25日目 物忘れ

彼曰く、思わぬところに罠は置かれているもの。


「あ~、なんてこった!すっかり忘れてた!」

雨がしとしと降り続け、天気がなかなか冴えないこの1週間。

今日も変わらずじめっとした部屋にこだまする声。

課長がいつものように叫んでいます。

うちの課長はよく叫びます。

阿鼻叫喚の地獄ほどではありませんが、

いきなり出てきた虫に悲鳴を上げるくらいには大きめの声です。

昔はこの声が上の階にも響いたために、

他部署から苦情が来た程度だそう。

慣れればかわいいびっくり声のようなものです。

しかしそれが毎日ともなれば嫌になるというもの。

週に1回のアトラクションならまだ飽きは来ませんからね。

今の時代に入社してよかったといえるでしょう。

ファストパスで常に強制入場の状態よりは、

ある程度間のある一定のペースで行われるパレードの方が、

ゆっくり落ち着いて見ていられるもの。

まだ1年目ではありますが、

お茶菓子とお茶の用意はできています。

さて今日はどんなドラマが待っているのやら。


聞いていれば簡単な話。

今日行われる打ち合わせのための資料作成で、

以前の打ち合わせで決定した事項を反映し損ねていたらしく、

てっきり完遂していたものと思っていたその資料を、

既に先方に送ってOKを貰ってしまったとのこと。

このまま打ち合わせを迎えるとなると、

予算立てていた金額の桁が1つ変わるほどの大損害。

送った先方はあくまで中継ぎであり、

実際の業務をする企業は先方の下部組織のため、

直接のやり取りができません。

つまり即時訂正を申し出ても、

あと15分で開始する打ち合わせに間に合うかどうか。

即時訂正のための資料やメールを作るのにも、

多少なりとも時間が必要です。

これは近年まれにみる危機。

今までどんな苦難も乗り越えてきたという、

百戦錬磨の課長でも、これほどの危機はなかなかないでしょう。

傍から見ている分にはおろおろしている課長がおもしろいですが、

当の本人はそれどころではないはず。

先日現れた黒い悪魔を見たときの私を、

後ろで隠れて見ているような気分です。

・・・自分のことなのでこれは笑えないな。


そのまま自分の仕事に追われ、

しばらく課長の事件を忘れていたのですが、

仕事の波がひと段落したところで、

課長の笑い声が響きました。

どうやら危機は去ったようです。

隣に座っている同僚に聞いてみたところ、

てっきり訂正を反映していなかったと思っていた資料は、

実はちゃんと送っていたそうだ。

送ったこと自体を忘れていたわけではない。

ひとまず資料を訂正しようとしたところで、

フォルダにあった資料がちゃんと修正されていたことが分かった。

そもそも修正していたことを忘れていたのです。

よって事件は事件になる前に収束を迎えたのです。


思わぬところに落ちていた罠。

物忘れという名の崖っぷち。

蓋を開ければただの段差。

こけないように気を付ければ越えられる。

未来の自分が困らないよう、

ちゃんと目を向けておけば、

罠にかかることはそうそうない。

自分が仕掛けた罠にかかるとは、

狩人失格、人間失格だ。

まあ人生にそれくらいの味気がないと、

面白みも何もないけれど。

それで周りに迷惑が掛からなければ、

小劇場にはふさわしい、かな。

とりあえず課長の騒ぎに気を取られて、

やっておくべきことを忘れていた、

今日の自分を叱っておくことにして。

さっさと帰ってしまうかしらね。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る