第5話 友達
僕の前に立つ佐伯の頬や鼻は、寒さで真っ赤になっていた。それでも彼女はその顔に笑みをたたえている。息を切らせた彼女の口から、白い気体が小刻みに吐き出されては消えた。
彼女の笑顔は、人気者だった頃と同じように健在だった。無邪気で、春の陽射しのような柔らかい笑顔だ。それが僕の不安な気持ちを溶かし出す。
意表を付いて、彼女が先に口を開いた。
「ライブ、お疲れ様。かっこよかったわよ」
こんな場所で再会する奇妙な状況が、まるで気にならないといった言い方だ。
「やっぱり観てたんだ。ステージから佐伯を見たような気がしたんだ」
彼女は女子高生の雰囲気を残す、あどけない笑いを漏らした。
「たまたま本屋さんのカウンターで、宣伝チラシを見つけたの。出演バンドリストに遠藤君のところがあったから来てみた。バンドの名前、ずっと同じなのね」
「そう、メンバーも同じ。でもちょっと驚いた」
「あら、どうして?」
佐伯はきょとんとして、僅かに首を傾げる。
「どうしてって、こんな場所で佐伯に会うとは思っていなかったから。佐伯に驚きはないの?」
「私は、遠藤君に会えるかもしれないと思ってここに来たのよ」と言って、彼女はまた笑う。
その笑い方に僕は、自分の時間が過去に引き戻されたような錯覚を覚えた。彼女は今でも、あどけない純真さを感じる笑みを持っている。僕がそれに暖かい懐かしさを感じた矢先、激しい突風が吹いて思わず二人で身震いした。
「ねえ、寒くない?」
「とっても寒い。でも大丈夫よ」
大丈夫と言われても、これでは落ち着いて話しもできない。
僕は近くのファミリーレストランにでも入ろうと彼女を誘った。佐伯は頷き、二人で人通りのない歩道を歩き出す。
人気のない道を彼女と肩を並べて歩いてみると、何やら妙な気になった。
なにせ彼女は、かつてクラスの女王様だ。その人とこうして肩を並べて歩くことは、誇らしげな気分を誘うような何かがある。歩きながら僕は、ときどき彼女の横顔を盗み見ることになった。
彼女が唐突に切り出した。
「知っているかもしれないけど、私たち、夜逃げしたのよ」
そんなことを突然言われても、僕は戸惑うしかない。例えそれが事実でも、それは女王様が言ってはならない打ち明けだ。もちろん僕も、どう答えるべきか迷ってしまう。
「うん、噂で聞いた」
僕は苦し紛れで、そう言うしかなかった。
「そうよね、噂になるわよね」
僕が黙っていると、再び彼女が言った。
「ねえ、遠慮しなくていいの、本当のことだから。夜逃げなんて、格好悪いわよね。でも、結構わくわくしたのよ」
そう言う彼女はさばさばしていて、強がっているようには見えなかった。それに本当にわくわくしたかは分からないけれど、夜逃げが特殊な体験であることは確かだった。
「遠慮してるわけじゃないけど、そういう話題って、どこまで突っ込んでいいのか分からないから困るんだ」
「遠藤君は正直ね。でも、困ることはないのよ」と、佐伯は言った。そして、彼女による夜逃げの体験談が始まった。
「夜逃げってね、本当にみんなが寝静まった夜中に出るのよ。必要最小限の物を事前に少しずつ車に積み込んで、大きな物は、個人の運送屋さんに秘密厳守でお願いするの。その代わり、持っていけないものは全部あげるって約束で。お父さんがトラックのおじさんに言うの。欲しい物は持ち出していいけど、夜中に一回で終わらせて欲しいって。おじさんがどうしてって訊いたらね、お父さんが、昼は怖い人がそういう人の出入りを見張っているから危ないって言うのよ。だってお届け先を知っている貴重な人なんだから。そのときおじさんの顔が引きつってた」
二人は大通りから逸れ、繁華街へ繋がる少し幅の狭い通りに差し掛かっていた。おかげで周りに、歩く人がちらほら現れ始める。
「こう言っちゃ悪いけど、ちょっと面白い」
彼女は真っ赤な鼻を僕に向けて、にっこり笑った。
「全然悪くないわよ。そう言ってくれた方が、私も話しやすいの。じゃあね、そのとき一番困ったことは何だと思う?」
僕は少し考える。
「例えば、お気に入りの物を全て持ち出せないこととか?」
「惜しい、八十点。実はね、飼っていた犬を連れていけないことだったの」
マイナス二十点は、僕が物だと言ったことに依るのかもしれない。
「なるほど、それは思い付かなかった」
「もう家族みたいなものなのよ。でも引っ越すアパートで飼えないから、おいてくるしかなかったの。だからお父さんが知り合いに譲ったわ。私、お別れのときに泣いちゃった。ときどき元気にしてるかなって考えるの」
彼女は別れた犬を思い出したせいか、少し寂しげな顔を作る。
夜逃げの話は、意外に興味深かった。
住所を移すと足がつくから、それはそのままになっているとか、そうすると学校への届け出書類に困るとか、住民税はどうしたらいいとか、免許を取るのも大変だとか、とにかく色々あるようだ。
「海外に行きたくても、パスポートを取るには本籍地で戸籍を取らなきゃいけないでしょう? でも誰に会うか分からないから、迂闊に戻れないの。お陰で私の人生、今から目茶苦茶って感じ」
そんなことを言う割に、彼女には悲壮感の欠片もない。話の内容が全て冗談に聞こえるほど、まるで他人事のように彼女は色々教えてくれる。
そんな話題が切れ目なく続く中、僕たちはファミリーレストランに辿り着いた。
店の中には、全ての外敵を遮断するシェルターのように、とても平和な暖かさがあった。
僕たちは窓際のテーブルについて、二人でホットココアを注文する。
明るい場所で向き合って、彼女の顔をようやく直視することができた。
唇には、控えめな赤のルージュが薄っすらと乗っていた。さっきまで真っ赤だった頬は滑らかなピンク色に変わり、自然な色に戻った鼻は筋が通っている。すっきり整った顔と薄化粧が調和し、落ち着いた大人っぽい印象だ。髪が揺れたとき、ゴールドの小さなピアスが両耳の上で光った。
「化粧してるんだね」
「わたしも大人になったのよ。少しはおしゃれをするわよ」それから突然何かに気付いたように、佐伯は笑顔を一転させ、その日初めての不安そうな顔を見せる。「え? 似合わない?」
もちろん彼女は素敵だった。いや、周囲の視線を集めるくらい、目立つ美人だった。
「似合ってる。少し会わないだけで、随分大人っぽくなった。ちょっとどきどきしてる」
佐伯は声を出して、あの屈託のない子供っぽい笑いを見せた。大人の雰囲気を持つ彼女は、笑うと途端に無邪気な表情を見せる。
今更ながら、目の前にいるのはやはり佐伯加奈子だった。自分の知るかつての彼女が持つ雰囲気に接し、過去と現在にかかる橋が実感を伴い繋がり始める。
もちろん彼女が、夜逃げの体験談をあっけらかんと話せる人であることは、意外だったけれど。
彼女はウエイトレスが置いていった水を、三分の一ほど一気に飲んで言った。
「ああ、でも少しすっきりした」
「何が?」
「もし遠藤君に会えたら、夜逃げの話に決着をつけなきゃって思ってたの」
「決着?」
「そう。はっきりさせておきたかったの。だって、噂は聞こえていると思ったから。それを曖昧にしたままだと、なんとなくお互い気まずいじゃない」
「そうかもしれない。確かにすっきりした」
佐伯は、僕の想像の中にいた彼女より元気で、正直で、何よりも綺麗だった。見た目だけではなく、彼女はよく笑い、気さくで、こちらに気をつかわせることのない、いわゆる可愛げのある女性だった。かつて一世を風靡した彼女の人気は、伊達ではなかったのかもしれない。
以前の僕は、そんなことにまるで気付かなかった。彼女とこんなふうに接することが、一切なかったせいかもしれない。
彼女だけではない。日陰者だった自分は、クラスの女の子と親しく話す機会がほとんどなかった。女の子と少し話しをするようになったのは、バンドを始めて向こうから寄ってくるようになってからだ。
それでも、相変わらず自分からは話し掛けない。そういうことが、億劫な
レストランの中は、家族連れや友人同士、カップルで、ほぼ満席になっている。僕はそんな場所で、女の子と二人で向き合うのも稀だった。
そのことを佐伯に話すと、彼女は青い太陽でも見たかのように、意外だという声を上げた。
「さっきだって、女の子たちと仲良くしてたじゃない」
「見てたんだ。あれはバンドのファンだけど、僕には関係ない。みんなボーカルの隆史が目当てだから」
「そんなこと、ないと思うけどなあ」と、彼女は相変わらず笑顔を向けてくる。
「それより佐伯は、ずっと外で僕たちを待ってたの?」
「ライブが終わってからね。あなたたちじゃなくて、あなたを待ってたのよ」
「こんなに寒いのに?」
彼女は勢いよく頷いて、「こんなに寒いのに」と言った。
その復唱された言葉が、自分に何かを訴えかけているようにも聞こえる。
「だったら、どうして声を掛けてくれなかったの? 危うく気付かずに、食事へ行くところだったじゃない」
「あんなに女の子がいる中で、声なんか掛けられるはずないじゃない。それで誘い出したりするものなら、誰かに殺されちゃうわよ。他人の恨みは買わない主義なの」
僕がなるほどと言うと、佐伯は逆襲するように、僕に質問を投げ返した。
「遠藤君こそ、どうして戻ってきたの?」
「ライブの最中、佐伯を見たような気がしたんだ。店の外で佐伯を見たときは気付かなかったけど、しばらくしてからもしやと思った」
「もしやと思うと、どうして戻るの? 無視することもできるでしょう?」
言われてみればその通りだけれど、理由は自分にもよく分からない。見えない何かに操られるように、僕はあの場所へ戻ったのだ。
「この寒空の下で僕を待っていたとしたら、悪いなと思った」
「それで?」
「もし佐伯だったら、会って話しをしたいと思った」
「どうして?」
「色々と気になることがあったから」
「例えば、夜逃げの真相とか?」
彼女はふふふと笑い、思わず僕も、それにつられて笑ってしまう。
「そんなことじゃないよ」
「じゃあ、なに?」
「うん、あの手紙のこと。結局返事もできなかったし」
「そうね、無反応だったわね」
「ごめん。どうしたらいいのか分からなくて、ついそのままになった」
「遠藤君は正直ね。昔とちっとも変わらない」
「そんなことはないよ。僕は自分勝手で臆病で根暗な、嫌な奴なんだ。謙遜じゃなくて」
僕は自分の不甲斐ない部分を、冷静に把握している。自分の負の部分が異性に見破られることを、密かに恐れてもいた。だから僕は彼女というものを作らないし、女性と関わる機会も避けている。
「遠藤君がそうだったら、私なんかもっと酷いわよ。覚えてる? 遠藤君がクラスで仲間外れになったこと。あれね、私のせいなの。遠藤君が手紙の返事をくれないから、みんなが怒ってそうしようって。私はそんなの止めようって言ったのに、みんなが許せないって言うの。それ以上何かを言うと、今度は私がみんなから嫌われそうで、私は何も言えなくなってしまった。だからそのことを、ずっと謝りたかったの」
「そんなの気にしてないから大丈夫だよ」
「でも遠藤君、あのとき私のこと嫌いになったでしょう? 気付いてたわよ。すごく悲しかった」
「佐伯のことを、誤解してた。ごめん」
「どんな誤解?」
「色々だよ。僕と佐伯は、住む世界が違うというところに根ざす誤解」
「住む世界?」
佐伯はそこで、ふーんと鼻から息が漏れる声を出して僕を見つめる。
「確かに私たちは住む世界が違った。私はみんなが作る虚像の中に生きていて、遠藤君は自分の作る世界で生きていた」
「僕が言った住む世界って、お金持ちと貧乏人の世界っていう意味だけど」
彼女は今度、笑わなかった。目の奥に真剣さを潜ませて、それを鋭く投げつけた。
「それもあなたの創り出した虚像でしょう? そんなものは
「だったら、僕の場合は?」
「周りの目を気にしないで、自分の道を歩くってこと。実際遠藤君はバンドを始めて、今でも自分の世界を持っている。それに何かを感じる人が、あなたの周りに寄ってくるわけでしょう?」
確かに彼女は、かつてくれた手紙の中にそんなことを書いていた。そしてそこには、自分がたくさんの人間に囲まれていながら、実はとても孤独なのだと綴られていた。
その手紙に、こんなくだりがあった。
『正直に言えば、私に寄ってくる人たちは、私に寄ってくるのか、それとも私の家庭環境に寄ってくるのか怪しいの。私の家にお金がなくなれば、きっとみんな、私の側から離れる。私にはそれが分かる。普段からそれを感じるの。みんなの顔に、コインのような裏と表が見えるから。いつもは表だけれど、それは簡単にひっくり返る。そしてそれは、私にとってとても怖いことなの。なぜなら、私には本当の友だちが一人もいないから。私は実は、とても孤独なのよ。
ねえ、本当の友だちって何だと思う? 何でも正直に話しができて、困ったことがあればお互い助け合って、悲しみも喜びも心から共有できる人でしょう? そんな人が一人でもいたら、残り全員の表と裏がひっくり返っても私は耐えられる。私は孤独から逃れられる。
でも見渡してみると、私の周りには信じられる人が誰もいない。
不思議だと思わない? 世の中は人で溢れ返っているのに、誰もいないの。
友だちって、信じられる人じゃないとなれないでしょう? お互いの価値を認め合える人じゃないと、意味がないでしょう?』
当時の僕には、佐伯の言わんとすることが半分しか分からなかった。そのとき彼女は紛れもない人気者だったし、一方で僕は、いつでも気の合う仲間に囲まれ、孤独とは何かを知らなかったからだ。
僕は当時、クラスの中で仲間外れになってさえ、寂しさとは無縁に自分の好きなことをやり続けることができた。相変わらずそれは、同じ仲間に囲まれ今でも続いている。
それはとても幸せなことかもしれないと、僕は佐伯の言葉を思い出しながら思うのだ。
「今の佐伯はどうなの?」
彼女は驚いたように目を見開いて、それまでリズミカルに言葉を吐き出していたのが嘘のように黙った。少し前まで振りまいていた可愛らしい笑顔も、どこかへ置き忘れてきたかのように消えた。そして彼女はぽつんと言った。
「私は相変わらず……。違うわ、もっと酷いかも」
「もっと酷い? 何かあったの?」
「色々あった。今はまだ話したくないけれど、これでも結構苦労してるのよ」
今度佐伯が顔に浮かべた笑顔は、少し苦しそうだった。歪んだ表情の中で、辛うじて口角だけが上がる微妙な笑顔だった。
「ねえ、今からでも、あなたの返事を聞かせてもらえない?」
「返事って、あの手紙の?」
「そう。遠藤君にとっては、とっくに忘れた昔のことかもしれないけど、私の中であの手紙はまだ生きているの。恋人になって欲しいなんて図々しいことは言わないわ。ただ、心を通わせる友だちになって欲しいの」
改めてそう言われると、僕はまた分からなくなる。
「そう言われても、僕はどうすればいいの?」
「何もしなくていいのよ。友だちになると約束してくれて、私が手紙を出しても変な奴だと思わないで読んで欲しいの」
それでも自分の理解が充分かどうか自信はなかったけれど、僕は彼女が望むなら、そうしたいと思った。
「いいよ。約束する。佐伯の友だちになる」
佐伯は心の中を覗き込むようにじっとこちらを見て、僕の真意を探り当てたように言った。
「やっぱり遠藤君は優しいのね。ありがとう」
彼女は最高の笑顔を見せ、僕はそれに見合うだけの何かをしている実感を持てず、正直戸惑った。
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