6日目 谷
彼曰く、この谷にも心が和む要素があるのでしょう。
谷って一体何でしょう。
見たことも聞いたこともありません。
なにしろ日本という島国の、都会の中で生まれ育ったわけですから。
山や川や海なら何度も訪れていますから、
単語を聞けばどういうものか想像しやすいです。
ですが谷というものにはとんと縁がない。
訪れたことは山川海に比べれば少ないものでしょう。
想像には難くない場所ですが、
思い浮かべようとすると不思議と一歩後れを取るのです。
他の3つは容易に足を踏み入れてしまえるくらいに、
慣れ親しんだ場所という感覚があります。
しかし谷は、
足を踏み入れようとすると、
どこまでも落ちてしまいそうな、
そんな危うさと怖さと、何故か安心感があるのです。
どこまでも落ちて行ってしまいそうな、
それでいてすべてを受け入れてくれそうな、
不思議な魅力があるのです。
あらゆる恐怖から守ってくれて、
いつか大きく羽ばたかせてくれるような、
不思議な感覚を実らせてくれるのです。
コンクリートの冷たい壁と、酒と香水にまみれた人の空気。
歩く場所は新宿歌舞伎町。
夜の街として名高く、
今では感染者の温床とされている場所の1つでもあります。
ビルとビルにはさまれた小さな路地を歩いていくと、
そこがまるで谷のよう。
ここにいるたいていの人は、
この谷に縁はないと思っていたことでしょう。
それでも訪れる人は絶えません。
社会に突かれ、人に疲れ、金に憑かれた人々が、
癒しを求めてこの場所に来るのです。
酒におぼれ、女におぼれ、男におぼれ、金におぼれ、
ありとあらゆる情欲と物欲を満たすために、
この地に赴き、安寧を求めてさまようのです。
そして求める人を迎える人もまた、
かつての自分に新参者を重ねてみるのでしょう。
そこが己の生きる道だと、
そこが己の生きる場所だと、
甘い仕草と吐息で囲み、言葉巧みにかどわかし、
美しく甘い癒しを提供し、多くの人を招くのです。
1人でいる時間が長い程、
”つかれ”は呪いのように広がり、
人生に暗い影を落とします。
暗く、どこまでも暗く、
深い闇にとらわれた人々は、
谷へと吹く風のままに、
先へ先へと進んでいきます。
そこに何が待っていて、
何をさせるのかも知らぬまま。
つまるところ谷というものは、
生きる中で生まれた小さなひずみが、
少しずつ増えていき、
たまりにたまったそれが大きく成長し、
行くはずだった場所とは違う場所に導く、
1つの間違った道の先なのでしょう。
それと同時に、
精神と肉体に安らかな時間を与えてくれ、
次への一歩を踏み出させてくれる、
生死の交差する通過点でもあるのかもしれません。
人は生き、行ってしまうものなのです。
来るなら来いと身をもって受け止めてくれ、
まだ底じゃないと励ましてくれる。
そんな谷の居心地が良くて、
だれしもこの場所を勧め、
やがて谷に居続けることに誇りを持ち始めるのです。
埃をかぶっていたような少女が、
誇りある美女として生まれ変わるように。
未来を見つけられる世界に旅立つために、
一度はこの谷に落ちてみるのもいいかもしれない。
・・・そんな響きのいい言葉が、
店先のボーイやガールから聞こえてくる気がします。
こんなにボーイやガールがひしめいていれば、
そこらでボーイミーツガールが起きてもいいような気もしますが、
なかなかどうしてなびく人は少ないもので。
見れば通る人通る人みんな、
目先の誘惑よりももっと先にある、
目的地に向かって一直線。
良くないものの吹き溜まりくらいにしか考えられていないこの場所は、
だいぶ乱気流が渦巻いている模様。
いろんな思いが交錯する世界は、
いろんなドラマが生まれるものです。
だからこそ多くの人が集まり続け、
様々な憶測が交わるのでしょう。
その中心にいる人はきっと、
この街の状況に頭を悩ませながらも、
知らぬ顔で和んでいるのかもしれません。
むしろすべてを分かっているからこそ、
荒れ狂う風の中でも強くあるのかもしれません。
そう考えると、かの作品の谷に生きる姫様が、
どれほど強く美しいかが分かる気がします。
『風の谷のナウシカ』を見た帰り道、
頭の端っこの方でそんなことを考えていました。
次はかの名作でひとりごとです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます