第8話 彼女の闇

 その後手紙は、月に二度のペースで送られてきた。

 彼女は簡単な近況と、寂しさと、僕にまた会いたいことをその中で綴っていた。

 しかし相変わらず自分の職場や家族の様子に触れることはなく、それなりに生きていることだけが分かる内容で、僕は彼女の具体的な様子を知ることができないでいた。つまりそこから、さっぱり彼女の映像を想像できないのだ。

 僕は三通目の手紙を受け取ってから、ようやく彼女に返事を出した。

『親愛なる佐伯へ

 返事を出せずにいて、ごめんなさい。

 手紙は受け取っています。毎回何度も読み直しては、色々と考えています。

 それでいつも思うのだけれど、佐伯の苦しさみたいなものは伝わってきますが、その苦悩がどこからやってくるのか、僕には分かりません。

 僕がそれを知る必要はないかもしれないし、佐伯には励ましなど要らないかもしれない。佐伯にとって、思い付くままを手紙に綴り、ただ情報を共有するだけがよいなら、僕はそれで構いません。

 だから僕も、普段の様子をここに書きます。

 最初に、僕はいつでも佐伯の手紙を楽しみに待っています。郵便受けに封書を見つけたとき、僕の心はいつも踊リます。でも、すぐには手紙を開封しません。大切な楽しみを簡単に終わらせないよう、シャワーを浴びてコーヒーを準備し、リラックスできる体制を整えてから、ゆっくり手紙に目を通します。その方が、手紙の内容が心に入ってくるからです。

 そして読んでいるうちに、僕の気持ちが少し重くなります。できることなら佐伯を助けてあげたいと思いながら、僕は半人前の学生で、それがままならないからです。残念ながら、自分にできることには限りがあるし、アイディアも多く持っていません。それに、僕が佐伯の事情にどれほど踏み込めるのかも分かりません。これから、僕自身が何かの闇を抱えることになるかもしれず、そうなれば自分のことで精一杯になるかもしれません。

 つまり僕は、佐伯にとって役立たずということかもしれず、これは自分にとって悲しい事実です。

 二つ目は、近況です。年末年始、僕は居酒屋のアルバイトばかりしていました。

 特に年末の居酒屋はサラリーマンで賑わい、とても忙しい毎日でした。どうしてサラリーマンは、こうもお酒が好きなのかと不思議になるくらい、スーツ姿の色々な人がやってきます。お客には、延々と愚痴をこぼす人、ずっと笑っている人、部下らしい人間に説教ばかりしている人、泣き出す人、怒る人、威張る人と色々で、そこは喜怒哀楽、人間模様の坩堝です。

 職場にはダボハゼと呼ばれる嫌な店長がいます。この人はエラが張り、丸くて小さな両目の間隔が広く、分厚い唇が横に大きく広がっているためそう呼ばれています。丸い形の牛乳瓶の底のような眼鏡をかけていますが、本当に魚のような顔をしています。

 で、その彼は、店長という地位を笠に着て、井上という気の弱い秀才をいつもいじめています。

 井上は経済を勉強しているので、本来は、如何に店の利益を増やすかを考えるのが得意なのに、店長はいつも彼に皿洗いをさせています。

 しかし井上は、叱られても嫌な仕事ばかりさせられても、いつでも黙々と仕事をします。僕は密かに、そんな井上を尊敬しています。結局最後は、そんな人間が社会で頭角を現すのではないかと思っています。

 バイト仲間に、一人の女性がいます。彼女の歳は僕らと変わりませんが、学生ではなく、就職もせず、バイトだけで生きている女性です。男のように大雑把な性格で、着ている服もいつもジーンズにTシャツです。僕は彼女のスカート姿を見たことがありません。彼女は珍しいインド人と日本人の混血で、神秘的と言ってよいほどの美しい顔を持っています。鼻が高く目は切れ長で、滅多に笑いません。身体は大柄で、それはまるで格闘技選手のように引き締まり、少し怖い雰囲気を持つ女性です。だからバイト仲間では、アマゾネスというあだ名がついています。

 実は井上は、そのアマゾネスに恋をしているのです。バイト仲間は、みんなそのことを知っています。なぜなら、井上はいつも彼女のことを目で追いかけているし、井上が彼女の前に立つと、途端に発音が変になるからです。井上は緊張すると、なぜか赤ちゃん言葉のようになります。井上が店長からどんなに酷い仕打ちを受けてもバイトを辞めないのは、アマゾネスと離れたくないからだと言われています。

 僕は井上のこの恋を裏から密かに応援しているのですが、彼女の態度はいつも素っ気ないもので、今のところ脈があるようには見えません。なにせ彼女はアマゾネスなので、感情を表に出すことがなく、いつでも誰にでも、口をきっちり結んだ怖い顔しか見せないのです。普段から無駄口を一切きかず、仕事は極めて真面目ですが、店長からはいつも、客には笑顔で接しろと言われています。しかし彼女の態度は、一向に変わりません。

 他に男の学生アルバイターが二人いますが、こちらはいつもチャラチャラしていて、二人を見ていると、そのお気楽ぶりは日本の将来が心配になるほどです。

 まあ、こんな仲間の中で、僕は居酒屋の混沌とするアルバイトをこなしているわけです。

 三つ目はバンドの近況です。渋谷の近く、三軒茶屋という場所にあるライブハウスで次のステージが決まりました。初めての場所ではありません。先日のライブと違い、チケット販売のノルマがあります。ドリンク付きで一枚七百円のチケットを、バンドとして七十枚売らなければなりません。ボーカルの隆史がかなりさばいてくれるので、チケット販売にはそれほど苦労はしませんが、もし売れ残ると、その分はバンド負担となります。どのライブハウスも似たようなシステムなので、以前はチケットを売るために、路上ライブでバンドの宣伝をしていました。華やかなステージの裏にも、こんな苦労があります。

 カナリヤの歌詞が身に沁みたということですが、それは佐伯の境遇に関係しているのかと勝手に想像し、少し重たい心境になりました。そのような意味でなければ、それでいいのですが。

 まだ寒い日が続きますが、風邪をひかないよう気を付けて下さい。

 それでは。また手紙を書きます。さようなら』

 僕は佐伯に対する自分の疑問を、押し付けがましくならないように注意して文面の中へ入れた。これで彼女が何も答えなければ、それはそれでよかった。言いたくないことを無理に聞き出しても仕方ない。

 二週間後に行われた僕たちのライブは、相変わらず盛況だった。ノルマ分のチケットが全て売り切れ、店から追加分を貰うほど売上げはよかった。追加分のチケット代は、半分がバンドの取り分となる。これをスタジオ代に当てれば、出費が抑えられるから助かるのだ。

 そして間もなく彼女の返事がきたけれど、そこには予想通り、彼女の詳しい事情は何も書かれていなかった。目新しい話題は、そのうち東京へ僕らの演奏を観に行きたいということや、仕事で嫌な目に遭い落ち込んだというくらいのものだった。

 僕は少しがっかりし、少し安心した。

 友だちになって欲しいと言われた割に、彼女が自分に心を開かないのは、友だち失格という烙印を押された気分に襲われる反面、重すぎる事情を打ち明けられた場合、それはそれで困るだろうと思っていたからだ。

 ふと、これが井上だったら、彼はどうするだろうと思う。

 そもそも佐伯の不幸の始まりは、親が借金で首が回らなくなり夜逃げしたという経済事情なのだから、経済に詳しい井上ならば、何かアイディアを持っているかもしれないのだ。親が立ち直れば、佐伯の現在抱える問題のいくつかは解消できるかもしれない。今度井上に相談してみることにしようと思いながら、僕はライブが盛況だったことを手紙に書いて、彼女に短い返事を出した。

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