第3話


トビアス・クラウゼヴィッツ。


クラウゼヴィッツ家の長男としてこの世に誕生した。恵まれた容姿もさることながら、まさに絵に描いたような完璧な人生を歩む。生まれは代々宮廷に勤める魔術師の家系。トビアス自身、群を抜いて優秀で、もてはやされ育った。


そんな幼い頃から物覚えの良かった彼の記憶の中でも、一等鮮明な景色がある。目の覚めるような鮮やかな黄色。柔らかな黒色も相まって、野に咲く向日葵を連想したものだ。


両親に連れられ、渋々参加したパーティーでの出来事だった。そこで、目を奪われた。


とても可憐な少女だった。髪と瞳はこの地では珍しい黒。同年代の少女たちが一生懸命トビアスに話しかける中、彼女だけは近付こうとすらしなかった。隅に居て、なるべく目立たない振る舞いをしているかのように見えた。その行動も、トビアスの好奇心をますます刺激した。


『あの…』


この日初めて、彼は勇気を出して自分から女性に声を掛けた。


いくら話しかけても彼女は一言も発さなかったが、困ったような笑顔が印象的だった。


(もっと、一緒に居たい)


けれど彼の思いとは裏腹に、途中で両親に呼ばれ、戻った時には彼女は姿を消していた。それから今に至るまで、どこの誰であったかも分からないままだ。






冒険者が多く集う、賑やかな酒場。トビアスはその場所で、小さな背中を見つけた。やはり彼の行きつけのここであったかと、予想が確信へと変わる。


「う、嘘だろ…」


そこに居たのはイチカ。彼の仕事仲間。背中を丸めて、頭を抱えている。


「女になってもう1週間も経つのに…<女体化>の文字が消えない…!」


僅かな胸の膨らみに、さらりと揺れる長い髪。彼は未だ、女性のままだった。


「ど、どうして…」


漏れ聞こえる呻きは悲嘆に満ちている。所詮は単なる状態異常。1日2日で元に戻るだろうとタカをくくっていたのだろう。ところがどうして、一向に男に戻る様子は無かった。


「イチカ」


トビアスは、彼から見えない位置で一度息を吐く。爽やかな笑顔を作り、近付いた。


「先日は失礼しました。俺としたことが…少々取り乱してしまったようです」

「あっうん。あんまり近付かないで」


間髪を容れず返ってきたのは、明確な拒否。


「……」


このクソアマと思ってしまったのは秘密である。トビアスはにこりと笑顔を浮かべ、カウンターに手をつく。


「何か勘違いされているようですが、俺は別に貴方のことなどなんとも思っていません」

「…うん」


そうは返事をしながらも、イチカの警戒心は薄れない。それとなくトビアスから距離を置く。


「…信じてませんね?」

「まあ…」


顔を見ないよう目を逸らし俯く。完全に不審者を相手にした態度である。


(失礼な)


「そこまで言うのならば仕方ない。貴方が元に戻るまで協力しましょう」

「え?いや、俺は別にお前の手を借りなくても…」

「これが、俺のベッドの下から出てきたのですが」


言いながら、トビアスは空の瓶を取り出した。瓶底が机に当たって、ごとんと音が鳴る。


「……?あっ!」


酒瓶をじっと見ていたイチカが、思い出したように声を上げた。






1年前。


『貴方。ご兄弟はいらっしゃいませんか?妹…それか、姉君でも』


咄嗟に、出てしまった質問だった。やってしまったと思う暇はない。


『は…?いや、居ないけど』


トビアスの目の前には、不思議そうに片方の眉毛を上げる青年の姿。初対面だ。当然、面識はないし、彼のことは何一つ知らない。けれどわざわざ足を止めて、唐突な質問をしてしまったのには、相応の理由がある。


彼に、初恋の君への面影を見たのだ。


トビアスのように宮廷魔術師となる者は、魔術学校の卒業後、一定の期間家を離れ別の土地で経験を積まねばならない。通常ならば軍隊に入隊しての修行となるところを、彼は拒否した。比較的大きなダンジョンの存在するメリーニ地方は、もう遙か昔に初恋の少女と会った場所。僅かな望みを懸けて、この地で冒険者としての修行を積むことを選んだ。


『特定の1人との付き合いなど人生を縛られるだけ。何が良いのか分かりませんね』


そう言いながらも、彼がいちばん、特定の人物に固執していた。トビアスにとっては初めて。そして唯一、思い通りにならなかった恋愛。まさに、忘れられない初恋となった。


その後、件の彼とは色々あって相棒となった。


(イチカがこの地へ来たのは2年前。そもそも男。女兄弟や親族も無し。他人のそら似だ)


元より、記憶だけが頼りの尋ね人だ。諦めるべきだろう。そう思い最近は、捜すのを止め多くの女性と関係を持って来た。


(しかし、まさか、イチカが女になるとは…)


そう。元々似ていたのだ。謎の要因で女性となったイチカはまさに、初恋の相手に瓜二つだった。大人になればこのようになるのではないかと、想像していたその通りである。


(気のせいだ)


だがしかし、トビアスは断じてそれを認めるわけにはいかない。


何せいくら今の見た目が愛らしくても、イチカは男である。適当で無鉄砲で、トビアスからすれば不潔で出身地もよく分からない怪しげな男。人の家でダンジョンの奥にあった謎の酒を飲む馬鹿。それでも実力があるから、仕方なく組んでいるだけの関係だ。


(たとえ女になろうとも、あの時の少女とはほんの少し似ているだけ。本人じゃない)


色男としての矜持にかけて、トビアスは認めない。


(そう、本人じゃ…)


「知らねえ文字だなあ」


その声に、ふと現実に帰った。多くの冒険者で賑わう繁華街。「換金所」と書かれた看板と店主。特に骨董品の扱いを専門にしている。


「ウチもかなり歴史のある店だが、見たことすらねえ。こりゃあ相当古い言語だぞ」


ダンジョン内で拾った酒を飲んだ翌日に女になったことを、イチカは思い出した。空瓶のラベルを手掛かりに、少しでも内容が理解できる者を探す。


そうして出土品に詳しい者をあたってはいるのだが、一向に詳細は分からない。イチカが舌打ちと共に声を漏らす。


「くそ、どこの言語なんだよ…」


(口も悪い)


トビアスが見るのは、そう言って歪める彼の横顔。やはり形だけは初恋の女性に似た造形を描く。けれどそれを見ても何の感情も浮かばない自分の心に、勝ち誇ったように笑う。


(ダンジョンでの欲情はやはり、一時の気の迷いだ)


トビアスの頭の中を確信と安堵が過る。そうひとりごちる彼の耳に、別の声が入ってきた。


「おいおい、お前本当にイチカか!」

「そうだよ」


見ればイチカが別の冒険者ふたりと話しているところだった。トビアスとはたまにダンジョン内や酒場で顔を合わせる知り合い程度の間柄だ。女になったと聞きつけて、来たらしい。興味津々と言った面持ちでイチカを眺める。


「乳揉ませてくれたらその文字、思い出すかもしれねえな!」

「待てイチカ、それなら俺と一発ヤった方が早いぞ!」


友人同士のタチの悪い冗談。けれどあわよくばそうなりたいと言った願望は透けて見えた。イチカは眉を顰めて不機嫌そうに声を出す。


「あぁ?こっちが必死な時に、何ふざけたこと言って…」


言いながら顔を上げて、言葉を失う。


「…トビアス」

「…なんでしょう」

「何か吹っ飛んでんだけど」


浮き上がった魔法陣。家の外壁にめり込んでいるのは、つい先ほどまで色々元気だった男たちである。そしてトビアスの手元にはぶしゅうと煙を出す杖。


「……」

「おい」


イチカの声がけに、トビアスはにっこり微笑んで語り掛ける。


「いえ。あの方の肩に虫が付いていたので、取って差し上げようかと思ったのですが…。少々勢い余ってしまったようです」

「……」


苦しい言い訳をしていると、無言で体を離された。そして変態を見る目と、同じ視線を向けてくる。警戒心を剥き出しにした、嫌悪に似た態度。とてもではないが、トビアスが女性に向けられたことがないものである。


それなのに、本日初めて目を合わせてくれたと言う事実に、どうしようもなく嬉しくなってしまった。

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