古盤の話
文子夕夏
朝ぼらけの独白
色褪せたカーテンの向こうから、虚ろに差し込む朝ぼらけの陽光を身体一杯に感じると、私は否が応でも目を覚ましてしまう。覚ます、といっても腕を伸ばしたり屈伸運動をしたりはしない。
私には、両手両足が無かった。
当たり前だ。私は人間ではないからである。
人間のように、誰かと手を取り合って笑い合う事も出来ないし、草原を転ぶまで駆け抜ける事も出来ない。それでも、他人と全く関わりが持てない……という訳では無かった。
そこ、と決められた位置で起床と睡眠を繰り返す私には、では一体何が出来るのか?
私に可能な、たった一つの出来る事。
それは――私の平べったい身体の上を貸し与え、人間達を楽しませる事だった。
彼らに出来ず、私にだけ出来る事……そのちっぽけな優位性が、今まで私を自立させてくれたのだ。
そして今日、何となくだけれども、私の今後は大きく変わってしまう気がした。だから私は「私という物体について」語ろうと思う。耳を傾けてくれる者も、書き留めてくれる者もいないのは知っている。けれど、それで良い。
独白というのは、本来このようなものだろう?
遠い昔……季節が何度も巡るぐらいの昔々に、私は私の「意識」に気付いた。この身体より、ほんの少し大きな箱に入れられており、真っ暗の中、恐怖こそ感じないにしろ、退屈で死んでしまうのではないかと真剣に悩んだものだ。
幾日が経ち、やがて誰かが私を箱ごと持ち上げ、右に左に進み始めた。今は階段を上っているのか、今は別の誰かと雑談しているのか――ぼんやり思う内に、私の運搬役が「ここで良いですか」と言った。
年老いた声で誰かが「そこに置いて下さい」と答えると、すぐに太い指が箱の中へ入って来た。
細く鋭い光に、思わず私は身構えた。それはあっと言う間に大きくなり、私は眩い光の下へと引き摺り出された。
待望の品を待ち侘びたような目で……人間達は私を見下ろしていた。風が吹けば倒れてしまいそうな老人が一人、格式ばった服を着る少女が一人。運搬役の姿はもう無かった。
「木の良い匂いがする、檜かな」
髪を後ろで縛った少女が、私の身体に鼻を近付ける。
「えぇ、檜ですね。駒は樫、なかなかの逸品だと聞きました。最初の一台です、校長先生も奮発するよう言ってくれましたからね」
灰色の髪を丁寧に整えている年寄りが、皺だらけの指で私の平たい部分を撫ぜた。
「ふむ、やはり滑りが大変良い。さて……君達は広報部を通じて、生徒達に来週から使用出来ると周知して下さい」
はい。少女は元気良く答え、年寄りを大いに喜ばせた。
「良い返事です。これは、我が校の記念すべき、初代カロム盤です。寡黙な友のように、敬わなくてはいけませんよ」
年寄りはそう言って笑い、少女を連れ……ゆっくりと歩き去った。今でも私は、二人のそわそわするような後ろ姿が目に浮かぶ。
その日の晩、私は眠る事が出来なかった。緊張というよりは――とても素敵な事が起きるという、漠然とした期待のせいだった。
カロム盤。人間達は私の事をそう呼んでいる。
私の一番平たく、滑らかな場所の上で自駒を指で弾き、中心に置かれた的駒を狙う。決められた手順で四隅に開いた半月状の穴に、コトコトと調子良く落としていく。
何でも落とせば良い……というものでは無く、的駒は二色に塗り分けられている。自分の選んだ色の駒だけを落とすよう、細心の注意を払わなくてはならない。
自分の的駒を落とし切った後は、どちらのものでも無い、一回り大きな王駒を、相手よりも先んじて穴に落として勝利――という訳である。
恥ずかしながら、私は私の使い方を知らなかった。少年少女達は勝手知ったるように私を使い、夢中になって駒を弾き、時折「ペナルティだね」「あぁ、先に落としちゃった」などと呟くだけだ。
君、どういう手順で私を使うのかい――そう質問出来たらどれ程良かったか!
生憎私には口が無いし、手が無いので筆談も無理だった。毎日訪れる少年少女らの断片的な会話と、身体の上で行われる駒の動きから推測するしか道は無かった。しかしながら……少し時間を掛ければ、私の使い方をほぼ完璧に学び取る事は可能に思えた。
私による、私自身の把握。この夢が成就するのは、私がこの定位置に置かれてから――随分と長く掛かってしまった。
最初は少年少女達が引っ切り無しに私の下を訪れ、軽やかな音を鳴らして駒を弾いたものだ。それに伴い、私の学習も少しずつ進んでいった。「どうやら手順違いを犯すと、自分の的駒を私の中心に置かなくてはならない」事を学べた辺りで、利用客は段々と減っていった。
そこまで私は劣化したのだろうか? 整列した駒を眺めつつ、悩む日々が続いた。私という遊戯が飽きられたのかとも考えたが、答えは程無くして私の耳に入った。
悲しい事に――私以外のカロム盤が、この建物に次々と搬入されているというのだ!
私の心は実に傷付いた。
同時に苛立ちが生まれた。
後輩というものは須く先輩に礼を尽くすべきなのに、挨拶一つもして来ない(彼らにも手足が無いのは知っていたが、それでも面白くない)。それ以上に、どうやら新入り達は手入れが要らないという事だった。
人間の進化とは、如何に怠けるかを求めているのだろうか?
私は沸き立つ怒りに我を忘れ掛けたが、その怒りが平たい部分に傷を生むのでは……とも思い、心に平穏を求め(怠惰を求めない辺り、私は賢いのだ)、暇な時間は窓の外に広がる大きな湖を眺めた。
湖は幾ら眺めても変わらず、時々風が吹いて湖面を揺らすだけだった。近くに植えられた木は季節によって緑色になったり、何とも物寂しい茶色になったりしたが、湖だけは全く変わらない。湖の形も、季節によって丸くなったり四角なったりすればいいのに……私は何度溜息を吐いた事だろうか。
新入り達と比べて面倒らしい私は、それでも「人間を楽しませる物体」の矜持を捨てずにいる事が出来た。甲斐甲斐しく私の下へ通い、身体の隅まで拭いてくれる少女が現れたのだ。
私の匂いを嗅いでいた、あの少女である。
彼女は実に気の利く人間だ。私だけではなく、沢山の駒も一つ一つ拭き上げる少女は、決して私に話し掛けたりはしなかったが、柔らかな双眼は私の心に生まれた汚れすら、優しく拭き取ってくれるようだった。
私の手入れを終えた後、少女は必ず駒を私の上に置いて、軽く指で弾いてくれた。穴に落ちる音を聴く事で……私は、私を失わずにいられる気がした。
相変わらず湖に変化は無かったが、少女には様々な変化が見受けられた。初対面の日、肩を越さないぐらいだった髪は伸びたり縮んだり、時には二つに縛られたり、一つも縛られていなかったり、であった。湖岸の木から葉が無くなる季節には、白い布で口を覆っている事もあった。
彼女は、私の恩人である。日々の手入れは勿論の事だが、それ以上に――私の使い方を間接的に教えてくれたのだ。
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