三 接近遭遇

「啓ちゃん。みーちゃん。近くのお店の中に避難しましょ」

 母親が言い、立ち上がる。

「うん」

 啓介は立ち上がりながら言って、自分の前に置いていた荷物を持つ。

「美羽、眠い」

 美羽が両目を両手で擦りながら言う。

「ほら。みーちゃん」

 母親が言って美羽を抱き上げる。

「母さん。俺が美羽を連れて行こうか?」

 啓介は母親の方に顔を向けて言った。

「大丈夫よ。啓ちゃんこそ、荷物置いていって良いわよ。後で取りにくれば良いんだから」

「良いよ。持ってく。後で戻って来るのも面倒だし」

 母親の言葉に啓介は言葉を返しながら、周囲に目を向ける。啓介達以外の公園内にいた人々も避難を始めていて、公園から外に出る為の二つの出入り口には、ちょっとした人だかりができていた。

「すぐには出られそうにないわね」

 園内から出ようとする人々が、少ない方の出入り口の近くまで行って足を止めると、母親が言う。

「避難するのやめる? どうせ、ここにはPSもPS結合体も来ないよ」

 啓介は人だかりの方に目を向けて言った。

「啓ちゃん。何かあってからじゃ遅いんだから。そんな事言わないの」

 母親がそう言い、周囲を見回すように顔を動かす。

「そうだけど、建物の中に入ったってPSの方は入って来るんでしょ。昔と違って今はPSが、ドーム都市の天井を抜けて来ちゃうから、避難しても意味がないんじゃないかって、誰かが言ってたのを聞いた事がある」

 啓介は言って、歩き出すまで置いておこう。と思うと、荷物を地面の上に置いた。

「啓ちゃん。みーちゃん。見ちゃ駄目」

 母親が大きな声で言い、啓介の目が母親の手によって塞がれた。

「何? どうしたの?」

 啓介は、訳が分からず声を上げる。

「啓ちゃん。みーちゃんをお願い」

 母親が言ったと思うと、眠っていて弛緩している美羽の体が、啓介の胸の辺りにぐっと押し付けられる。

「母さん?」

 啓介は声を上げながら、美羽を抱き抱えた。

「啓ちゃん。みーちゃんと逃げて。早く」

 母親が言い、母親の手が啓介の顔から離れる。

「母さん? 何? なんなの?」

 啓介は自分の視線の先にいる、歩いて遠ざかって行く母親の後ろ姿を見ながら声を上げる。園内にいる人々が悲鳴のような声を上げ始めた。

「にーに? お母さん?」

 美羽が啓介の腕の中で、瞑っていた目を開けて言う。

「母さん? どこ行くの? 待ってよ」

 啓介は言いながら母親の後を、追い駆けようと走り出そうとする。

「啓ちゃん。こっちに来ちゃ駄目」 

 母親が一瞬だけ振り向いて言う。

「母さん。どうしたんだよ。どこ行くの?」

 啓介は走り出しながら言った。

「PSがいるの。だから、逃げて。絶対にこっちには来ないで」

「じゃあ母さんも逃げてよ」 

 啓介は母親の言葉を聞いても足を止めずに言った。

「お母さんが、見ちゃったみたい。だから、お願い。みーちゃんと逃げて」

 母親が言う。

「母さん? 何、言ってんの?」

 啓介は言いながら足を止めた。啓介の視線の先で母親が歩みを止める。

「二人じゃなくて良かった。お母さんで良かった。啓ちゃん。みーちゃん。ごめんね。お母さんがおかしくなる前に早く逃げて」

 母親が言っている途中で、きらきらと夜空に輝く美しい星のような明滅する光点がそこかしこにある、白い靄のような物体が母親の全身を覆った。

「PS」

 啓介は絶望に駆られながら声を漏らす。小学生の頃に体育館に集められ、ステージ上にある大きなスクリーンに映し出された映像で、一度だけPSが現出した時の様子を見せられた事があった。今、母親の全身を覆っている物体は、その時見た映像の中のPSと、同じ物体に見えていた。

「お母さん? お母さん? どうしたの?」

 啓介の腕の中にいる美羽が、母親の方を見つめて言う。

「美羽。見るな」

 啓介は言って、抱き抱えている美羽に、母親の姿を見せないようにする為に、体の向きを変えて背中を母親の方に向ける。体の向きを変えた所為で、見えなくなってしまった母親の姿を見ようと、啓介は顔を斜め後ろに向けた。母親の全身を覆っていた靄が動き始める。靄は母親の顔の方に集まって行くと、二つある耳の両方の穴の中に入って行き始める。突然、母親が崩れ落ちるようにして、その場に仰向けに倒れた。

「母さん」

 啓介は咄嗟に声を上げ、母親の傍に行こうと体の向きを変えようとしたが、美羽を抱き抱えている事を思い出すと、体の向きを変える事ができなくなった。母親の顔が見えるようになり、靄が耳だけではなく、顔にある穴という穴、目や鼻や口からも母親の体内に入って行っている様子が見える。靄がすべて母親の体内に入ると、母親の体が二、三度大きく痙攣し、母親の見開かれていた目の中にある瞳から光が失われて行った。

「にーに。放して。美羽、お母さんのとこ行きたい。お母さん。お母さん」

 美羽が声を上げる。倒れていた母親がゆっくりと立ち上がった。母親のだらしなく半開きになり、涎がだらだらと流れ出ている口が微かに動いたと思うと、聞き取れるか聞き取れないかくらいかの小さな声がする。

「に、げ、て」

 本当にそう言ったのかは、はっきりとは分からなかったが、啓介は母親が確かにそう言った気がした。

「お母さん」

 美羽が一際大きな声で叫んだと思うと、激しく暴れる。母親の姿をじっと見つめていた啓介は、美羽のその動きに反応する事ができなかった。啓介の腕の中から抜け出て地面の上に降りた美羽が、母親のいる方に向かって駆け出した。

「美羽」

 啓介は体の向きを変えながら叫びつつ手を伸ばす。美羽の手を掴んだが、走っている美羽の勢いに負けて、啓介の手は美羽の手から離れてしまう。

「お母さん」

 美羽が言いながら母親に抱き付く。啓介は駆け出すと、美羽と母親の傍に行った。

「母さん。ねえ、母さん。大丈夫? 何か言ってよ。母さん」

 啓介は母親と母親に抱き付いている美羽の姿を見ながら言う。不意に、なんの前触れなく、母親の体から母親の体内に入って行った白い靄のような物体が、木の枝が生えるようにして十数本飛び出す。啓介は驚きのあまりに、声を上げる事も、体を動かす事もできない。飛び出した物体の先端部分、ミミズの頭部のように丸みを帯びていた部分の形が変わり始めると、全長が二メートルくらいあるその物体の先端部分から十数センチの所までが、文化包丁の刀身のような形に変わる。

「母さん?」

 啓介は言葉を漏らしてから、数歩後ろに下がる。ひゅんっという風を切る音が啓介の耳に入って来た。何が起こったのかは分からなかった。気が付くと、体が地面に向かって倒れて行っていた。地面に顔や胸がぶつかる衝撃を感じ、音を聞いた啓介は、すぐに立ち上がらないと。と思うと両腕を動かそうとする。奇妙な違和感があった。腕を動かそうとしているのに、何も腕の方からは伝わっては来ない。啓介は顔を動かして右腕を見る。啓介は自分が何を見ているのかが分からなくなった。自分の腕のある場所には腕がなく、真っ赤な鮮血が飛び散っていて、血溜まり広がって行っているだけだった。啓介は左腕も見る。左腕の方も右腕と同じようになっている。啓介は言い知れぬ恐怖と不安を感じ絶叫した。絶叫している啓介の顔の前に、何かが降って来る。啓介の喉は、ぴたりと、音を出すのを止めた。啓介は目の前にある物を凝視する。それは、小さな手だった。その手は手首に繋がっていて、その先には、前腕があり、肘があったが、肘の先には何もなかった。

「美羽」

 啓介は声を上げながら、顔を動かし、美羽の姿を探す。美羽の姿はすぐに見付かった。啓介の正面、斜め上。先端部分が五本の指のある人の手の形のようになっている、一つの白い靄のような物体が美羽の首を掴み持ち上げている。美羽の体の形がおかしい事に啓介は気付く。両腕がなく、両足もない。腰から少し上の脇腹の所から長細く真っ赤な管のような物が垂れ下がっている。腕からも足からも、管のような物が出ている所と管のような物からも、真っ赤な鮮血が滴っている。

 なんだこれ? なんなんだ? 何が起こってるんだ? 母さんはどうなってる? 美羽は? 俺は? 啓介の頭の中で思考が爆発し、啓介は錯乱した。先端部分が文化包丁の刀身のような形になっている白い靄のような物の一つが、美羽の頭部に、その尖っている先端を突き付ける。美羽の頭部から真っ赤な鮮血が流れ出し、美羽の顔や首を血の色に染めて行く。

「にーに。お父さん。痛いよ。助けて」

 美羽が大きな声で叫んだ。その叫びが錯乱している啓介の耳に届く。

「啓介。俺がいなくなったら、美羽と母さんを頼むな。こんな事頼んで、ごめんな」

 啓介の頭の中に、あの日の父親の言葉が浮かぶ。父さんの言葉? そうだ。父さんに頼まれたんだ。俺がしっかりしなきゃいけないのに。美羽も母さんも助けなきゃいけないんだ。もう誰も失いたくない。こんなの絶対に嫌だ。こんなの絶対に認めない。思い出した父親の言葉のお陰で我に返った啓介は強くそう思った。

「母さん。やめて。美羽を殺さないで」

 ありったけの力を振り絞って叫び、啓介は、体を前に向かって進ませようとする。だが。啓介には何もできない。叫び続けている声が枯れて行き、出なくなる。体はまったく前に進まない。美羽の頭部に突き付けられている文化包丁の刀身のような形になっている物の先端部分が、ゆっくりと美羽の頭部の中に突き刺さって行く。美羽の叫ぶ声が大きくなる。啓介の体には激痛が走り始め、視界の上の方から暗闇が落ちて来る。啓介は意識が遠退いて行くのを感じる。それでも、啓介は抵抗を諦めなかった。なんとかするんだ。美羽も母さんも助ける。啓介はそう思いながら歯を食いしばり足掻き続ける。

「ハル。見付けた。既にPS結合体になっている。「ウデ」を展開して子供を二人襲っている。救出の為、こちらも「ウデ」を展開し戦闘に入る」

 女性の淡々とした声が聞こえたと思うと、美羽の頭部に刺さって行っていた白い靄のような物、「ウデ」が、途中から切断され、切断された部分から先の部分が空間の中に溶けるようにして消えて行く。美羽の首を掴んで持ち上げているウデも途中から切断されると、美羽の体が、母親の体から生えているウデではない別の数本のウデの手に渡る。

「大丈夫。必ず助ける」

 女性の声が言い、美羽の体が数本のウデによってどこかに運ばれ始める。

「お母さん」

 美羽が言う。

「母親、なのか?」

 女性の声が言った。

「お母さんを助けて」

 美羽が女性の声に応じるように言う。

「分かった。分かったから、もう、何も言わなくて良い」

 女性が言うと美羽の姿が啓介の視界の中から消えた。消えた美羽の姿の代わりに、今度は、顔の上半分に灰色のゴーグルのような物を装着していて、黒一色のツナギ服に身を包んでいる、肩に掛かるくらいの白銀色の髪をした女性の姿が啓介の視界の中に入って来る。

「済まない」

 女性が言うと、女性の体の背中の部分から数本生えている、先端部分から七十センチくらいの所までが、日本刀の刀身のような形をしているウデが、一斉に母親にその切っ先を向ける。

「母さんを殺さないで。頼む。お願いだ」

 啓介は声を上げる。かすれていて消え入るような声だったが、その声は女性の耳に届いたようだった。

「済まない」

 女性がそう言った瞬間、母親の体から生えているすべてのウデが女性を襲う。女性の体から生えている数本のウデが咄嗟に防御をするが、防御するウデをかいくぐった母親のウデの先の、文化包丁の刀身のような形なっている部分が、女性の体にいくつもの切創を刻む。

「母さん。やめて。もうやめてよ」

 啓介はかすれていて叫びにならない声で叫ぶ。母親は女性に対する攻撃を止めず、更にウデの数を増やして攻撃の勢いを加速させる。

「済まない。方法はこれしかない」

 女性が言うと、防御に回っていた女性のウデが攻勢に転じる。その後の戦いは、一方的な物だった。女性のウデは母親の体から生えているウデのほとんどを、その途中から切断する。切断されたウデは、切断部分から根元側の方の部分を残し、空間の中に溶けるようにして消えて行く。ウデのほとんどを切断され、攻撃する事も防御する事もできなくなって行った母親の頭部を、女性の先端部分から七十センチくらいの所までが、日本刀の刀身のような形をしている数本のウデが、串刺しにする。

「母さん」

「済まない」

 啓介の小さなかすれている叫びの声に、女性が応じるように言うと、女性の体から生えているウデのいくつかが空間に溶けるようにして消えて行く。

「行こう。救護班を呼んである。君はきっと助かる」

 女性が母親に背を向け、啓介の傍に来て言い、啓介の体を自身のニ本の腕で抱き締めるようにして持ち上げる。啓介は女性の腕の中から逃れ出ようとしたが、体に力が入らなくなっていて、体のどの部分も動かす事ができなかった。

「助けなんていらない。どうして、母さんを殺したんだ。殺さないでって言ったのに」

 啓介は、女性の腕の中から逃れ出る事を諦めると、女性の肩越しに母親の死体を見つめながら、かすれた小さな声で言った。女性が、済まない。とだけ答える。

「放せよ。俺もここで死ぬ。もう生きてなんていたくない」

 啓介はいつの間にか流れ出した涙で歪む、視界の中にある母親の死体を見つめ続けながら、小さなかすれた声で言う。

「そんなふうに思ってはいけない。きっと、君の母親は君に生きていて欲しいと思っている」

 女性が言う。

「母さんを殺した癖に勝手な事言うな。お前が母さんを殺したんだ。お前が」

 啓介は言葉の途中で、口を閉ざす。啓介は母親の死体の先の空間にある物体を凝視する。その物体は突如としてその場所に現れたかのようだった。その物体はきらきらと夜空に輝く美しい星のような明滅する光点がそこかしこにある、白い靄のような物体だった。PSだ。そう啓介は思うと、声を上げそうになった。だが、啓介は声を上げないようにと必死に堪えた。PSが啓介と結合しようして、啓介に近付いて来る。啓介を抱き抱えている女性は、PSが背後から近づいて来ている事に気が付いてはいない。

「助けてくれたのに、酷い事を言って悪かった。一つ頼みがある。母さんに最後のお別れを言いたいんだ。少しの間だけで良い。俺と母さんだけにして欲しい。俺をここで降ろして、こっちを見ないようにして少し待ってて欲しい」

「出血が酷い。時間がない」

 啓介の言葉に女性がそう応じる。

「少しで良いんだ。頼む。お願いだ。母さんと二人だけで、ちゃんと別れを告げさせて欲しい」

 啓介は間近まで迫って来ている、PSを見つめながら、かすれた小さな声で更に言う。

「このままでは、君が死んでしまう」

「お願いだ。どうしても、母さんとちゃんとお別れがしたい。このまま別れたら、俺はずっと後悔し続ける」

 女性の言った言葉を無視し、啓介はしつこくそう言葉を出して食い下がる。束の間、躊躇ってから女性が、分かった。では、本当に少しだけ。と言った。

「ありがとう」

 啓介は消え入るような声で言う。女性がその場に啓介をそっと仰向けに寝かせた。地面の上に置かれた啓介は、母親の姿を見る。

「母さん。父さん。すぐにそっちに行くから。美羽。先に行って待ってる」 

 自分だけに聞こえるような小さな声で、言い終えたのとほとんど同時に、PSが啓介の体を覆った。これで終わる。PS結合体になれば、すぐに殺されるはず。啓介はそう思う。PSが啓介の顔の穴という穴から啓介の体内に侵入を始める。痛みは感じない。意識がゆっくりと遠退いて行き始める。

「どうして? なぜPSの事を黙っていた?」

 女性の声がする。

「あの子は、妹なのだろう? あの子を一人にしてはいけない」

 女性の声が言う。

「諦めてはいけない。まだ、戻って来られる可能性はある。これは、PS結合体だ。だが、他のPS結合体とは違う。これは、人としてのすべてを持ったままPS結合体となった。どうしてそうなったのかは分からない。だが、君だってそうなれる可能性はある。だから、あの子の為に諦めてはいけない。あの子の為に戻って来てあげて欲しい」

 女性の声が言った。

「分かった。俺は石にかじりついても、生きる事を諦めない。お前が戻って来るまでは絶対に死なない」

 いよいよ閉じて行こうとする意識の中で、女性の言った言葉が、啓介に父親のあの日の言葉を思い出させる。そうだ。あの時、父さんは生きててくれてたんだった。病室に戻った時、もう意識もなくなってて、俺の言葉にも応えてくれなくなってたけど、心臓はちゃんと動いてて、呼吸もしてた。父さんは俺の為に、諦めないで頑張って待っててくれてたんだ。俺は、俺は、何をやってるんだ? 母さんの事は助けられなかったけど、まだ、美羽の生死は分からない。俺も美羽の為に、石にかじりついても生きるべきだったんじゃないのか? 駄目だ。まだ、死ねない。美羽の為に死にたくない。PS結合体になっても、この人みたいなPS結合体になって、俺は、美羽が生きてるのなら、俺は、石にかじりついても、生きていたい。そう思ったのを最後に、啓介の意識は一条の光もない暗闇の中へと落ちて行った。

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