26日目 噂

 彼曰く、口から出る言葉に責任を持て。


「あの先輩、実は数年前に警察の厄介になっててさぁ…」


 どこかから危険な香りのする話が聞こえてくる。

 同じフロアに何人も人がいるにもかかわらず、堂々と、しかし声は低めに抑えておいた話し方。通りすがりの人間が覗いてきても、わざわざボリュームを変えようとはせず、そのままの姿勢を貫き通して話し続ける。

 むしろ、私は今こんな話をしているんですすごく面白いんですよこれは知らないと損なのでぜひ聞いていってくださいお仕事で忙しいようならいいですでもここで話す方が私たちにとって都合がいいので話し続けますね結果的にそれがあなたの耳に届いたとしてもそれは私の責任ではなくたまたまそこにいたあなたがたまたま聞いてしまったというだけなのでそこだけは気を付けてくださいね、と言わんばかりの豪胆さで目がランランと光っている。

 楽しいおもちゃを見つけ、買ってもらおうと親にアピールする子供みたいな仕草である。スーツを着ていればまだよかったものの、この会社は基本私服なために、子供っぽさを存分に高めているところが悲しい。

 そんな子供レベルの過ちにも気づかず知能水準を下げている彼だが、私に関係ないはずもない。彼は会社の後輩であり、同じ部署の後輩であり、なんなら同じプロジェクトに参加する私が直接教えている後輩でもあるが、肩書上の関係のことではなく。

 噂という名で塗り固められた情報が渡ってしまった相手だということだ。


 先月の話だ。新年度が始まってまだ間もないころ、入社したての後輩と私を含めた先輩社員たちの顔合わせが部署内であった。

 毎年恒例のことだが、意気揚々と入社してくる後輩たちを見るのは、私たち先輩側からすれば新鮮なことだ。普段の安っぽいコンビニ弁当が高級レストランのコースメニューになるくらい、新人たちは輝いていて、直視するのに相応の覚悟を要するイベントだ。高級とはいかないが、細やかな席が夜になると催される。事件はその帰り道に起きた。

 たまたま帰り道が同じだった後輩の2人と同期の3人で会社を後にした。改めて互いの自己紹介をして、それぞれの印象を語っていた時だ。

「そういえばあの人、ちょっと前に事故ってつかまってたな」

「そんなこともあったなー。昔は真面目だったけど、そのせいでグれてああなったらしいぞ」

「やっぱりかー、俺も気を付けないとなー」

 話の流れでそんな言葉が5人の上に浮いた。誰かが警察に補導されかけたとか、警察署は大変なところだとか、そういう話をしてしまったのだろう。つい言葉が漏れてしまったのだ。

 会社ではそういう話はご法度、プライバシーの侵害だというのが暗黙の了解だ。酒の席で無礼講というわけでもないが、人間にはこういう話の漏らし方がある。蛇口をひねって水が出てくるのを不思議に思っていた子供のころ、水場を見るたびに蛇口を回して歩いたように、あるいは好きな酒を飲みすぎてしまい、目の前に現れた水場をオアシスのように感じてそこに抱き着いたように、不意にひねり出したくなるのだ。それはもはや本能に近いものかもしれない。

 すぐにその話題はやめた。これでも大人、分別はついている。だから大した話ではないと思われているのではないかと思っていた。酒も入っていたことだし、たいして記憶には残らないだろうと。


 だが甘かった。

 口から出た言葉は捕まえて逃がさないようにしても、結局どこかに広がっていく。まるで生きたトカゲのように、噂を聞いたという痕跡を残して、捕まる度に真実味を帯びていく。

 たとえ上司の想像しがたい話だったとしても、思わぬ言葉が興味を引くこともある。「聞いたような」という曖昧さは、運ばれるたびに核を大きくし、広がるころには確信という脂肪で肥えている。そして「本当だって」という言葉を腰に引っ提げて、ほうぼう回った後になって自分のところに帰ってくる。

 とぼけようものなら自分の信頼に関わる、とはいえ先輩の噂を野放しにしておくのもよくない。自分で蒔いた種から咲いた真っ黒い花は、気付けば自分では回収できないほど棘をもち、触ることさえ恐怖させる。

 自分の言葉には責任を持て。そう確信した瞬間だった。


「だからお前も気をつけろよ」

 先輩がそんなことを言って肩を叩く。帰り道たまたま一緒になったその人と私は、会社で広まる噂について話していた。

 心優しい先輩からの、実感の籠った台詞と助言。いつもならありがとうございますと返すところだが、口から出たのは小さな謝罪だった。

「すみません…」

 呟くよりも小さな声で、独り言のように自然に出た言葉は、彼の耳に届いただろうか。届いたとしたらどんな確信をもたらすだろうか。どれほどの棘を向けるのだろうか。

 願わくばくだんの噂の発端が私であり、咲いた花が先輩の髪の色と同じであることに気づきませんように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る