第5話

私と繋いだ手と反対の手で、男の子は境目の先にある、他に比べて一際大きい光の塊を指差した。

「あそこまで行ってみようよ。」

どうやって?

あの光に向かうためには、境目を越えてこの魚の影の群れに入らないといけない。

なんとなく入ってはいけない気がした。

人間が入っていい空間ではない気がした。

「入ってもいいの?」

声が響くトンネルで、小さな声で聞くと、にやっと男の子は笑う。

「本当は入っちゃいけない。だから、内緒だよ。」

しーっと人差し指を口に当てていたずらな顔で笑うその仕草は、同級生の男の子たちが悪いことをした後にやるような仕草だけど、なぜかわくわくした。

小さく頷くと、また男の子は嬉しそうににこりと笑う。

私の返す言葉に行動に、全てに喜んでくれている気がして、肯定されている気がして、またまたほっとする。

すぐにふざける「男の子」というものが苦手だ。

なぜか悪いことをしでかしてしまった時、その場にいる人間を共犯に巻き込んで大人に隠そうとする「男の子」が苦手だ。

そういう時、だめだよって声をあげることもできず黙る事しかできない私がいるから、苦手だ。

だけど、手を引かれて更に私達は境目に近付く。

共犯に向かう。


ゆっくりと男の子は先に境目の向こうへ足を踏み入れる。

境目をすぎても、男の子になにか変わった様子はなかった。

ただ魚の影達は私たちの存在はわかるようで、男の子の身体にぶつからないよう、避けて泳ぎ始めた。

慌てる様子もな進行方向を変えることもなく、ただゆるりと避けているだけ。

恐る恐るその後に続いて、繋いだ手から境目の中へと入る。

指先で探る境目の向こうは、やは何も変わらないトンネルの冷たい空気。

思い切って身体全部で境目の向こうに踏み入れる。

やはり身体になんの変化も感じない。

ただ、自分の身体をギリギリのところで避けて泳ぐ魚の影があまりに近くて、少したじろぐ。

「大丈夫だよ。この子たちは何もしないよ。」

振り返り私の目を見てそう言う男の子の目と鼻の先を、一匹の影がゆっくり泳いで、丁度男の子の目だけを隠す。

「ふふ。」

目隠しみたいなそれがおかしくて、少しだけ笑った。

ぱっと男の子の顔が明るくなる。

「行ってみよう。」と、嬉しそうにわたしの手を引く。

ゆっくりと泳ぐ魚の影が私達をちゃんと避けられるように、目的だった一際大きい光の下までゆっくりゆっくり歩いていく。

形しかわからない魚の影は、特長的な形のものもいた。

私達の少し先を横切る、あの変な形の影は——

「…フクロウナギ。」

確か、そんな名前の魚。

体に不釣り合いな大きな口を持つ深海魚。

男の子は少し驚いたたように目を丸くし、私の視線を追ってその影を指差す。

「あれのこと?」

「わからないけど…多分そうじゃないかなって…」

「じゃあ、あれは?」

また別の魚の影を男の子が指差す。

指差したのは、大きな唇に、背ビレに背負っているたくさんのトゲトゲ。

あれはきっと、

「カサゴ、かな…?」

また男の子は、ぱっと表情を輝かせた。

「物知りなんだね。すごいね。」

屈託のない笑顔で褒めてくれた。

それは、クラスの男の子達のように皮肉を込めた褒め言葉ではないと分かった。

教室の隅で存在を消すように本を読む私を目ざとく見つけて、投げかけるような言い方ではなかった。

「ねえ、もっと教えて。あれは何と言うの?」

ゆっくりと歩きながら、男の子は色々な影を指差して私に質問した。

記憶を手繰り寄せては、当てはまりそうな魚の名前を口にする。

でも、全ては形の特徴でしか導き出せない。

合っているかもわからないのに、私が答える度に男の子はすごいねと褒めてくれた。

指差した影が何か答えられない時もあった。

だけど私が答えられなくても、咎めたりがっかりすることなど決してなかった。

じゃあ僕たちだけの名前を付けようと提案してくれたり、あれなら僕でも分かるかもしれないと一緒に考えてくれたり。

本を読むのが好きだった。

だが本から得た知識を口にすると、クラスの男の子にからかわれる。

ガリ勉だと。本の虫だと。

仲の良い女の子の友達は、からかうことなどないけれど、そんな難しい本私は読めないなと、本を読んでいる時の私からだけは一歩離れていく。

蓄積される本からの知識は、どんなに誇らしいものでも私の中だけのものだった。

そうして隠してきたことを、どれだけ言葉にしても男の子はもっと知りたいと言う。

口にする度嬉しそうな顔で私を褒める。

「本が好きなんだね。色々な知識があるのは素晴らしいことだよ。」

隠していたものを褒めて貰えるのは、本当に嬉しかった。

お兄ちゃんも同じように本を読むと褒めてくれた。だから今も本が好きでいることを思い出して、また嬉しくなった。

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