EP1.0 #06 max
荷物はすぐに片づいた。ひと月にわたる長期滞在だったが、数日前からすこしずつ準備していたこともあって、ボストンバックひとつで済んだ。
バッグを持つクレメンスがゆっくり歩いて、早歩きでやっと追いつける体格差が恨めしい。むかしはもう少しだけ、ましだったのに。
「よかったな、思ったよりも早く退院できて」
クレメンスの機嫌がいいのは、予定をひと月も繰り上げたハナの功績だ。まじめにリハビリメニューをこなして日常生活に支障のない体力をつけた。体を操る違和感もほとんどない。ただ、ときどき思い出したようにぶり返すことはある。
「しばらく通院は必要らしいがな」
「ずっと眠っていたこともだが、使った薬もどう作用してどんな不具合を起こすかわからないから、用心するに越したことはないさ」
彼の口振りから推察するに、メロディが提案して、クレメンスが了承した流れがあったのだろう。
目覚めてからいままで体調不良を起こしたことはないが、彼らの懸念通り、なにがきっかけでどうなるのか分からない。参照に
「通うにしても、
患者と主治医としての二人三脚の日々も今日でひと区切りとなる。
メロディ自身も望んだとはいえ、ハナやクレメンスの都合が彼女の人生を振り回した事実は消えない。願わくは、今後はもっと自由に未来を選択してほしい。
同時に、ここにきてハナは初めてクレメンスの自宅について意識した。無精でもないが凝り性でもない彼の家とはどんな様相なのだろう。軍属で、どうやら肩書きを持っているらしく、個人番号の発行を
「あとは個人番号か。必要な申請はすべて送ったが、あと数日は待ってくれと連絡があった」
「それまではこれもただの飾りか」
ハナは指先でリンカーの円環をもてあそんだ。
はじめのころは身につけることも忘れがちだったが、見舞いのたびにクレメンスが残念な顔をするので、じょじょに
とはいえ、もともとハナの退院予定である二か月後にリンカーも番号も用意されるはずだったのだ。それを半分のひと月に短縮したのはハナである。クレメンスは遅延ばかり気にかけているが、ことの原因の一端はハナにあるのだ。
「予定をくり上げさせたのはわたしだ。前にも言ったが不便は感じないし、急がなくていい」
「わかった。だが入院中ならともかく、退院後となると生活に支障が出る。そのあたりは伝えておく」
ひと通り情報交換を終えて、ふたりは黙々と先に進んだ。
病棟の廊下は正午をすぎた日差しでまぶしいほどだった。
軍病院の入院患者は大半が軍人で、残りの少数を政治家が埋める。その性質上、けがの治療を目的とした短期急性期機能が発達しており、メロディによると、重傷者ほど奥の病棟で高度な治療を受け、入院予定日が短いほど玄関ロビーに近い病棟に送られるらしい。長期患者のハナの病室がここに割り当てられたのは、退院に向けたリハビリ施設が充実しているからだ。
軽傷者が集まった当然の帰結として、ここの病棟はほかの病棟よりも二割増しでさわがしい。見舞客の往来はもちろん、患者が職業軍人ばかりゆえに、自主的にリハビリをしたり、散歩をしたり。病室を出れないのであれば動ける範囲で筋力トレーニングを積んだりと、みんなアクティブだからだ。
コロニーの人種の割合が獣人優勢であることと、人間よりも獣人が体力的に優位であることから、軍人、とくにけがを負うような現場の構成員はほぼほぼ獣人で占められるので、いまここにいる人間はハナだけだ。ましてや子どものなりをしているため、ひどく悪目立ちするはずだったのだが、心配は杞憂で済んだ。ハナよりも目立つ男がいたのだ。
無遠慮な視線にさらされても眉ひとつ動かさず、肩肘も張らず、ごく自然に威風を放つ男。精悍でりりしくて、性別を問わず他者を惹き寄せる。
物理的な背の高さが
「おまえはほんと目立つな」
「そうか?」
「無自覚か」
「いや、見られていることくらいは分かってる。ただ悪意がないなら問題ないだろう?」
一般人の感覚からは程遠い発言に顔が苦くなる。
長いこと他者の目にさらされることが常態化している、ということだ。
「……まえから聞こうと思っていたんだが、おまえいま、なにをやっ、」
「――おい」
野太い声に呼びかけられて、ふたりは足を止めた。背後を振り返る。屈強な体つきの獣人が、いまにもつかみかかりそうな目つきでクレメンスをにらんでいた。
丸太のように太い腕、という比喩がこれほど当てはまる男もめずらしいだろう。ふんわりとした黒い尻尾は一級品のマフラーのようだ。赤い瞳には炎が宿っている。病衣を着用しているので患者らしいが、どこかを患っている様子はない。数日あるいは今日にでも退院できそうだ。
「マックス」
「よぉ、司令官どの」
つとめて低いクレメンスの声と、挑発的な男――マックスの声音から、ハナはふたりの関係を類推した。悪友、ライバル、腐れ縁……どれにしてもめんどうなことになりそうだ。うんざりする。
その周囲では、水の波紋さながらに騒動が広がりつつあった。「うわ、マジか」「なんでこんなところで……」「だれか胴元やれよ」「かんべんしてくれ」「おれ五百」「どっちに」「だれか呼んできたほうがいいんじゃねえの?」「ひさしぶりだな、因縁の対決」「いいかげん決着つけろよ」などというささやきが交わされる。
どうやらこのふたり、常習犯らしい。
クレメンスを説得して早々に立ち去るべきかとも考えたが、にらみあう二体のあいだに入る隙がない。
マックスとかいう獣人は忠告するだけむだだろう。あれは喜んで危険につっこんでいくタイプだ。
この場でハナができることがない。ハナを隠すように前に出たクレメンスからも「よけいなことをするな」という一瞥を与えられたので、口をつぐみ、なりゆきを見守った。
「腕の傷はどうだ。近々退院だと聞いていたが」
「そりゃどーも。とっくに治ってんだがなぁ、医者が帰してくれなくてよ」
「彼らもよく分かっているんじゃないのか。隔離してくれれば世界は平和だ」
「それがマジなら、どっかのお偉いさんが権力を自分のために使ってるかどうか、調べるべきだな」
「探られて痛い腹はない」
クレメンスは言い切ったが、ハナはメロディを連想して思わず視線をそらした。
叩いたら埃、ほどではないにしても、
「ほー? 本当に?」
ふくみのある紅玉の目が、クレメンスをすりぬけてハナをつかまえた。
「そいつが例の人間だろ。ずいぶんちっせぇな。てめぇ、そういう趣味だったのか」
例の、と言わせしめるほどの噂が流布しているらしい。気になるものの、言いつけに従っておとなしくしておく。下手に発言するとますますマックスの興味を買いそうだ。
クレメンスが半歩横に動いて、無遠慮な視線をさえぎる。
「私が保護をした以上、扶養家族と同様のあつかいになる。規則はやぶっていない」
「専属の医者までつけてか? ずいぶん過保護だな」
噂はあなどれない。二体のやりとりの背後で、ハナはメロディの身を案じた。
クレメンスの名前で融通をきかせたらしいが、院内で望まないやっかみを買っている可能性が出てきた。あの優し気な彼女のことだ、つらい目に遭っても自分から告げ口はしないだろう。
「身体に特殊な問題があったから専門家を招いただけだ。雇用契約は個人的なもので、医師の給与は私が支払っている。病院側とも話しはつけた。おまえには関係ない」
「そーか? てめぇの
言動は短絡的だが、頭は即死していないらしい。
「一理あるな」
「ハナ……」
ハナが思わずうなってしまい、クレメンスがなんとも言えない顔でこちらを一瞥したのとほとんど同時に、聞き覚えのある怒鳴り声が割りこんできた。
「こら――――!!」
メロディだった。
どこかで遭遇したことがあるようなないような既視感がクレメンスとハナを襲う。
マックスだけは、予想しなかった闖入者に舌打ちをした。
「なんだ、てめぇ」
「あなたこそ、この騒ぎはなんなんですか!」
「関係ねぇだろ!」
「あります! ほかの患者さんたちに迷惑です! いますぐお引き取りください!」
すごんでも譲らないメロディに、マックスはいらだったようだ。感情そのままに顔がゆがむ。
ハナは危ぶんだ。あの男は、相手の性別やら年齢に忖度しないだろう。口ごたえされたら感情のままに暴力をふるうタイプだ。クレメンスもおなじ感想らしく、いつでも踏みこめるように構える。
だがメロディはまだ負けていなかった。
「問題行動が目立つようでしたら、私から担当医に進言しますよ! 精神状態が不安定そうだから、検査のためにもっと入院期間を伸ばすべきだって!」
いやなところを突かれたらしい。マックスがぐっと苛立ちを飲みこんだ。彼からしてみれば圧倒的に矮小なメロディをしばし睨みつけ、引き下がらないと判断したらしい。
「……ちっ、覚えてろよ」
「そんなセリフほんとに言うやつがい、もが」
ハナの軽口はクレメンスの大きな手によって阻止され、マックスは病棟の奥へ引き下がって行った。
おお、と周囲が感嘆の声をあげる。
マックスの姿が見えなくなって、メロディは全身から緊張をぬき、こちらへ駆け寄って来た。
「おふたりとも、だいじょうぶですか? ……すみません。来るのが遅くなってしまって」
「いいや、助かった。きみの勇気に感謝する」
「とんでもないです。あの、差し出がましいかもしれませんけど、このままでは目立ちますし、先に帰っていただくのはどうでしょうか。手続きは私が済ませておきます。正印が必要な書面はあとでリンカーに送信しておきますから」
「そうか……。すまない、頼むよ」
「お任せください。――ハナさん、また定期健診でお会いしましょう」
あいかわらず口を封じられたままだったので、言葉の代わりに首を縦に振って返事をした。
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