第2話 夜逃げ

 僕の青春の満喫内容は、今思えば極めて品行方正な類いだった。

 寝る間を惜しんでギターを練習し、日々曲作りに没頭していた。気が向けばキャンプ道具を担いで自転車の旅に出て、たまにはどこかの山に登った。あるいは学校帰り、親友の家で将棋に熱中した。

 これほど健全に日々を謳歌する青春は、今どき珍しいのではないかと疑いたくなるほど、絵に描いたような青春をしていた。

 大袈裟な言い方をしたけれど、当の本人はお気楽に自堕落に、そして気の向くままにやりたいことをやっていたに過ぎない。高尚な目的や狙いなどさらさら持たず、ただ自分の好奇心に素直に従って色々やっていただけのことだ。

 だから言ってみれば、自分のそうしたアクティビティなど普通の青春と大差ないのかもしれない。仮に違うところがあるとすれば、青春に付き物の恋愛じみたことには縁遠かったことだろう。

 しかし僕はそんな世界を持っていたお陰で、クラスで除け者になることなど気にならなかった。我が道を進んで満足できたら、敢えて周囲と徒党を組む必要などない。

 実際、クラスで孤立したらどうだと言うのだ。どんな実害があって、何に困るというのか。普段から勉強を教え合い、お互い切磋琢磨しているわけでもない。学校で話し相手がいないなら、黙って小説でも読んでいればいい。それでも居心地が悪いなら、学校へ行くのを止めればいいだけの話しで、それだけのことだった。

 唯我独尊も度が過ぎれば困るかもしれないけれど、周囲に迷惑を掛けてはならない程度の常識は持ち合わせているつもりだった。

 ギターが上達し自作曲が増えてくると、僕はそれを世間に披露したくなり、一人でライブ活動を始めた。歌とギター演奏には多少の自信があったし、何より創作活動に付き物の、世間の評価というものを知りたくなったからだ。

 これもクラスの仲間を誰も巻き込まない。観に来てくれと誘うことはしないし、一方的な宣伝すらしない。懇意になった楽器店のホールで開催されるライブで僅かな時間をもらい、密やかにギター一本で自作を披露する。人前で歌うコツみたいなものを習得したら、ライブハウスと交渉してただで出演させてもらう。自分の歌を聴くことを誰にも強要せず、観たい人だけに聴いてもらう。

 それでもライブの観客は、意外と順調に増えていった。そして少しは名前が売れるようになった。

 なにせバンドが主流のご時世に、アコースティックギター一本で勝負するのだ。それなりの度胸や独創性がなければ観客が離れていく。だから僕は、一昔前に全盛だった首からハーモニカをぶら下げるハードフォークスタイルで、渾身のエネルギーを観客にぶつけた。そうした情熱は、運がよければ伝わる。しかし必ずではない。情熱があれば願い事が成就するほど、実際の世間は甘くないのだ。たまたま興味を持つ人間が観客に少しでも混ざれば、ライブの空気はガラリと変わる。そういった運が、少しは自分にあったということだ。

 それをきっかけに、今度はバンドへ誘われた。

「新しくパンクバンドを作りたいけど、そこでギターをやらない?」という誘いだった。

「フォークをやっている人間が、どうしてパンクバンドなんだ?」と尋ねたら、「あんたの歌とギターは既にパンクだよ」と言われ、その言葉でエレキギターを触ったこともない僕はその気になってしまった。そこから自分の音楽活動は、個人からバンドへと、その軸足を変えていく。

 最初は借り物のギターで取り組んだ。自分のフォークは、元々端のフレットでちまちまアルペジオを奏でるスタイルではない。ハイフレットを使い、激しいストロークで押していく演奏が主流だ。それが幸いし、ロックの演奏にそれほど戸惑いはなかった。

 この新しく結成したバンドはすぐに地元で話題を呼び、ローカルラジオ番組への出演依頼が飛び込み、あるいは文化祭シーズンになると、県内の高校から出演依頼が多数くるようになった。普通ではない、出世のスピードだった。

 出世といっても狭い田舎のことだから、ローカルで人気が出たという程度のことだ。井の中の蛙になるのは簡単だった。しかし僕は、井の中の蛙で充分だった。

 そんな僕たちに対し、まるでアイドルにでも接するような熱狂的女子ファンが出現するのだから、自分たちの何がいいのだろうと素朴な疑問を抱えながらも、ちょっとしたスターにでもなった気分に浮かれたりした。

 僕たちが界隈で有名になると、自分に対するクラスの目が再び変わった。僕は除け者から一転、羨望の対象になったのだ。

 バンドで少しくらい有名になっても、僕は何も変わらず以前と同じ僕だった。しかも当の本人は、自分たちの何がいいのか分からない状況なのだ。

 周囲の自分に対する目は意図も簡単に変化する。そんな連中に対し、僕は世間の浅はかさみたいなものを感じ取った。世間はただ何かに迎合するだけで、そこには意見も信念も判断も哲学もない。そんなクラスの目を気にする馬鹿さ加減に、僕は改めて気付くことになった。


 佐伯は家庭の事情で、既に学校を去っていた。突然担任が本人不在の中彼女の転校を告げて、彼女は二度とみんなの前に姿を現さなかった。当然みんなへの挨拶もなく、まさに青天の霹靂といった具合だった。

 僕はそのとき、少し心が痛むのを感じた。あの手紙の件で、彼女を傷付けたのかもしれないと気にしていながら、決着を付けないまま本人がいなくなったからだ。

 佐伯がいなくなったことが影響したかどうかは知らないけれど、僕は学校内外の女の子たちから、ちらほら告白なるものを受けるようになった。そんな告白と同時に、佐伯の学校を去った理由がいくつか耳に入った。

 女性たちは僕がクラスで虐げられた経緯をよく知っていて、途端に僕の味方にでもなったように、告げ口をし出したのだ。いくら巧言を並べられようが、そんなふうに簡単に態度を反転させる人を、一体どうやって信じろというのか。しかし彼女たちはそんな僕の心理に気付きもせず、得意気に佐伯に関する噂を並べ立てた。

 それはバブル景気が終焉を迎え、彼女たちは借金まみれになって夜逃げした、というものだった。

 夜逃げという言葉はもちろん知っていたし、それが何であるかも理解していた。しかし現実の世界で本当にそんなことがあることは、今一つ自分の中で腑に落ちなかった。

 いつもお金のことで頭を抱える我が家でさえ、どうにか夜逃げせずに生きているのだ。あの大きな家に住む彼女たちが、なぜ夜逃げなどしなければならないのか、僕には全く理解できなかった。

 そういった噂は千里を駆け抜けるようで、自分の母親まで同情の色を浮かべて同じことを口にしたから、どうやら噂は本当のことだったようだ。

 銀行から借りた金を回して利益を得ていた中、バブル崩壊で売れなくなった土地や家の価格が暴落すれば、打つべき手を打つ間もなく、呆気なく没落したのだろうということだった。

 そういう理屈で立ち行かなくなったとすれば、扱う金額が大きいほど被害も甚大だったはずだ。そうなる前は随分派手な生活を送っていたのだから、少し前の隆盛が永遠に続くと信じていたのかもしれない。

 まさに天国から地獄ではないかと、僕はこの世で起こる、理不尽とも言える仕打ちに啞然とする思いだった。佐伯の親は自己責任でも、子供にとっては理不尽な不幸に違いない。

 バブル景気は至る所で、人間の弱さにつけ込んでいたようだ。こんな悪夢を見たのは、彼女たちだけではないだろう。

 そうなると僕は、彼女も何かの犠牲になったような気がして、同情めいた気分になった。同時に手紙の件での罪悪感が、十字架となって僕の心に張り付いた。


 僕たちのバンドは景気の後退に関係なく、人気が出るほど硬派な路線を貫き、それがまた次の人気に繋がった。

 硬派というのはつまり、うちらはウケを狙わず徹底して自分たちのやりたい音楽をやるので、それが嫌いな奴は見にくるなというスタンスだ。それは人気が出て、知名度が上がったことからくる余裕がもたらしたスタンスでもあった。そのことがバンドの色を鮮明にし、周囲に個性として映ったようだ。

 そうなると、僕たちの周りに益々色々な人間が寄ってきた。単なる取り巻きや、マネージャー志望、他バンドのメンバー、スタジオスタッフ。使用している楽器を売ってくれという人がいれば、所有の機材を買わないかという人もいた。

 バンドの活動は、次第に県内で大きなステージに呼ばれるようになり、県外のライブハウス遠征もこなすようになった。活動は充実していた。

 佐伯一家の夜逃げと僕たちのバンド人気は、まるで無関係な別世界の出来事だった。しかし僕の中ではこの二つが、対称を成して明暗を別けた出来事として、不思議なくらい強く自分の心へ残ることになった。

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