第6話 居酒屋のバイト

 二十歳になる男が、同じ大人の女性と友だちになるという奇妙な誓いを立て、僕は東京に戻った。

 大学は既に冬休みで、もう少し仙台に留まりたい気持ちはあったけれど、残念ながら宿泊費という先立つものがなかった。

 僕は貧乏な学生なのだ。そもそも普段、バンドの練習でスタジオ代を払い、その度に食事は外食となり、遠征ということになれば交通費や宿泊費に新しい弦の張替えなど、色々と出費がかさむ。

 完全に干上がる前に根城へ戻り、居酒屋のアルバイトにいそしむ必要があった。勤しんで年末年始の特別手当てを貰わなければ、まともに年も越せない身の上なのだ。

 田舎に帰れば食うには困らないけれど、そのあとが問題だった。我が家は小遣いを貰えるような裕福な家ではなく、自分の食い扶持は自分で稼がなければならない。それが、無理をして東京の大学へ入る条件だった。食い扶持に加え、新しいギターを買うという目標もあったため、尚更バイトに励みたかった。

 佐伯は手紙を書くと言った。手紙には自分の住所や名前を一切書かないからと、彼女は仙台のファミリーレストランで、自分のそれをくれた。

 彼女や家族は、未だ世間から隠れて暮らしているようだ。どこで誰が目を光らせているか分からず、万が一を考えて、郵便物には気を使っているようだった。夜逃げというのは、色々大変なもののようだ。

 東京へ戻って気付いたのは、彼女が現在学生なのか、それとも働いているのか、そういった彼女の近況を一切聞かなかったことだ。自分からは立ち入ったことを訊かず、彼女も進んでそれを伝えようとはしなかった。

 あるいは過去の話しが盛り上がり、単に時間切れで近況まで話しが至らなかっただけかもしれない。

 つまり僕は、彼女が現在、まともな生活を営めているのかどうかさえ知らなかった。

 最も友だちとしての深度が深まれば、今後、知りたくないことでも知ることになるかもしれない。そこはこれからの成り行き次第だと、僕はそのことを深く考えもしなかった。

 バイトで世話になっているチェーン店の居酒屋は、書き入れどきで繁忙を極めていた。

 店の雇われ店長はエラの張った妻子持ちの四十男で、魚を多く扱う居酒屋らしく、周囲からダボハゼと呼ばれている。

 ダボハゼは僕の二日間の休暇で、今回はどうにかローテーションを組めたけれど、いつもそう上手くいくとは限らないと、恩着せがましく嫌味を言った。なんにつけても恩に着せるのがダボハゼの癖で、彼はそれだけで、底の浅さを感じさせる損な性格だった。

 午後四時に店へ出て、店内清掃、椅子やテーブルの汚れや箸など備品の確認、ダボハゼによるミーティングでその日の役回り確認と声出しをする。

 声出しというのが前近代的で、「いらっしゃいませー」、「ありがとうございましたー」、「またの御来店をお待ちしております」の発声練習だった。それが終わって、ようやく開店と相成る。

 もちろん声出しが、店の印象を左右する重要なことであることは理解するけれど、問題はそのやり方だった。

 アルバイト全員で揃えた声が小さいとやり直しさせられ、ダボハゼが納得するまで練習は延々と続く。これだけでバイトを辞めてしまう人がいるくらい、ダボハゼは声出しに執着していた。

 いつもダボハゼの餌食になるのは、井上賢治という、小太りで背の小さな学生アルバイターだった。

 W大学の経済学部に通う彼は、エリートの卵のはずなのに、とにかく気が弱い。いつもおどおどしていて、他人に何かを言われるとそれに拍車がかかる。

 その日も声出しのときにそうだった。

「井上、またお前か。ちょっと一人でやってみろ」

「あっ、はい」と、彼は目を瞬かせて息を吸い込む。

「いらっちゃいませ」

 学生バイトの男二人が激しく笑う。井上はあがると、いつも発音がおかしくなるのだ。

「どうしてお前は『し』を発音できないんだ。ここは幼稚園じゃない。声も小さい。腹の底から声を出せ」

「はい……。いらっちゃいませ」

 言われるほど井上は萎縮いしゅくし、その声は決して大きくならず発音が変になる。

「腹に力を入れろ。口を大きく開け。滑舌が悪すぎる」

「あっ、はい。ちゅみません」

 二人の学生アルバイターがまた笑い、ダボハゼは顔を歪ませる。

「もういい。お前のような奴はいくらやっても無駄だ」

 井上は再び謝る。僕は必死になる彼を、笑うことができなかった。もう一人、無口な女性アルバイターがいて、彼女も笑わない。いや、どちらかと言えば、怒っているような顔付きになっている。

 開店前のミーティングを終え、それぞれが持ち場へ散らばった。僕は井上の傍に行き、椅子を整える振りをしながら彼に声を掛けた。

「今日もまた、酷かったな。でも、ダボハゼのことは気にしない方がいい。あの人は性格がねじ曲がっている。まともに相手をしてたら、井上までおかしくなるよ」

「だ、大丈夫だよ。気にしてないから」

 彼はそう言って、背中を丸めて調理場の方へ消えた。

 彼は接客が不向きと見なされ、調理場の下ごしらえや皿洗い担当だった。年がら年中野菜や魚を運び、じゃがいもや大根や人参の皮をむき、汚れた食器を洗っている。

 本来は彼に店の経理を任せ、数字を分析させ、ローテーションの効率化や無駄の排除などのマネージメントをやらせた方が、ずっと店の利益に繋がるはずだ。そうすれば、おそらく彼のバイト代などすぐに取り戻せる。彼はその手の専門家なのだ。

 これは井上からの受け売りだ。

『この店の座席数は全部で六十ある。客単価を千五百円として回転率を一・五とすると、一日の売上げが十三万五千円になる。一ヶ月間の営業日数を三十とすると、月の売上金額は四百五万円。フルに回ってその程度だ。

 料理やドリンクの適正原価は約三十%だから、百二十一万五千円。人件費の適正値は二十五%で百一万五千円。これを合わせるとニ百二十二万五千円。

 それ以外の経費として、テナント料が五十万円、水道光熱費が十五万円、初期投資を三千万としたときの償却費が五十万円、箸や他の備品がニ万円、雑費が三万円とすると、その他経費の合計が百ニ十万円。

 こうした計算に拠れば、この店の一ヶ月予定利益は百十二万二千五百円になる。言わばこれが一つの目安、利益を出すための目標となり、それが投資の回収分となる。

 ところが先ず、回転率が実力値で一しかない。すると一ヶ月間の売り上げが二百七十万円まで減る。人件費目標は売り上げの三十%で六十七万五千円となる。しかし実際は五人のバイトがいて、それだけで月に百五万円の給与となる。更に店長と調理人の給料は合わせて百万円くらいになりそうだから、ざっくり人件費合計は二百万円。更に材料費とその他経費百二十万円を引くと、八十六万円の赤字になってしまう。

 それでもどうにかなっているのは、客の入り具合でバイト人数を調整しているのと、償却費の五十万円は実質キャッシュフローのため、それを食い潰しているからだ。そうであれば、店の改装など、この店は次の投資に回す金を捻出できない状況にあるということだ。それだけでなく、初期投資した金を全く回収できない。

 何かを改善しなければ、店の利益は好転しない。差し詰め人件費か、それが無理なら客単価や回転率を上げる工夫が必要だ』

 井上は、さらりとこうした分析をすることができる。

 損益分岐点の分析はもとより、井上にとってこれらは基本中の基本で、実は彼は、もっと専門的な知識を持っている。

 例えば、『ハフモデルの応用とスピルオーバーの組み合わせをベースとした集客力の考察』みたいなことだ。

 井上によれば、こうした分析を元に着目すべき点とターゲットを明確にし、対策を実行し、結果を時系列でモニタリングしながら効果を把握することが重要らしい。そのことで効率よくビジネスを向上でき、ノウハウも積み上がるという。

 僕はダボハゼが、井上のこうした能力を許せないのではないかと疑っている。だからこそ自分の立場保全のために、井上を執拗に攻撃するのではないだろうか。あるいはそれは、ただの嫉妬かもしれない。

 客が多くなると、ダボハゼの丸くて小さな目が釣り上がる。どうやったらこの目が釣り上がるのだろうと、興味深く観察してしまうくらいきつい目をして、彼は店内を駆けずり回る。随分空回りもあるようだけれど、とにかくそれが、年の瀬の迫る数日間続いていた。

 お客様は神様だと常日頃アルバイトに言い聞かす本人が、客の不評を買うほど仏頂面で接客している。こっちの方がよほど忙しいんだとアルバイターは思っているのだけれど、自然にダボハゼの井上に対する当たり方も強くなった。

 それでも井上は耐えていた。重度な鈍感症でない限り耐えられないと思うほどいじられ、彼は暗い表情を顔に浮かべながらも黙々と仕事をこなしていた。

 僕はそんな彼の姿を見て、自分はまだまだ修行が足りないことを感じるのだ。僕は井上という一見頼りない男を、心のどこかで尊敬していた。

 バイトが終わると疲労困ぱいで、毎晩げんなりしながらアパートに帰り、砂漠の強行軍から無事に生還した兵士のように、ベッドの上へ転がり込んだ。そしておそらく、死んだように眠り込む。

 おそらく、というのは、毎朝就寝前の記憶がないからだ。本を読んだとかテレビを見たとか、あるいはラジオのスイッチを入れたというような、何らかの行動の記憶が一切ない。

 そして目覚めると既に翌日の昼前になっていて、一杯のインスタントコーヒーで身体が完全に目覚めるのをゆっくり待つ。漫然とした日々を送るのと、何かに追われながら日付が素早く更新されるのと、どちらがいいのだろう、などと考えながら。

 その年最後のライブが終わってから、毎日がそんなふうに、単調に過ぎていた。

 既にライブが恋しくなっていた。あの狂乱を生み出す主役の一人になれることは、麻薬のような、何とも言い難い刺激がある。大音量の中で、リズムを刻みながら陶酔したくなった。スタジオの演奏でもよかったけれど、バンドのメンバーは自分を除き、全員仙台から田舎へ直接帰っている。

 僕は自分の無いものねだりに疲れて、漫然とバイトの居酒屋に通うしかなかった。

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