、どこに向かっているのか簡単に分からなくなる」

 僕は返す言葉に詰まってしまった。普段井上の内に見え隠れする強さは、きっとこの辺にあるのだ。根気強くてしぶとくて、いつでも何かを考えている。もし井上が何かでライバルになれば、彼は最も嫌な相手になるだろう。そんな人が味方についていたら、逆にこれほど心強いことはない。

 車は空いている四五号線を、順調に仙台へ向かっていた。魚介類を運ぶ冷蔵車と頻繁にすれ違う。仙台へ魚を届け、空で塩釜や石巻、または三陸方面へ帰るトラックなのだろう。しかし、仙台方面へ向かう車線は空いている。

 佐伯を助けたいかどうか、僕は自問した。

 彼女の笑顔や言葉が頭の中を巡る。手紙から伝わる寂しさや、手紙が途絶えて自分がどんな気持ちになったのかを思い起こす。そして全てを思い出す。

「井上、僕は助けたいよ」

 井上は「だよね」と短く言って、更に続けた。「もし小説通りのことが起こっていれば、遠藤の友だちを助ける。起こっていなければ、遠藤が本人と話し合ってどうするかを決めたらいい。それでさ、仙台へ着いたら、次にどうするかを決めなきゃいけない。僕はさっきから、ずっとそれを考えているんだ」

「頼りっ放しで悪いと思うけど、何かアイディアはあるの?」

「ホテルで彼女の連絡を待つという受け身でいくか、それともこちらから積極的に動くか……。受け身でいくと、彼女から連絡がなければそれでお終い。あとが続かない」

「つまり、積極的に動くのがいい?」

「積極的にいくとしたら、何が必要か。先ずは、彼女の身に起こっている事実を確かめたい。それをどうやって調べるかなんだ」

 井上の頭の中には、色々なケースのフローチャートができているようだ。

 そこで松本が、思いがけない提案をした。

「ねえ、私、あの店の面接を受けに行こうか? 折角紅一点で付いてきたんだしさ」

 井上が目を見開き助手席の松本を見た。途端に車が左右に振らつく。それに慌てた井上は、また前方を向いて車を立て直した。

「東京へ帰るのを少し延ばして、ニ、三日働いてみれば、彼女の情報を取れるかもしれないわよ」

 確かに松本の容姿なら、早速今日からお願いできる? ということもあるだろう。

 しかしこの場合、僕が積極的に賛成するわけにはいかない。

「み、美香はちょれでもいいの?」

 やはり井上は、激しく動揺している。発音が変わるから、彼は分かりやすい。松本は笑いながら言った。

「なに焦ってるのよ。私は大丈夫。ただ客の横に座って、笑顔を振りまくだけだから」

 井上は随分渋い調子で言った。

「まあ、すぐにできそうなこともないから、仕方ないか。美香がいいと言うなら、それでやってみよう」

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