6日目 湖

彼曰く、音のない世界は生きていない。


私はいま湖にいる。

誰にも知らせず、歩いてきた。

死ぬためにきた。

手漕ぎ舟の上。

漕ぎ手はなく。

風と水の思うまま。

何も無い湖の上を漂っている。

私はいつここに来たのだろう。

岸があんなに離れている。

太陽はさっきから動いていない。

山は緑が豊かで色濃く。

湖は空と同じ青。

今日のコートの色と同じ。

目を閉じればそのまま水に溶けてしまいそう。

透き通るように静かな水面。

輝くように光を返す鏡。

鏡を壊さず沈めたら。

どんなに気持ちいいことだろう。

温度のない風が頭上を往く。

船が少しずつ進んでいく。

耳をふさげばそのまま風に飛ばされそう。

においも味も感じない空気。

抜けるように通り過ぎる力。

抗うことなく身を任せたら。

上まで飛んでいけるだろうか。

もうすぐ死ぬ人間が。

こんなに感情豊かなことを。

誰が知っているだろう。

誰も知らずにいるだろう。

誰にも知られることなく。

死んでいくのがいいのだろう。

息を止めて覚悟を決める。

足に力を入れる。

ひと思いに沈めるように。


水が揺れた。

風はない。

地震もない。

波が起きるはずがない。

さっきまでの綺麗な鏡が消えた。

私が砕くはずのそれはどこ。

目元が濡れる。

塩の味がする。

鼻にはツンと詰まるにおい。

これは独りのときの感覚。

どこからか音楽が聞こえてくる。

きれいで。

儚くて。

ふさいだ耳を抜けて響く。

小さく大きい星の音。

目を開けると対岸に人の影。

優雅に構える横顔と。

長い指から発する囁き。

人のいない湖の演奏会。

弾き手は一人。

聞き手は二人。

彼の指は空気を揺らし。

山も水も空さえはねて。

空がつながっているのと同じように。

二人の命をつないでいる。

命を奏でる湖の上。

ぽつんと残る舟一艘。

まわりに広がる波の色は。

空とは違う濃い青で。

怖いくらいに目に残る。

これは私の感情か。

捨てたはずの心が鏡を揺らす。

波を作るのが怖いのか。

音のない世界が怖かったのか。

忘れた感情が足元に残っている。

残った感情は波に溶けて。

輝く光が目に入る。

暗かった命に火が宿る。

それはとても暖かで。

ぼうぼうと命の音を立てている。


いつの間にか舟が岸についた。

ずっと音が鳴っている。

人も家族も心も捨てたはずなのに。

音が響いて離れない。

ここに来る前は音がなかった。

誰といても。

何をしても。

何の音も響かなかった。

あの頃こそ死んでいた。

舟から降りて地面に立つ。

土の香りがする。

森の息が体に当たる。

命の音が響いている。

前とは違う新しい感覚。

何が違うかははっきりしないけど。

きれいな音が湖に響く。

この音はずっと聞いていたい。

今の私に流れる音。

死にゆく私を引き留めた音。

この音が響いている間は。

私の世界はまだ続く。

この音が私を生かすならば。

私もこの世界を生きていよう。

この音をずっと響かせよう。

そして願わくば。

この音を作った人に会いに行こう。

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