第9話 井上の経済学
翌日、バイトが終わってから、僕は早速井上に声を掛けてみた。
「ちょっと相談があるんだけど、明日バイトが始まる前に、どこかで会えないかな?」
珍しい僕の誘いに、井上は短く「えっ?」とあからさまに驚いた顔を作ると、すぐに表情のないぼんやりした顔に戻った。
「珍しいね。まあ、遠藤だったらいいよ」
彼は内容も訊かずに了承してくれる。
遠藤だったら? アマゾネスは別として、他の人間の誘いであれば断ったということだろうか。僕は意外と、井上から信用されているのかもしれない。
井上は、少し人間嫌いなところがある。彼は明確にそれを表明しないけれど、普段の彼には、他人との関わりを避けているようなところがあるのだ。確たる自分の世界を持っていながら、それはあくまでも自分だけの世界で、そこへ他人を引き込むことはせず、しかし頑なに拒むわけでもない。合理的な理由がありさえすれば、彼は自分の世界を他人と共有することができる。居酒屋の経営改善を提唱したときの彼が、それだった。
ある日の開店前ミーティングの最中、突然店のオーナーが現れた。彼は、完全に禿上がった丸々としたスキンヘッドに不釣り合いな、ベージュのダブルスーツを着込んでいた。上背も横幅もある彼は、一見その筋の人に見える。
ダボハゼは、前触れもなくやって来たオーナーの姿に驚き、声出し練習を中断すると、途端に腰を低くしてご機嫌伺いのモードに入った。
しかしオーナーは、明らかに不機嫌を顔に書いていた。彼はアルバイターが居並ぶ前で、手に持つ書類を振りかざし、顔を赤くしながらダボハゼに苦言を並べ始めたのだ。
「おい、この経営数字は一体何だ。まるで利益が出ていないじゃないか」
ダボハゼはさっと顔色を変え、引きつり気味に答える。
「お、思っていたより客足が悪いんです」
「場所は悪くないはずだ。現に近場の店には客が入っているじゃないか。そんなことは調査済みだ」
「その、実際に客足が悪いのは確かでして……」
「だからその原因は何なんだ? それを突き止めて改善するのがお前の仕事だろう」
「あっ、はい。ごもっともで」
そこまでくるとダボハゼは完全に浮足立ち、口調もしどろもどろになっている。しかし、オーナーは容赦なかった。
「そのうちよくなるだろうと我慢していたが、我慢にも限度がある」
そのとき、おそらくみんなが同じことを予想したはずで、僕はオーナーの口から、『お前はもう首だ』という最終通告が飛び出すと思った。
しかし誰もがにわか修羅場を固唾を飲んで見守る中、意外にもそこで次の言葉を発したのは、井上だった。
「お言葉ですが、それを考えるのはオーナーの責任でもあるのではないでしょうか?」
言われたオーナーはもちろん、ダボハゼやアルバイターたちも井上の言葉に唖然とし、まるで時間が止まったようにその場がしんとなる。誰もが、何が起こったのか理解できないといった様子だった。
オーナーはゆっくり首を回し、井上をじっと見る。
「お前は何だ?」
ダボハゼが慌てて答えた。
「彼はアルバイトの一人でして」
オーナーはそう答えるダボハゼを見向きもせず、射抜くような目付きで井上を睨めつけながら言った。
「随分偉そうなことを言うがな、俺はこいつに、店長としての責任範疇を明確に伝えてある。一、常に店の客や従業員の安全を確保すること。ニ、客室、調理場や料理の衛生を確保すること。三、従業員の労働環境法令を遵守し、従業員の健康に留意すること。四、店の利益を確保すること。これが店長責任四か条だ。それでもまだ文句があるか?」
井上は珍しくひるまなかった。
「文句はありませんが、具体的な問題があれば、叱責するのではなく、具体的な方策を相談すべきだと思います」
「ほう、いちいちもっともなことを言うじゃないか。それならお前には、何かアイディアがあるのか?」
井上が初めて躊躇する。彼はダボハゼを見たけれど、店長の反応は曖昧だった。仕方なさそうに井上が言った。
「ないわけではありません」
「それならここで説明してみろ」
井上は少し待って下さいと言い、従業員控室から大判の茶封筒を取ってきた。そして封筒から一枚の紙を引き抜き、それをオーナーに渡す。
それにさっと目を通すオーナーの顔が、みるみる食い入るような目付きに変わり、周囲のことなど忘れたように、彼はペーパーに集中しだした。
僕たちは何が起こっているのか分からず、それをただ見守った。ダボハゼも同様に、オーナーが何か言い出すのをじっと待つけれど、彼は暫く顔をあげなかった。
オーナーは五分もそうして、顔をあげたかと思うと、ペーパーを井上に戻しながら言った。
「どうしてこんなものを持ってるんだ?」
「大学で経済を勉強しているので、これは自分の自由研究です」
「なるほど、分析はよくできている。が、対策と改善計画が中途半端なのはなぜだ? この数字の意味を説明しながら言ってみろ」
「はい。当面の課題は客単価と回転率です。客単価は単純に価格を上げれば客の満足度は下がります。それで普段の料理に、料金が高く収益率のよい料理を混ぜます。小額であれば、全体の価格を上げてもよいと思います。加えて、クロスセルとアップセルを導入します。それにはセットメニューを開発し、原価率のアップを防ぐためにポーション変更を行います。アップセルのためには料理のサイズを増やし、客にお得なLサイズを勧めます。これらで現状の客単価千五百円をニ千円に引き上げます。それに今の回転率は一しかありません。これを一・五まで引き上げます。方策は、若干テーブルを狭くすることと、料理を出す時間の短縮です。今使っている椅子は、適度に座り心地が悪く、そのままでよいと思います。回転率はニくらいを目指せそうですが、そこまでやるとなれば、今度は料理人とバイトを増やす必要があり、そうなると人件費とのバランスがまた悪くなります。当面はぎりぎりのところでやり、結果を見ながら次の作戦を練った方が得策だと思います。以上が概略ターゲットですが、具体的な計画は、料理人やバイトも一緒になって作る必要があります。セットメニューやサイズの開発には料理人の意見が重要で、クロスセルやアップセルは、オーダーを取るバイトの勧め方に結果が左右されるからです」
井上は一気に説明した。それは圧巻で、その道のプロであるはずのダボハゼは、一言も口を挟むことができなかった。
いや、誰もが突然自信に満ちた井上の変貌ぶりに驚いた。
それからオーナーが、度々店を訪れては井上を呼び、別室で二人だけで話し込むことが多くなった。そして、ダボハゼの井上いびりが始まった。
ダボハゼはオーナーの息がかかる井上に辞めろと言えないため、井上が自主的に辞めるよう仕向けているようだった。
井上の進言がなければおそらく首になっていたはずのダボハゼは、恩人の井上を妬みでいびるという心の狭さを露呈することになり、ますますアルバイターたちから信用されなくなってしまった。
僕は井上が、オーナーという王様の後ろ盾を持ったのだから、もっと堂々と店長と渡り合うべきだと思っていたけれど、彼は決してトラの威を借る姑息な道を選ばなかった。僕はそれで、井上をますます尊敬することになった。
井上に外で話したいとお願いした翌日、僕と彼は店への出勤一時間前、駅と店の丁度中間にある、最近流行のコーヒーチェーン店で会った。店内の内装がシックで、読書にも向いている落ち着いた店だ。
僕が約束の時間三十分前にそこへ行くと、井上は既に本を読みながら、コーヒーを飲んでいた。
「やあ、随分早く来たんだね」と僕が言うと、「遠藤こそ、約束の時間までまだ三十分もあるじゃないか」と井上が言った。
「うん、待たせたら悪いと思って」
僕はカウンターでコーヒーを買い、テーブルに戻ってから早速相談の件を切り出した。
「今日は井上に、夜逃げについて色々聞きたかったんだ」
井上は意外そうな顔を作った。
「夜逃げ? 遠藤、夜逃げしたいの?」
「そうじゃないよ。実は僕の友だちに、親が夜逃げをした人がいるんだ」
それから僕は、高校時代に遡り、当時の佐伯のことや夜逃げの経緯、仙台での再会とやり取りしている手紙の内容を彼に説明した。
井上は、相変わらず水膨れのようなぼんやりした顔をこちらに向けながらも、ときどき相槌を打ち真剣に話しを聞いてくれた。
「つまり親が夜逃げをして子供が道連れになった。その子に何が起こっているか分からないけれど、どうやら色々と大変そうだ。それで先ずは、夜逃げとは何で、本人や家族にどんなことが起こるのかを知りたい。そんなところ?」
井上は僕の知りたいポイントを、的確にまとめてくれる。
「その通りだよ。但しこの先、もっと具体的に何かを相談したくなる可能性はあるけど」
彼は苦笑いしたけれど、相談を受けるのはそれほど嫌そうでもなかった。
「そもそも夜逃げというのは色々あるんだ。例えば旦那の暴力やストーカーが怖いとか、暴力団の脅迫行為から逃れたいとか。まあ、借金の返済を免れようとして逃げるケースが多いとは思うけど。それと夜逃げは刑法犯罪じゃない。借金の踏み倒しは民事の扱いになる。借金の時効は十年だけれど、債権者は民事訴訟で時効を停止させることができるから、時効で借金消滅を期待するのは難しい場合が多い。それに住所を移すとそこから足がついて、再び債権者に追われることになるから住所を変えづらい。それで困るのは、学校入学、就職時やアルバイトを始めるときに求められる住民票だね。住民票は免許を取るときにも必要になる。免許の場合は本人確認書類として保険証やパスポートを持参する必要があるけど、そもそもそれらの取得に困る場合もある。きちんとした住民票を取れないと、結構困るケースがあるんだ。基本的に負債の被害が家族に及ぶことはないけれど、この住民票問題は家族も困ることが多い。だから、一番いいのは破産手続きをしてしまうこと。但し、その筋からお金を借りていたら、分かると思うけど少々厄介だ。それ以外で困るのは、暫く借金できないことくらいだよ。それとさ、今は夜逃げをサポートする会社があるんだ。夜逃げ屋って言われているけど、要するに夜逃げを助ける専門家さ。もちろんただじゃないけど。夜逃げに関連する話しは、こんなもんかな」
井上は一気に話して、コーヒーを口に流し込む。
彼は雄弁で、どもることも発音が変になることもなかった。僕は、彼が突然居酒屋のオーナーに勇気ある進言をしたときのことを思い出す。
「随分詳しくて驚いたよ。経済学部って、そんなことも教えるの?」
「まさか。実はね、偶然似たような境遇の人に頼まれて、破産手続きを手伝ったんだ。あれはね、弁護士か司法書士に頼まないと出来ないってみんなが思ってるけど、素人でも裁判所に行けば手続きできるんだよ。その相談を受けたときに、夜逃げも選択肢の一つとして考えたから、ちょっと調べてみたんだ」
「それでそのとき井上は、最終的に何を選択したの?」
「自己破産さ。それが裁判所に認められれば暫く借り入れはできないけど、それ以外は普通の暮らしができるからね。但し遠藤の友だちの家は、不動産会社だったんだよね。もし債権者へ配当する財産がある場合は、面倒なんだ。管財事件という扱いになって、管財人が選ばれる。そして処理にとても時間がかかる上、裁判所に収める予納金も多くなる。そうなると時間がかかる分、債権者の中にその筋の人がいたらちょっと面倒だね。普通の自己破産でも、その場合は厄介だから」
佐伯の家のケースは、それなのだろうか。そういえば、彼女の父親が運送のおじさんに言った言葉の中に、怖い人が見張っているというのがあった。佐伯の家はヤミ金にまで手を出し、その筋の人たちに付きまとわれていたのかもしれない。
「それで、井上が破産を手伝った人は、普通に暮らせているの?」
彼の目が一瞬泳いだ。それで僕は、実はその人たちがその後も問題を抱えているのだろうかと思ったけれど、井上の答えは反対だった。
「本人も家族も普通に暮らしているよ。本人は今、海外で暮らしている。日本で色々あったから、疲れちゃったんだろうね。娘は法的に何の関係もないから、普通に働いて元気にしている」
「破産したら、周囲にはばれないものなの?」
「大丈夫。一応破産申請が裁判所に認められると、官報に住所氏名が載るけど、そんなものは誰も見ないから心配ない。ただ借金で購入した家に住んでいれば、家は債権者に取られるから、近所には何かあったと勘付かれる可能性はある。ローンで買った新しい車も同じだ。もし会社員で会社からお金を借りていたら、これも間違いなく会社にばれる。全ての債権者を平等に扱わなければならないルールになっているから、会社にだけ借金を返し続けるということが出来ないんだ。破産申告後にそうしたことを隠れてやっていることがばれると破産が認められず、認められたあとなら取り消しになる」
僕は井上の博識ぶりに感心しながら、肝心なことを思い出した。
「それで僕の友だちのケースは、どうするのが一番いいと思う?」
「詳しい状況が分からないから何とも言えないけど、その友だちは今、働いているんだよね」
僕はおそらくと、心もとない返事をした。
「だったら独立して、世帯主として新しく住民票を作ったらどうかなあ。子供は親のそういった問題から基本的には影響を受けないから、そうすることで生活は全て普通に戻ると思う。親の方はよく分からない。破産できない事情がありそうだから、そうなら救済は簡単じゃないと思う」
「なるほど、今日は色々参考になったよ。ありがとう」
僕がそう言うと、井上が真剣な顔付きで言った。
「ねえ、遠藤はさ、その友だちが好きなの?」
一瞬、意外な質問への返答に窮した。
「いや、今のところ、そういった特別な感情はないと思うけど、なぜか気になるんだ。彼女の手紙が届くと嬉しいし、自分でもよく分からない」
「そう、だったらいいけど……」
直前まで、雄弁に僕の疑問に答えてくれた人物とは別人のように、彼は歯切れが悪かった。
「どうしたの? もし好きだとしたら、何か問題?」
「そうじゃないんだ。遠藤がこの件にどこまで踏み込むのかなって思っただけだよ。こういうことって、一旦踏み込んで中途半端に抜けると、相手は結構大変なんだ。遠藤にきちんとした覚悟や理由がない限り、あまり踏み込まない方がいいと思う」
少しドキリとした。自分の悩みどころを、見事に指摘されたからだ。井上は見掛けと違い、鋭い勘を持っている。
「うん、そうだね」
僕は曖昧に答えるしかなかった。
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