第10話 音信不通
佐伯と手紙のやり取りを始めて、七ヶ月が経過した。季節は梅雨となり、しっとりとした雨が続いている。
相変わらず彼女は手紙の中で、踏み込んだ内容を一切書いてこなかったけれど、その頃は自分も、余り気にならなくなっていた。
せっかく井上から貰ったアドバイスも役立てず、それは自分の理解を深めるためだけに留めていた。踏み込むなら覚悟が必要という、井上の言葉が身に沁みたせいでもある。
自分は一体、何を恐れているのだろうと、僕はときどきぼんやり自問した。
自分は大して捨てるものなどない、ケツの青い学生だ。持っているものと言えば、好き勝手なことを言って好きなことをやれる時間や自由くらいのものだ。お金に関しては不自由なくらい持っていないのだから、何かを失う恐れがあるとしてもたかが知れている。何をどう失っても、人生を左右する大事になるとは思えない。それで何を恐れるのか。
そうやって何度も考えているうちに、僕は一つのそれらしい回答を探り当てた。
僕は佐伯を失望させ、傷付けることが怖いのだ。そしておそらく、彼女がそうなることで自分が傷付くことを恐れている。
彼女の問題へ中途半端に踏み込み、ヒーロー気取りでそれらしい助言をし、行詰ればそれらしい言い訳を並べて退散する。僕の登場に期待した彼女は、期待の分だけ失望し、僕はそのことに傷付く。逆に上手くいけば、自分はヒーローになれるのだ。
しかし元々、死んでも彼女のヒーローになりたいという覚悟や情熱があるわけではない。軽薄な動機しかないなら、彼女の抱える闇の領域へ、迂闊に踏み込むべきではないのだ。
そんなふうに僕は自分を納得させ、薄っすらと引かれた線を、注意深く越えないようにしていた。
しかし八月に入った辺り、定期的に届いていた彼女の手紙がピタリと止まり、僕の状況が変わった。
最初は彼女も忙しいのだろうと思っていたけれど、九月に入っても、彼女は音信不通だった。
七月の中過ぎに届いた彼女の最後の手紙を読み返してみても、内容に特段変わった様子はない。
八月終わりに出した僕の手紙は、彼女に届いているはずだった。手紙が戻ってこないということは、彼女にそれが渡っているはずなのだ。その手紙に僕は、便りが途絶えたことを心配していると綴った。それでも佐伯は、沈黙を保ったままだった。
そうなると、くだらない理屈を並べて納得させた自分の心が揺らぎ出し、不安が自制できないほどの大きなうねりを見せて、僕に襲いかかった。
やはり彼女は女王様で、高貴なお方によくある気まぐれが、いよいよ顔を見せ始めたのだろうとか、そっちから頼んでおいて随分身勝手な奴だとか、自分の中で佐伯を随分罵ってみたけれど、結局は、あの素直で純真な佐伯のことだから、きっと何かあったのだろうと心配になる。
所詮は他人事で、このまま永遠に手紙が途絶えたとしても、問題はないはずなのだ。しかし音信不通という状態は、自分の中で大きな問題として日毎膨張する一方だった。
僕はそんな自分に
例の友だちのことで話しを聞いて欲しいと言うと、井上は相変わらず寝起きのような顔で、ぼっそり、いいよと言った。
翌日、前と同じコーヒーショップへ早目に行くと、今度井上はまだいなかった。僕は濃い目のコーヒーをちびちびと飲みながら、手持ち無沙汰で彼を待つことになる。
窓を通して、ぼんやりと雑踏を眺めた。外は残暑が厳しく、何人かの年配女性が日傘をさして歩いている。薄い革の鞄を持つサラリーマンも、沢山歩いていた。あと二年もすれば、自分もそこに仲間入りするのかもしれない。もしそうなら、自分はどんなサラリーマンが理想だろうかと、行き交う人たちの中に該当者を探してみる。以前は間違いなく、高級そうな皺のないスーツを着こなしている人が理想だった自分は、井上を知ってから、その理想像がぶれ出していることに気付く。結局人の能力や生き方や幸せ感や人間性などの諸々は、一見では分からないものなのだ。
僕はそのことを、数分後に、再び思い知ることになる。
外を眺める最中、誰かが立ち止まる気配で振り向くと、そこにアマゾネスがいた。
「あれ? 奇遇だね」
彼女は珍しく、薄っすらとした魅惑的な笑みを、神秘的美形の顔に浮かべて言った。
「奇遇じゃないわよ」
そこへ井上が二人分のコーヒーを運び、目の前で一個をアマゾネスに渡したから、僕は白昼夢の中へ入り込んだような気になる。
「井上、どういうこと? 松本と一緒に来たの?」
彼は普通の態度で、僕の不思議をまるで理解していないように「そうだよ」と言った。
井上と松本は、これから社内会議でもするように、二人並んで平然と僕の向かいに座る。
僕には二つの疑問があった。
「井上、どうして松本と一緒なの?」
「遠藤の相談事に、彼女が必要だから」
その瞬間に、また一つの疑問が生まれるけれど、先ずは最初の疑問を解消する必要がある。
「彼女が必要だとして、どうやって松本を誘ったの? い、いや、二人が一緒であること自体が、意外なんだ」
この質問にも、井上は一桁の足し算を答えるように、平然と言う。
「僕と松本は一緒に暮らしているんだから、コーヒーショップに二人で来ることなんて朝飯前だよ。実際普段から二人で、朝食セットを食べにコーヒーショップへ行くし」
聞けば聞くほど混乱した。やはりこれは白昼夢だろうかと、僕は周囲の現実を改めて見回した。
黒で統一された制服を着る店員が、来店客のオーダーを取りコーヒーを淹れている。ジャズが軽く流れ、会話や食器の当たる音が聞こえる。全てが匂いや音の伴った鮮明な映像で、夢には程遠い現実だった。
「どうして松本が必要なの?」
松本が心配そうに言った。
「私が来たのは、やっぱり迷惑だった?」
普段は怖い雰囲気を持つ彼女が、随分殊勝な態度で言うから、僕はここでも慌てた。
「そういう意味じゃなくて、必要なら松本に話しを聞いてもらうのは構わないんだ。何て言うかさあ、その、事情が飲み込めなくて戸惑っているだけだけど」
「遠藤に無断で悪いとは思ったけど、松本には大体の事情を話してる。彼女が必要な理由は、前に話した破産を手伝った人というのが、実は彼女の母親だからさ。つまり彼女は、遠藤の友だちと近い体験を持っている。それに遠藤の話しは、どうも男女の話しになってきているように思えるんだ。そうなると、僕にはさっぱり分からないんだよ」
僕はただ頷いて、井上の話しを聞いた。それでも自分の顔には、まだ不完全燃焼の影が残っていたのだろう。松本が更に詳細を教えてくれた。
「私の父親がインド人なのは知っているわよね。インド人ビジネスと言えば金融なの。インド人は世界中で、両替やお金を貸したり送金のビジネスをしている。お父さんはお母さんと私のために、そのビジネスを日本で始めようとしたけど、規制が多すぎて難しかった。それでお母さん名義で小さなコーヒーショップを開いて、そこで金融まがいのビジネスを始めたのよ。けれどヤクザが出てきて、色々妨害された。あげくコーヒーショップ店舗は彼らに騙し取られ、銀行の借金だけが残ったの。外人と女子供だけというのは、彼らにとって格好の餌食なのよ。彼らのやり口は巧妙で、警察も上手く動けなかった。それで私が彼に相談して、母親が自己破産した。けれど彼は、私たちを騙したヤクザから、奪われた店舗分のお金も取り返してくれたの」
井上はなんとなくフグを思わせる顔で、淡々と補足する。
「いや、僕だけじゃ無理だったんだ。ちょっと親父の力を借りて、最後はどうにかなったんだけどね。それがなかったら、結構やばかった。親父には、こっぴどく叱られたよ。素人が付け焼き刃で手を出す世界じゃないって」
「お父さんとお母さんは今、インドで暮らしているの。それで私は、彼のアパートに居候してるってわけ。ようやくみんな、平和な暮らしができてるの」
それがただの居候なのか、それとも世間一般で言う同棲というものなのか分からなかったけれど、大体の事情が飲み込めた今、それ以上の詮索は不要だった。
「そういうことなら、迷惑とは思うけど、二人で話しを聞いてくれるかな」
僕は佐伯の手紙が突然途絶えた経緯を、彼女の最後の手紙に書かれていた内容も含め、彼らに伝えた。
佐伯の最後の手紙は、それ以前のものと様子は大きく変わらず、もう手紙のやり取りを止めようという意思は、微塵も感じられないものだった。ちなみに文末には、いつものように、また手紙書きますと記されている。
「ちょっとミステリアスよね。仕事も家族のことも、全てが謎でしょう? ねえ、その女性はどんな人なの?」
「正直で素直で、悪い人じゃないと思う」
「あくまでも可能性としてだけど、遠藤君を騙そうとして、上手くいかなそうだから手紙のやり取りを止めたということはない?」
「騙すと言っても僕は金のない学生だし、実家も貧乏で資産らしい資産はないよ」
「ねえ、賢治、こんな場合、遠藤君を上手に利用するとしたら、何かある?」
松本が井上を下の名前で呼んだ。つまり二人は、僕が思う以上に親密な関係なのかもしれない。
「僕たちは二十歳を過ぎているから、借用書や保証人にサインをさせれば金にはなるけど、それは大したことないなあ。まあ、それで追い込んで遠洋漁船に乗せてしまうとか、あとは内蔵を取り出して売るとかすれば、少しはまとまった金ができるけど。それって一般人のやれることじゃないけどね」
「ふーん、つまり騙すには、物足りない相手ってことね」
井上は椅子の背もたれに深く寄りかかり、腕組みをしながら答える。
「それはそうだよ。若い女の子なんだから、騙すならお金持ちのおじさんの方がいいに決まってる」
それには僕も同意だ。それに佐伯の場合、自分に近付いた理由はそれではないと思う。第一最初は、佐伯の家がまだ金持ちだった頃で、二度目は彼女が偶然僕のバンドのライブを知ってのことだ。成り行きから見て、計画性があったとは思えない。
「遠藤君は、その子が好きなの?」
そう訊いた松本の顔は、アマゾネスが深刻になったときのもので、冗談の欠片もなかった。そんなことを真剣に問われても、正直僕は困ってしまう。
「これは大事なことよ。好きでもなんでもないなら、これは他人の事情として無視すればいいし、好きならあとで後悔しないように、もっと調べるべきだと思う」
井上が怪訝な顔で言った。
「調べるって?」
松本は鋭い目を瞬きもせず、完璧な確信を持っているかのように答える。
「私たちは一緒に、仙台へ行くのよ」
井上が、慌てて背もたれから身体を起こした。
「私たちって、僕と美香も?」
既に戦闘モードに入っているアマゾネスは、勢いよく頷いた。もうあとには引けないわよという、決意みたいなものを滲ませて。本来それは、僕が率先して持たなければならない覚悟であることは明らかだった。
「さあ遠藤君、どうする?」
アマゾネスの鋭い視線が突き刺さる。改めて自分の胸に問い掛ける必要はなかった。僕は佐伯が心配で、こうして二人を巻き込んだのだ。
考えてみれば、仙台でライブの終了後、僕が食事に行く途中でライブハウスに引き返したのと同じ状況だ。あのときは引き返したのに、更に踏み込んだ現在、知らん振りを決め込む手はない。
僕は松本に、頭を下げた。
「ありがとう。協力をお願いします」
「それじゃあ、早速仙台旅行の日取りを決めないとね。私、東北へ行くのは初めてだから、ちょっと楽しみ」
彼女は魅惑の笑みを顔に浮かべ、余り物事に動じない井上が、目を丸くして「まじに?」とたじろいだ。
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