ターミネーション

秋野大地

第1話 女王様

 僕が青春を満喫していたのは、バブルという言葉が世の中に出回り、世間が景気上昇に浮かれていた頃だった。僕が住む東北の田舎街でさえ、みんなこぞって新車や家を買っているように見えた時期だ。

 高校生だった僕には、バブルになると、どうしてみんな高価な買い物ができるようになるのか分かるはずもなかったし、とりわけ興味があったわけでもない。

 ただ単にバブルに関連する魔法でもあって、秘密の呪文を知っている人間だけが金を持てるのだろうと、やっかみの入り混じった皮肉めいた印象を、世間から距離を置くように抱いていただけだ。

 当時ラジオやテレビで好景気の話題が頻繁に登場する割に、自分の小遣いは全く上がらなかったし、そうなると欲しいギターも買えなかった。

 周りは車や家を買い換え、あげく海外旅行など、隣の県にでも出掛ける感覚でいる人間がごろごろ出始めていたのだから、ますます自分の境遇が空々しく思えてくるところはあった。とにかく零細自営業の我が家はいつも窮々とした生活ぶりで、バブルとはまるで無縁だったのだ。

 しかしつぶさに見れば、バブルは全ての人を潤したのではなかった。当時はその波に乗れた人とそうでない人が混在し、その明暗を明瞭に見せ始めていた時期だった。

 あとから振り返ると、金が金を産むことを庶民に実感させたのが、このバブルではなかっただろうか。実際金のない人にとってバブル景気は、単なる鳥のさえずりのようなものだったはずだ。


 クラスに佐伯加奈子という女の子がいた。地元で大きな不動産会社を経営している、社長の一人娘だ。

 その会社はバブル景気の波に乗り、勝ち組の中でもトップクラスのグループに属していたようだ。

 彼女たちは広い庭を持つ瀟洒しょうしゃな白い家に住み、そこに血統書付きの大型犬を同居させ、父親と母親はそれぞれ、三ツ矢サイダーロゴマークに似たエンブレムを付ける、燦然と輝く外車を所有していた。

 当時、僕にそのエンブレムの意味は分からなかったけれど、それぞれシルバーと真っ白な車がとても高級なことは、容易に想像できた。頑丈で重そうな馬鹿でかい車体が、エンジンを唸らせることもなく、滑るように走り出すからだ。

 その頃自分は、そんな環境で暮らす佐伯から、ある種のにおいを感じていた。どこか作り物のような振る舞いというか、余裕の態度というか、上手く言葉にできない鼻につく何かだ。

 はっきりその内容を指摘できないのは、彼女は特に気取っていたわけでもなく、もちろん傲慢さの欠片もなかったからだ。

 そもそも僕は、彼女とまともに話したことがなかった。彼女はお金持ちのお嬢様で、自分とは住む世界の違う人間だということを、自然と自分がわきまえていたせいでもある。

 だから僕は、彼女から感じるある種のにおいが、貧乏人のひがみが生み出している何かだろうかと勘繰ったりもした。つまりそのにおいとは、彼女が発散しているのではなく、実は自分自身が作り出したものではないかという疑いだ。彼女はクラスで、紛れもない人気者だったのだ。

 普段佐伯の周囲には取り巻き連中がいて、彼女はその中心で、いつも明るく振舞っていた。僕にはそんな彼女が、まるで女王様のように見えることがあった。

 重ねて言うが、そこに嫌悪感を抱く何かがあったわけではない。しかし気付けば僕は、いつでも彼女に懐疑的な視線を向けていた。おそらく成績は並で、何か特殊な才能を発揮していたわけでもなく、見た目がやや可愛いというだけの女の子だ。全てが並なら、彼女の人気は一体どこからやってくるのかと。

 家庭の格付けみたいなものや親同士の繋がりが、きっと子供の世界に何かしらの影響を及ぼすのだろう。人間とは利己的で、差別的で、排他的なのだ。金持ちは貧乏人と付き合えないし、子供もそれに準じなければならない。汚れた信条や間違った価値観は、実際世間に蔓延している。僕は根拠のない自分のそんな想像を、勝手に信じることにした。

 しかしどうやら、佐伯の家は我が家など眼中になかったようだ。つまり佐伯家の両親は、僕の家庭が如何に貧乏だとか、格式が低いとか、そんなことを気にするまでもない家であるがゆえに、僕には近付くなと娘に注意することを失念したようだ。

 ある日の放課後、僕は彼女の取り巻きの一人から、学校裏に呼び出しを受けた。蝉の鳴き声が響き渡る、夏真っ盛りの放課後だった。

 学校裏には、乾いた白い砂が敷き詰められた、五十メートル四方の殺伐とした空地があった。何のための土地か分からないけれど、たまに不良と呼ばれる連中同士の決闘で使われることがあるようだった。さしずめ、荒野の決闘場といった空き地だ。

 行ってみるとその空き地に佐伯がいて、僕は唐突に、彼女から一通の手紙を渡された。彼女はにっこり微笑んで、「あとで読んでね」とそれだけを言うと、さっと踵を返して走り去った。

 取り残された自分は唖然とし、手紙を持って少しの間立ち尽くしてしまった。蝉の鳴き声が耳をつんざき、夕暮れにはまだ早い時間、上には突き抜けるほどの高い青空が広がっていた。暑い陽射しを感じながら、僕の身体を一筋の汗が伝った。

 言われた通りあとで手紙を読んで、僕は更に戸惑った。てっきりラブレターかと思った手紙の内容が、予想と少し違っていたからだ。もし予想通りであったとしても、それはそれで戸惑ったに違いないのだから、まあどちらでも関係のない話しではあるのだけれど。

 そこには孤独な彼女の心情と、好きという言葉の代わりに、僕と友だちになりたい理由がいくつか綴られていた。

 この手紙は一体何なのだろうかと、僕は分からなくなった。手紙の種類を何かに分類できれば少しはすっきりしただろうけれど、僕の乏しい経験で、その内容をカテゴライズするのは難しかったのだ。

 誓約書、ラブレター、ご機嫌伺い、暑中見舞い、近況報告、交換日記、願書……。どれにも当てはまらないではないか。

 いや、強いてあげれば友だちになって欲しいとあるのだから、願書かラブレターかもしれない。しかしラブレターにしては、『あなたが好き』という愛の告白が一つもない。

 そもそも『友だち』という言葉が紛らわしい。それは普通に言う、友だちになって欲しいということだろうか。そうなら彼女には、男女を問わず、既に友だちがたくさんいる。ならばそれは、クラス一の人気者がうだつの上がらないクラスの日陰者に、敢えてお願いすることでもないはずだ。大体わざわざ手紙を書いて、友だちになって欲しいなどと、今どきの女子高生がすることだろうか。

 これは自分をからかい、その様子を裏で盗み見て喜ぶ企画ではないかと、僕はそんなことまで疑う始末だった。

 そして僕は、彼女のお願いをそれ以上深く考えず、手紙に対する答えも示さず放置した。

 その頃僕は、彼女を嫌っていたわけではなかったけれど、普段から特別な感情を抱いていたわけではないし、正直に言えば、彼女に対して興味もなかった。佐伯と自分は、まるで違う世界に住む人間なのだ。いわば天上界の神々と、下界の奴隷階級ほどの違いがある。

 しかし僕は、そんな手紙を貰い、自分がどうすべきか分からないことに気付いていた。もしからかわれているとすれば、笑い者になるのも怖かった。

 僕はそんな自分の臆病さに気付いていて、それが自分の心を少し塞いだ。


 しばらくして、周囲の自分に対する態度が変化した。元々目立たない日陰者ではあったけれど、ある日僕は、自分がクラスの中で除け者扱いされていることに気付いたのだ。

 つまり、女王様が身分の違いを超え、平民以下の僕にへりくだってお願いごとをしたというのに、あろうことかその下僕が生意気な態度を取ったものだから、そんな奴には天誅を下すべきということのようだ。時代が時代なら、市中引き回しの上獄門というところだろう。僕はいわれなき罪で、罰せられたのだ。

 まあ、あるべき姿に落ち着いたといえば、そういうことかもしれない。それならそれで、いいではないか。本来の正しい在り方になっただけのことなのだから。もし自分が素直に友だちになろうと言ったとしても、クラスの中にそれなりの反動が生じた可能性が大きい。むしろその方が、インパクトは大きかったかもしれない。

 ただし除け者にされたことで僕は、それまでぼんやりと彼女に感じた何かが何であるかに気付き、彼女のことを嫌いになった。

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