イートインの彼女
迎ラミン
イートインの彼女
広い公園を抜け、団地の前を通り過ぎたあたりで四角い屋根が見えてきた。
同時に、思わず笑いが込み上げてくる。
まさか、なあ。
頬が緩むのを止められない。
ほんと、まさかだよ。
七月末の強烈な陽射しに、頭がやられたわけじゃない。キャップを被っているし、水分補給もこまめにしている。けれども顔がほころんでしまう。
団地の端に、コンビニがあったから。
彼女と出会ったのも、コンビニだったから。
はやる気持ちを抑えきれなくなって、俺は巨大な屋根に向かって駆け出した。
◆◆◆
マキちゃんとは、近所にあるコンビニのイートインスペースで出逢った。
学校がある頃には、最寄りの
ただしその日は、部活帰りどころか学校帰りですらなかった。新型コロナウイルスのせいで、俺の高校もいまだに休校中だからである。部活の方も、なんとインハイ=インターハイまでもが中止。二年生の俺にはまだ来年があるとはいえ、大きな目標が突然消えた事実には、やっぱりやり切れない想いがある。
そんな息子の気分転換を図ってか、まさにインハイ予選が開かれる予定だった六月のある晩、母親がお使いを頼んできたのだった。急ぎの封筒があるのに、切手を切らしていたのだとか。
言われるがままいつものコンビニへと出向いて切手を買った俺は、ついでにドリップ式のアイスコーヒーも購入して、座り慣れたカウンター席に腰かけた。外出自粛要請は今月一杯続いているけれど、親のさり気ない優しさに甘えて、少しだけのんびりさせてもらおうと考えたのだ。
と、大きな影に声をかけられた。
「Excuse me? スミマセン」
黒い肌をしたアフリカ系の男性だった。
「え? あ、はい。イエス」
思わずイエスと言ってしまったがために、男性は俺が英語を話せると勘違いしたらしい。何かを問いかけるような口調が一気にスピードアップする。やばい。
焦る俺を助けてくれたのが、マキちゃんだった。
「Excuse me? Can I help you something?」
流暢な発音とともに割って入ってくれた同い年くらいの女の子は、どこかを指さすような身振りも交えて男性と会話を続け、最後ににっこりと笑った。同じく笑顔になった男性が、ぎこちないお辞儀をして店を出ていく。俺にまで同じ仕草を送ってくれたのが逆に申し訳なかった。
ともあれ、彼の背中がガラス扉の向こうに消えたところで、俺はあらためて女の子に礼を述べた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ。駅までの道を訊かれただけですから」
朗らかな笑顔。同時に、彼女の胸元にも俺の目は吸い寄せられた。といっても別に変な目的ではなく、着ているTシャツのロゴマークに気づいたからだ。
「あ。『アクセラレイター』」
そのブランドはスイマー御用達の、というかスイマー以外はほとんど着用しないスポーツブランドだった。たまたまだけど、俺も同じロゴのTシャツを着ていた。
「あ、はい。水泳やってるんで」
笑顔を少し恥ずかしそうなものに変えて、女の子が頷く。水泳選手らしい広い肩の上でさらりと揺れる、ボブカットの黒髪。
素直に「可愛いな」と思った。
だからだろうか。別にチャラい性格じゃない(はずだ)けど、俺は咄嗟に口にしていた。
「僕も、そうです」
我ながら単純だとは思うけど、翌日から俺は同じ時間を狙って何度もコンビニを覗くようになった。
彼女とはじめてゆっくり話ができたのは二週間後、三度目に遭遇したときだ。イートイン席に座っているのが見えたので、慌てて自分もコーヒーを買って「隣、いいですか?」と声をかけてみた。返ってきたのは「ああ! はい、どうぞ」という、あの明るい笑顔。下手なナンパみたいで申し訳ないけど、これでも勇気を振り絞ったのだから勘弁して欲しい。
そうしてわかったのは、彼女はやはり同い年の高校二年生で、ここからも近い地元の公立校の生徒ということだった。水泳の他に英会話のレッスンも受けているそうで、「もともと英語は好きなんです」と楽しそうに教えてくれた。
「インハイ、残念だよね」
タメ年だから敬語はやめよう、とこれまた勇気を出して言えたのはさらに一週間後、四度目のとき。
「うん……。大会がなくなっちゃうと、そうだよね」
彼女は困ったようにうつむいていた。
「今は練習、どうしてるの?」
本当は連絡先を訊きたいのに、びびってこんな質問しかできなかったのは、また一週間が空いた五度目。いつかみたいに恥ずかしそうな微笑で、彼女は答えた。
「少人数での筋トレが中心かな。もちろん終わったら、ちゃんとアルコール消毒してるよ」
というかこの時点でも、俺は彼女のフルネームを知らなかった。タイミングを逸した気がして、「名前、教えて」のひとことが今さら切り出せなくなっていたのだ。何度も言うけど俺はチャラくないし、むしろヘタレ気味の男子なのである。
ただ、カウンターに置かれた彼女のスマホに、《MAKI》と刺繍したチャームが付いているのはわかっていた。だからその日の別れ際、「おやすみ」のあとにさり気なく「マキちゃん」と付け加えてみた。顔が熱いのを自覚しながら。
彼女は一瞬だけきょとんとしたあと、俺の好きなあの笑顔で「おやすみ」と手を振って去っていった。
けれどもそこから、マキちゃんに会えなくなった。
もう半月以上になる。すわコロナか、と俺はめちゃくちゃ心配していた。今週に入ってからは、今まで以上にコンビニに通った。頑張って連絡先を訊いておけば、と本気で悔やんだ。これでマキちゃんが本当に罹患していたら、お見舞いのメッセージすら送れないのだ。自分のヘタレ加減が心底嫌になる。
今日も駄目だったら店員さんに訊いてみよう、と決意してまたもや店を訪れたとき。
「あ!」
マキちゃんの声がした。
「マキちゃん!」
俺は一目散に、イートインスペースに駆け寄った。
「良かった。コロナにかかっちゃったんじゃないかって、心配してたんだ」
「ごめんね。私じゃないけど、コーチの人が検査で陽性だったの。だからいったんホテルに隔離されてて。宿舎も施設も消毒しなきゃいけないし」
「そうだったんだ。コーチさん、無事だといいね」
「ありがとう。症状は重くないみたいだし、大丈夫だと思う」
笑顔を向け合いながら、俺は遅れて違和感に気づいた。コーチはわかる。でも。
宿舎? 施設?
首を傾げていると、マキちゃんが一枚の紙を差し出してきた。
「来週は別のところで会えるかな。受付でこの紙と、私の名前を出せば入れるから。見に来てくれると嬉しい」
A4サイズの紙は、何かの案内のようだった。会場への地図らしきイラストも見える。内容は――。
《公開練習のお知らせ
報道各位
お世話になっております。新型コロナウイルスによる外出自粛要請が緩和されたことを受けまして、日本水泳協会では東京オリンピックの会場となるアクアティクスセンターの見学会を兼ねた、ナショナルチームの公開練習を実施いたします。本来の競技日程初日に合わせ、種目分けは下記の通りとさせて頂きます。
七月二十五日:競泳
七月二十六日:飛び込み
尚、ASにつきましては――》
最後に、手書きのメールアドレスと電話番号。メッセージアプリのID。そしてフルネーム。
《真貴愛佳》
マキちゃん――
「でも別に、軍隊みたいな生活じゃないよ。自由時間も沢山あるし、夜コンビニに行くのだって全然OK。私、近所のコンビニをいくつか、曜日ごとにローテーションしてるの」
と語るマキちゃんは、常連となっていたあのコンビニで外国人相手に戸惑う、ついでに言うと同じようにアクセラレイターのTシャツを着た俺に気づいて、「あ、水泳やってる人だと思って」助けてくれたらしい。
「今のアカデミー、水泳の高校生は私だけだから」
そう言って、アスリートとしての自身についてはやっぱり恥ずかしそうに、マキちゃんは微笑んだ。
「だからこれからも、仲良くしてもらっていい?」
◆◆◆
アクアティクスセンターの中は広かった。当たり前だけど、学校のプールとは全然違う。
こんなに大きな会場で、世界中の人に見つめられて、一瞬の勝負に賭けるのだ。俺の知っている女の子が。俺の好きなあの子が。
今さらだけど、好き、という言葉をはっきりと胸の内でつぶやいた瞬間、彼女が見えた。正方形をしたプールに向かって突き出た、一番幅の広い飛び込み台。そこからさらに伸びる細長い板へと進み出る、鮮やかなブルーの水着。
「マキちゃん」
つぶやいただけなのに、彼女はまるで俺がいる場所が最初からわかっていたみたいに、一瞬だけこちらを向いてくれた。
引き結んだ唇の両端が、上がったように見えた。
ああ、と思う。俺の頬も自然と上がる。あの笑顔だ。恥ずかしそうじゃない方の、あの笑顔。もちろんどっちの笑顔も好きだけど。
長い足が踏み出される。一歩、二歩。
三歩目で両足を揃え、揺れる板をさらにしならせた身体が真上に弾む。一回、二回。
最後に大きく沈み込んでから、イートインで出逢った女の子は鮮やかに宙を舞った。
はじめて会ったときと同じ、朗らかな笑顔とともに。
Fin.
イートインの彼女 迎ラミン @lamine_mukae
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