EP1.0 #03 rehab

 リハビリ室は四壁のうちの一面に鏡が貼られていた。身体の動きを患者自身に目視させて、より正確に動かせるようにする補助器具のひとつだ。

 ハナはそこで初めて自分の全身を目にした。クレメンスの言う通りだった。これは、だいぶ・・・、ちいさい。

 身長と顔立ちから推察し年齢に換算するなら、十歳よりすこし上だろうか。痩せ衰えているため、視座を変えればもっと下にも見える。肌にはしわもなく、肩までの髪や爪にはつやがあり、体型は寸胴。

 これでは脳が混乱するのも当然だ。

 ハナとは対照的に、やけに大きく成長した男に恨み言のひとつも思い浮かぶが、同時に切なさもこみ上げてきて、文句はあっけなく霧と消えた。

(ここまでやってでも、助けたかったのか)

 助けたいと彼は思ってくれた。

 思われた自分を、しみじみと思う。

 むだにはできない生きなければ、という前向きな意思と、強く過去を決別する意思とが重なって、一本の区切り線を引いた。

「じゃあまずは、自力で立ち上がるところから始めましょう」

 とメロディがスタートを呼びかけた。


 病室に入ったクレメンスが目撃したのは、ベッドに座ったまま水の入ったコップを持ちあげ、腕がまっすぐになったところで十秒ほど止めて、門型のオーバーテーブルに置く、という動作をくり返すハナだった。

「なにをしている?」

「認知矯正。ついでに軽微な筋力トレーニング」

 右腕が終われば、左腕にうつる。動作はあくまでも慎重に、指先の筋繊維一本一本すら意識する。

「熱心だな」

「どこかのだれかさんのせいで、ろくに歩けやしないからな。くっそ、絶対に今日中に自力でトイレに行ってやる」

 手荷物をベッド横のイスに置き、クレメンスは一画にもうけられたトイレに視線を投げた。高官用の個室は広く、彼の歩幅を基準に三歩から五歩ほどの距離がある。小柄になった彼女にとっては厄介なへだたりだ。

 とはいえこれだけの熱意があれば、応接セットや簡易キッチンといったほかの設備も使いこなすのに、ひと月もかからない気がした。

「あなたならできるさ」

 上半身を軽く抱き寄せ、彼女のひたいに頬をすり寄せる。

 わずらわしそうな表情をされてもまったく気にならない。むしろ、感情に任せて変わる面相すら愛しくてしかたなかった。

 ほんの数日前までじかに触れることすらままならず、まぶたを閉じて、眠っているだけだったのだ。それがいまは、この腕の中にいる。鼓動を感じる。安心する。

 そんな彼は細腕で押し返されて、至福を阻まれた。

「やめろ。昨日、風呂に入っていないんだから」

「そのぶんハナのにおいがする」

 染みついた薬液のにおいが薄れて、はだのにおいが立っていた。開花前の花のような、甘みを秘めた刺激が鼻腔を通り抜ける。これはこれで良いものなのだが、

「……ッ、このへんたいがっ」

 紅葉のような手のひらを重ねて全力で頬を押し返された。げせぬ。

「オレは好きだ」

 抵抗するか弱い両腕をからめとれば、あっけなく姿勢が崩れる。さいわい、下はベッドだ。押し倒したような体勢になったのをいいことに、首筋に顔をうずめて心のままに堪能する。

「はぁ……ハナのにおい……」

「やめんか! 離れろ……ッ!」

「どうしました!?」

 ずばん! とドアが開いた。「急に心拍数があがっ……て……」

「…………」

「…………」

 現れたのはメロディだった。水を打ったように室内が静かになる。

 ハナに覆いかぶさった体勢のまま、クレメンスは肩越しにメロディを見つめ――

「し、失礼しましたッ!!」

 顔を真っ赤にした彼女は、開けたときとおなじ勢いで扉を閉めて――

「いややっぱりだめですよ! ハナさんまだちっちゃいんですから!!」

 また、ずばん! と扉が開いた。


 医療上の目的から、ハナの生命反応はつねに主治医のメロディに監視されている。発信源は右手首に巻かれたリストバンドだ。患者情報が埋め込まれているので、緊急時には主治医以外でも投薬や加療の記録が閲覧できるほか、心拍数や血圧も取得できる。

 蛇足だが、治療記録はコロニーの住人に与えられる個人番号を通して住人データに記録されたのち、病院のサーバーから履歴は削除する決まりだ。ハナはまだ正式な個人番号が発行されていないので、移住申請中の住人に付与される仮番号にデータが送られる。

「なので急激な運動は避けてくださいね」

 とメロディは釘をさして部屋をあとにした。

 辞去を見届けて、ハナのうろんな目つきがクレメンスへ向く。

「で、おまえ仕事は?」

「ぬけてきた」

 しれっと言い放つ男は、今日も軍の略服を身に着けている。要は平常時の仕事服だ。かっちりとしたホワイトシャツに、肩章つきの黒ジャケット。

 具体的にどのていどの階級に属しているかは知らないが、軍属ではないメロディにも司令官と呼ばれていることから、一介の下士官ではないだろう。となると、それなりに部下もいるはずだ。ハナは見たこともない彼の部下にわずかな憐れみを覚えた。

「仕事しろ」

「やだ」

「子どもか」

「いままで休みなく働いてきたんだ。べつにこれくらいいいだろ」

 休みをとらないワーカーホリックが仕事を放り出すとか、きっと現場は混乱しているにちがいない。

 とはいえ休暇や休憩そのものは悪いことではないし、いままで働きづめだったというなら、なおさらだ。本音をいえば、毎日顔が見れるのもうれしい。よってハナは早々に説得をあきらめた。

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