7日目 辞職

彼曰く、寂しいときはある日突然やってくる、深く考えていなくても。


辞めたい。


そんなことを考えることが、人生のどこかでやってくることがあるでしょう。

学校辞めたい。

仕事辞めたい。

恋人辞めたい。

結婚生活辞めたい。

人生を辞するまでに、様々なことから辞退する機会というのは、

往々にしてあるものです。

しかし、最近の辞めたい気持ちというのは、

なんとも小さな溜息とともに出てくる気がします。

その気持ちは河が流れるように行きついた先の結末なのか、

それとも風を読んで、帆を張って、舵を切った結果なのか。

前者ならば仕方のないことかもしれません。

スタート地点になった時点でその結末は見えなかったとしても、

運命としては決まっていて、個人の力1つでは変えることの難しい問題だった。

どうしようもない圧力を前に、屈することしかできないことだってあるはずです。

強力なクマや、鬼、母親からは逃れることは大変なのです。


しかし後者なら少し考えてみてほしい。

何も知らずに飛び込んだ未知の世界。

未開の土地を開拓していくには様々な困難がついて回るもの。

ときには身を粉にして考え、動き、しがみついて、

これから自分はどうするべきか、懸命にもがいてきたはずです。

それだけの苦難を前にしてひるまず、自分なりに拙いながらも工夫して、

進む指針を変えては失敗し、成功しては笑い、

確かな意志をもって乗り越えてきたのでしょう。

だからこそ、軽い気持ちでふと漏れてしまった、

まるでたまたま口に含んでいた飴が飛び出してしまったときのような、

何気ない一言で辞めたいなんて呟いても、

それが本気だとは到底思えないのです。

その一言には色んな想いがあるのかもしれません。

でも想いばかりが先行して、自分のこれまでの歴史を振り返らないのは、

なんとももったいないことだと思います。


仕事辞めよっかなー。

そんな軽口が、ときどき私の脳裏をかすめていきます。

少しドキッとする台詞を、ある先輩が口にしていました。

去年は月に1,2人くらいのペースで退職者が現れ、

暮れになって突然ごっそりと辞職する人が増えたのですが、

今年に入ってそうした話はほとんど出ていなかったので、

久しぶりの単語にナーバスになってしまったのかもしれません。

どうしてそんなことを言ってしまうのか、

入ってまだそれほど経っていないのに、なんでなんだろう。

入社しても3年は働こうと思っている私としては、

理由も定かでない、それでいてあっけらかんとした言葉が、

ちょっと信じることができなくて、

だからこそ能天気な、重みのない言葉だなと思っていたのかもしれません。

でも私は先輩ではありません。

どんな仕事をしていたのか分からないし、

仕事を楽しいと思っていたのかも、

ましてどんな気持ちで今まで仕事をしていたのかなんて。

たとえ第1志望じゃなかったとしても、

少しでも自分がやりたいと思って着いた仕事、

がむしゃらにやってきたのに軽いノリで辞めたいなんて言って、

そんなことでは報われません。

自分の選択を棒に振り、自ら無駄なことをしたと思っていると、

認めて、言ってしまっているようなものです。

自分の現状に満足がいかず、わがままを言って誰かにかまってもらいたい。

そんな自分勝手な理由でしか自分を守れない。

寂しくて、独りよがり。

冷静さを欠いた思考に至っている証拠です。


たとえ何もかもが嫌になって、思考を放棄したくなったとしても、

自棄になるのはよくないこと。

「自分を棄てる」、それは思考だけでなく、これまでの自分を蔑ろにすること。

普段の冷静な思考はどこに置いてきたのか。

確かにある日突然、遠い親戚のおじさんがぽっくりと、

命の火を燃やし尽くす日が来るように、

辞めたいというどうしようもない気持ちが去来することが。

でも実行する前に、一度考えてみてほしい。

なぜ自分は今そう思ったのか。

今までの自分の仕事を、自分はどう思っているのか。

これからの自分はどうしたいのか。

そうした様々なことを踏まえて、もう一度自分の心に問いかけてほしい。

それでも辞めたいなら、何も言わない。

なんでか分からなかったのなら、まだ辞めてしまうのは早いのでは。

もう少し立ち止まって考えてみても、海は優しく穏やかに待ってくれる。

周りはそんなに、思っているほど残酷すぎるわけではないかもしれません。


先輩が辞職していきました。

3年目を迎える方で、他にやりたいことがあるのだという。

私はそれほどかかわりがなかったけれど、

もし私が辞めたいと思ったときが来たらどう思うか。

ちょっとだけそれっぽいことを考えてしまいました。

辞める辞めないは人の自由、と言ってしまえばそれまでですが、

せめてその自由を犠牲にしてきた結果の辞職という選択ならばまだしも、

簡単な気持ちで口に出た結果の辞職なら、それは甘い考えなのではと思いました。

私が辞めたいと思ったとき、それは一体どんな瞬間なのか。

切迫した、わだかまりの残る結末ではないことを、なぜか祈ってしまいました。

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