28日目 休みの日

彼曰く、ゆっくり休むことができた気がする。


休みというのは、何もしないということではないと、私は思う。


休息、休憩、一息入れる。

これらにはすべて「息」という言葉が入っている。

息、すなわち呼吸。

人が生きる上で避けられないことに、

三大欲求が挙げられるのは耳にタコができるほどだけど、

それよりも根底にある本能的で原始的な、

生命維持機能を活動させ続けるために必要なことがある。

いくつか挙げられるだろうが、

真っ先に思いつくのが、呼吸。


空気を取り入れ、空気を吐き出す。

健常者であれば、苦労も意思も意識も力も、

何も必要とせずに実行することができる。

これほど単純な運動があるかどうかで、

人は生きているかどうかが決められる。

なんの感動もなく、なんの感情もなく、

吸気と排気を繰り返す。

意識を回せばそれは深く、重く、体に落とし込まれる。

身の内に秘められた更なる力を求めて、

ある人は呼吸の何たるかを知ることで鉄をも斬る膂力を手に入れ、

またある人は逆に呼吸を忘れることで神速の足捌きで魅せたという。

呼吸を殺すことで身体の活力を極限にまで高めることも可能なのだ。


呼吸は生きる上での物理的なもののみを示すわけではない。

人の世の間にはただ人だけがひしめくわけではなく、

同時に感情が渦巻き、混ざり溶けあい、醜く汚く濁っている。

後輩からの羨望、上司からの期待、友人からの嫉妬、恋人からの疑惑、

様々な視線が他人から浴びせられるなかで、

私たちは死んだように生きている。

ここでの生死は社会的なものであるが、

暴言や極論を振り回す者に集中砲火を受けることで、

いつしか精神論にまで及ぶ。

続けば心は歪み枯れ、呼吸は固く細くなる。

体は細り、目は薄れ、耳は遠くなり、鼻は効かず、

口に何が入っても分からず、触れるものから生は消える。

心を潰す呼吸は活力を奪い、体の死として顕現する。

戦国の世でも、時代の影に隠れてそのような死を迎えた者も多いだろう。

今ではそうした死ばかりが抽出されて社会問題などと叫ばれている。

そのような社会を作ったのが誰なのかも深く考えず、

死のはびこる世間に人は生きている。


常に隣り合わせの生と死。

この世に生を受けたのならば、

せめて少しくらいは生を謳歌したい。

そのためにこそ、一息入れることが大切なのだ。

仕事の合間、勉強の合間、家事の合間、

集中をあえて途切れさせることで自分が生きていることを再認識する。

それを長いことしてこなかったのなら、

一度思い切りのいい呼吸をしておくべきだ。

深呼吸、つまり一息といわず一日を休みに当てる。

この場合は休息というより休養だけれど。

常にしていることを止め、心身を静かに休める。

普段から死んでいるわけではないけれど、

たまには死から解放された場所で、生に浸るのも大切。

何もしないわけではない。

自然を歓び、本に学び、映画に躍り、食事を楽しみ、就寝を賛美する。

誰も見ていないところで、感情を発露させること。

生を謳歌したいのなら、体に入ってくる世界の息遣いすべてに身をゆだね、

自らの呼吸を合わせればいい。


夜はまだ若い。

大きな進展はなくても、自分の場所を固めることはできた。

これでまた生きていられる。

私はまだ、生きている。

休むことを、一息つくことを、私は楽しんだ。

その事実が心地よく、少しだけ変な感じがした。

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