第13話 訪問

 目覚めたら、まだ七時だった。部屋のカーテンを引くと、眩しい太陽の下で始動したばかりの、健全な世間の姿が見える。変哲のない、ありきたりな日常的街の姿だ。

 着替えるためにバッグの中をあさると、底の方に、束ねた佐伯の手紙が目に付いた。それまでの、全ての手紙を持ってきたのだ。手に取り封筒を少し眺めてから、それをまたバッグの中へ戻す。

 着替えて、朝食を取るため下へ降りた。

 ホテルのレストランでは、井上と松本が向かい合って座り、既に朝食を食べ始めていた。料金が安い割に、壁際にブッフェスタイルの朝食メニューがたくさん並んでいる。

 化粧がなくても、松本は安いホテルに不釣り合いなくらい綺麗で、レストランの中で浮いていた。その彼女が笑顔を作ると、普段の冷たい美しさとはまた別の、特別な引力を持つ魅惑を放つ。彼女はそれを、朝から僕にくれた。

「おはよう。昨日はよく眠れた?」

「まあ、どうにか眠れた。疲れは取れた」

 嘘ではなく、寝不足の割に頭が冴えていた。洗面をしたとき鏡を覗き込んでみても、顔に疲労の影は見当たらなかったし、精神的にも問題なかった。

 吹っ切れていたというほどではないけれど、打順が回ってくれば、自信がなくても打席に立たなければならない打者のように、僕にも対戦投手を睨めつける程度の意気込みはあった。とにかくバットを力強く降れば、三振かもしれないけれど、ホームランの可能性だってなくはないという心境だ。

 コーヒーにクロワッサンと野菜サラダ、オムレツを取り、二人の座るテーブルに合流する。井上は、味噌汁にご飯の和食を選んだようだ。

「まだ腹の中に牛タンが残ってる」

 そう言って井上は、味噌汁を口の中へ流し込む。

「私も昨日は食べ過ぎた」という松本の前にも、和食が並んでいる。「一日で身体が重くなったみたい。遠藤君は、いつも洋食なの?」

「普段は朝食を取らないんだ。いつもコーヒーだけ」

 井上が黙々と食べながら、独り言をつぶやくように言った。

「遠藤、もし彼女の家に行きたくないなら、僕らはそれでもいいよ」

 彼は、目を合わせてこなかった。

「そうよ。無理することはないわ。私たちは牛タンを堪能できたから、このまま東京へ帰ってもいいのよ」

 強気だった松本までもが、腫れ物を触るように気遣ってくれる。おそらく僕が現れる前に、二人で示し合わせていたのだろう。

 それでも僕は言った。

「ありがとう。でも、僕は行く。やっぱり確かめたい」

 無理をしているつもりはなかった。わざわざ仙台まで付き合ってくれた、彼らへの遠慮でもない。それはあくまでも、利己的な個人的願望に過ぎなかった。

 井上は「気の済むようにすればいいよ」と言い、松本は「そうよね」と、自信なさそうだった。どうやら彼女は、仙台に来ることをけしかけた責任を感じているようだ。そんな場所へ彼女を追いやった自分に、僕の方こそ責任を感じてしまう。

 井上がポケットから折りたたみの地図を取り出し、テーブルの上に小さく広げた。

「今日は十時にここを出よう」井上が地図を指差す。「四五号線を真っ直ぐ進めば、四十分くらいで多賀城に到着する。おそらく彼女の家は、それから三十分もあれば見つかるんじゃないかな」

 彼女の家に行くのはどうでもいいと言った井上は、行く場合を考えて、既に地図で調べてくれているようだ。


 佐伯の住所に到着したのは、予定通り昼前だった。幹線道路の周辺は長閑な田舎街で、近隣までたどり着くのはわけなかった。しかし、住宅街は意外に込み入って、彼女のアパートまで行くにはいくつかの商店で道を訊ねる必要があった。

 それは低層鉄筋コンクリートの、想像していたよりずっと新しいアパートだった。管理人がいるわけでもなく、建物の入口は開放されている。

 三人で建物に入ると、一階居住区の廊下が左右に伸び、正面に上階に上がる階段があった。階段脇のスペースに、郵便ポストが並んでいる。全部でニ十世帯ほどのアパートだ。

 佐伯に教えられた部屋は、ニ〇三号室となっている。そのポストの名札ホルダーは空で、そこからは誰が住んでいるのか確認できない。

 僕が階段を上がろうとすると、井上が別の方向へ歩き出した。

「井上、どこへ行くの?」

「ちょっと待って」と言う彼のあとへ続くと、井上はアパートの外から裏に回り込むように進み、「あったあった」と言った。

 アパートの横壁に、電力メータがずらりと並んでいる。

「前に集金のアルバイトをしたことがあってね、よく居留守を使われるんだ。そのときこうして電力メータを確認すると、不在かどうか分かる場合がある」

 エアコンか、電力を大きく消費する何かを使用しているらしく、ニ〇三号室のメータがまあまあの勢いで回っていた。

「この回り方は、部屋に誰かいる」

 メータを見上げる井上の後ろで、息を飲む松本と目が合う。僕は怖気付いていた。こうして陰で部屋の様子を探ったりすることに、罪悪感が去来する。

 しかし井上は、淡々と「さあ、行こうか」と言った。

 再びアパートの正面に回り、階段を上る。先頭を歩くのは井上で、言葉を失った僕と松本は、金魚の糞のように彼の背中を追った。自然と、できるだけ靴音を立てないように気遣い、足をそろそろと踏み出している自分に気付く。

 いよいよ僕たちは、佐伯の部屋の前に立った。表札はなく、ベージュにペイントされたスチール製の頑丈なドアが、自分たちを拒絶するように閉じられている。ドアの横に窓と換気扇があるけれど、すりガラスで中の様子は分からず、声や物音は皆無で人のいる気配は感じられない。このドアの向こう側に、果たして佐伯がいるのだろうか。

 井上が、ドアの脇にある小さな呼び鈴のボタンを、躊躇いなく押した。部屋の中から、すぐに反応はない。もう一度ボタンを押しても、同じだった。

 井上は「中には絶対誰かがいるはずなんだ」と言うと、激しくドアをノックし、「ごめんください、どなたかおりませんか?」と叫んでまたドアを叩く。それでも反応がないと、今度彼は、脇の窓ガラスを叩き始めた。

 そこまで騒ぎ立てると、ようやく中から物音が聞こえ、ドアの向こうから「どちら様ですか?」という、か細い女性の声が聞こえた。

 井上が、僕に目配せする。

「佐伯加奈子さんの友人で、遠藤といいます。ここは佐伯さんのお宅で宜しいでしょうか?」

 少し間があいて、「加奈子はおりませんが」という返事が届いた。

「すみません、少しだけでもお話しを伺いたいのですが、ドアを開けてくれませんか?」

 ドアの向こう側がしんとなり、また間があいた。どうやらドアを開けるべきかどうか迷っているようだ。三人で顔を見合わせ、中の様子に注意を向けながら相手の反応を待つ。

 ようやくドアロックの外れる音が聞こえ、僅かにドアが開いた。まだドアチェーンが掛かったままだ。

 顔を覗かせたのは、四十半ばの見覚えのある女性だった。彼女はかつて、放課後に学校を訪れ、教室にやってきたことがあったのだ。そのとき彼女は、佐伯に職員室の場所を訊ねていた。すらりとした身体に薄いピンクのスーツを着て、ブラウンに染めた髪には女優がするようなウェイブがかかっていた。見るからに上流階級の奥様が教室を去ったあと、「誰? お母さん?」と騒ぎ立てる仲間に佐伯が囲まれた。「凄い綺麗、羨ましい」という騒ぎの内容で、僕はその女性が佐伯の母親であることを知ったのだ。佐伯の母親が去ったあと、教室の中に微かなローズの香りが残っていた。

 しかし小さな隙間から顔を出す女性は、顔こそ見覚えがあるものの、ほつれた髪は白髪混じりで、化粧のない顔には怯えとも疲労ともつかない表情が浮かんでいる。そこにかつての精彩は、見る影もなかった。

「突然お邪魔して申し訳ありません。僕は遠藤といいます。盛岡の高校で、加奈子さんの同級生でした」

 彼女は僕に向けた虚ろな目を、僅かに見開いた。

「実は加奈子さんと手紙のやり取りをしていたのですが、二ヶ月前から突然音信が途絶えたので、心配になって来てしまいました。あとの二人は僕の友人です」

 彼女は眼球を動かし、井上と松本を横目で確認した。

「せっかくですが、加奈子は本当にいないんです」

「それでも構いません。少し話しをさせて下さい」

「話しといっても……」

 そこで部屋の中から、男性の低い声が届いた。

「上がってもらいなさい」

 母親は一瞬、逡巡の表情を見せたけれど、すぐに諦めたようだった。

 玄関に入ると、佐伯の父親という男性が廊下に立っていた。やつれたように見える母親に比べ、父親は背が高く身だしなみのよい、会社重役のような雰囲気を纏っている。

 リビングは小ぶりで、そこに小さなダイニングキッチンが繋がっていた。廊下に部屋のドアが一つあり、リビング続きに襖で仕切られた部屋もあるようだ。家族向けアパートなのだろう。リビングの脇にはベランダがあるけれど、近隣の家々が間近に迫り見晴らしはよくない。以前の豪邸に比べれば見劣りするけれど、築年数が浅くみすぼらしさはなかった。

 僕たちはソファーをすすめられ、父親が僕たち三人に向き合って座った。母親はキッチンで、お茶の準備をしているようだ。

「申し訳ないが、加奈子は今、ここにはいないんです。それで、盛岡で一緒だったとか?」

 低く落ち着いた声だ。夜逃げをして、世間から身を隠している人には見えなかった。

「はい。彼女が転校したとき、同じクラスでした」

「それがどうして、今頃ここへ訪ねて来るのか、聞かせてもらえませんか?」

 僕は現在東京で暮らしていること、ライブ出演で仙台へ来て佐伯に会ったこと、それから手紙のやり取りをしていたことを、簡単に説明した。

 そこへ母親が、トレーにコーヒーカップを乗せ戻ってきた。

「ときどき加奈子に手紙が届いていましたが、あなたがお相手だったんですね」

 母親は、相変わらず暗い表情をしている。

「はい。彼女からは二週間に一度のペースで手紙がきていました」

 母親も父親に並んで、ソファーに腰を降ろす。父親がコーヒーカップに指をかけたとき、母親が身体を前のめりにして、不安そうに口を開いた。

「差し支えなければ、どんなことを手紙で話していたのか、教えてもらえませんか?」

 その口調には、かつて教室の中で見た溌剌とした印象は微塵もなく、弱々しい蚊の泣くような声だった。それが見た目のやつれた感じと相まって、悲壮感さえ漂っている。

 僕は、彼女が友だちを欲しがっていたことや、手紙の内容は普段の世間話しが中心だったことを彼らに伝えた。

「彼女は、仕事や家族のことは何一つ教えてくれませんでしたし、僕も特に気にしないようにしていました。そして突然、彼女の手紙が途絶えたんです。僕は彼女に何かあったのではないかと、心配になりました。しかし僕と彼女は、ただの文通相手のようなものです。だから心配になっても、どこまで踏み込んでいいのか分からず、色々迷いながらここまで来てしまいました」

 前日国分町で偶然見かけた彼女のことを、僕は伏せた。

 母親は僕の話しに、今にも泣き出しそうに顔を曇らせた。

「あなたは加奈子にとって、ただの文通相手ではないかもしれません。あの子はあなたに、特別な感情を抱いている気がします」

 父親がその言葉を遮った。

「止めないか。そんなことは、お前の口から言うことじゃない」

 それまで風が吹けば飛びそうに頼りなかった母親は、少しむきになって言った。

「ごめんなさい。でも私、盛岡にいた頃、加奈子の口から直接聞いたんです。引っ越す前の晩、あの子は自分の部屋で泣いていたの。理由を訊いたら、遠藤さんの名前が出てきたわ。だから私は、加奈子に謝ったの」

 その言葉で父親は眉間に皺を寄せ、不動明王のような顔で黙り込む。

「加奈子が仙台で遠藤君に会った日、あの子は本当に明るかったの。そんなこと、とても久しぶりだったんです。だから私、何があったのか訊きました。そしたらあの子、とても嬉しそうにあなたと会ったことを教えてくれました。仙台に来てから加奈子には不憫なことばかりで、私もその笑顔を見て本当に嬉しくなったんです」

 それがどうして昨晩の光景に繋がるのか、僕には分からなかった。井上や松本も、おそらく同じように思っているだろうけれど、彼らは第三者としての立場をわきまえ、口をつぐんでいる。

「それで彼女は、元気なんですか?」

 その問いで、両親は一瞬戸惑いの表情を見せて、石像のように固まった。僕の中に、何かあるという直感が駆け抜ける。

 父親が、崖っぷちで辛うじて踏みとどまるように、声を出した

「済みません。東京からわざわざお越し頂いたのに、詳しいことは、私共の口からお伝えできません。加奈子の居場所も本人に確認しなければ、伝えていいのかどうかさえ分からないのです。本当に申し訳ありません」

「病気や怪我をしているわけではないのですよね」

「はい。そういう意味では、元気にしています」

 ということは、違う意味では、彼女は元気な状態にないということだ。しかし、改まってそれをただす気にはなれなかった。聞いてはならないことが、そこに潜んでいそうだからだ。

 昨晩の佐伯の姿が、僕の頭の中を巡る。きっと両親は、佐伯がどこで何をしているのかを知っている。もう少し食らいつきたい気持ちはあったけれど、おそらく両親からは、もう何も聞き出すことができないだろう。

「分かりました。もし彼女に連絡がつくようであれば、僕の泊まっている仙台のホテルへ電話をくれるよう、伝言してもらえませんか」

 僕は、ホテルの部屋から持ってきたマッチを、彼らに差し出した。そこに、ホテル名と電話番号が記載されている。

「明後日、東京に帰る予定です。彼女が会いたくなければ、それで諦めます。とにかく彼女に病気や怪我がないことが分かり、それだけでも安心しました。今日は突然の訪問で、申し訳ありませんでした。これで失礼したいと思います」

 父親は安堵したように頷き、母親はますます不安な顔を作った。

 玄関を出るときだ。母親があのか細い声で、何かを言いかけた。

「あの……」

 それを父親が、「もう止めんか」と牽制する。

 母親は、話しかけた言葉を喉の奥へ飲み込み、両手を前で重ねて深々と腰を折った。

「あの子のこと、どうか宜しくお願いします」

「何かあれば連絡下さい」

 僕はメモに東京の自宅電話番号を書いて、佐伯の母親へ渡した。

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