第36話 書籍化記念SS ロイと看病

 師匠が結婚した。

 そこからロイの日常が少しずつ変化していった。


 それまでどこか寂しかった屋敷の中が明るく賑やかになった。何より人の気配がする。そのことにまだ慣れなくて、慣れてしまうのが怖くもあった。


「最近急に寒くなったからねえ。ロイ、あんたやわだねえ。もっと鍛えな」

「マクレーン夫人たら。ロイは都会っ子だから繊細なのよ。鍛える前にまずは風邪を治さないと」


 ロイの頭上でマクレーン夫人とティアナが話している。頭がぼんやりする。顔が熱い。息苦しい。熱を出しているから仕方がない。

 平時よりも荒い呼吸を繰り返すロイのことをティアナが心配そうに見下ろしている。


「ロイったら、この寒いのに長時間箒で飛ぶ練習を続けたら、そりゃあ熱だって出すわよ」

「……」


 ティアナがロイの額の上の布を取り替えた。ひんやりと冷たい布の感触が心地いい。


「大丈夫。薬を飲んで温かくして休めばすぐよくなるわ」


 布の上からティアナがロイの額に触れた。優しい声と仕草がどこか懐かしい。

 ロイがぼんやりとティアナを眺めると、彼女は元気づけるように微笑んだ。


「少し寝た方がいいわ。あとで夕食を持ってきてあげる」


 二人が出て行くと室内は途端に静かになった。

 静寂がどこか懐かしい。彼女が来る前は屋敷中がこれと同じ空気だった。人の気配をあまり感じない場所。それがスウィングラー家だったはずだ。


 ロイは目をつむった。熱のせいか思考が回らない。それに眠りたいのにうまく寝付けない。

 ロイはまだ子供で魔法の修業中だ。箒で空を飛ぶのもまだぎこちなくて、上手く飛ぶことができない。魔法の私塾で同級生にマウントを取られて悔しかった。


 それからオルタに無邪気に尋ねられたのだ。「ロイはどのくらい高く箒で飛べるの?」と。彼女はこちらの戸惑いとか警戒とかそんなものお構いなしに距離を詰めてくる。一応新しい奥様の妹なんだから、ただの弟子に構うことないのに、何かしら用事を作って話しかけてくるのだ。


 そういうことが続けばいつの間にかロイもオルタの相手をするようになっていった。ぽつぽつと話せば彼女はさらに距離を詰めてくる。「魔法が使えるってすごいね」などときらきらした目を向けてくるから、恰好つけたくなって練習に熱が入った。


 それで風邪を引くのだからしょうもない。ティアナに繊細と言われたことが地味にショックだ。風が吹いたら倒れてしまいそうな見た目の彼女に言われると堪えるものがある。


 夢と現の狭間で色々な思いを浮かべて、身じろぎをするとすぐ近くから声が聞こえた。


「あら、ロイ。気が付いた?」

「え?」


 自分は眠っていたのだろうか。そのことすらよくわからなかった。目を開けると寝台の横に椅子が置かれていて、そこにティアナが座っていた。何をしているのだろう、と顔を向けると彼女は編み物をしていた。


「ど……して?」

「熱を出すと心細いでしょう? 誰かがいたほうがいいんじゃないかと思って」


 ティアナは何でもないという風な口調で返事をした。その顔は穏やかで、ロイは不思議に思った。自分はただの弟子なのに、どうして彼女はこんなにも親切なのだろう。


「喉乾いた? 果実水あるわよ。あ、それともお腹空いた? あとで薬湯を飲みましょうね。大丈夫、わたし調合していないから」


 最後の台詞をティアナはやや胸を張って言った。

 ティアナはさも当然という顔でロイの世話を焼く。その態度にロイは内心ぽかんとした。


 こんな風に誰かから大切にされるのは久しぶりだった。クリスはロイの年の子どもに対してどう接していいのかまるで分からないようだった。師匠と弟子というよりは単なる下宿人のような関係だったのだ。


 ティアナがロイを起こし、カップを手渡してくれる。

 何となく視線を感じ、少しだけ顔を横に向けるとティアナと目が合った。その瞬間に微笑まれて思わず下を向いた。

 まだ慣れない。そもそもティアナのような年の頃の女性に対する免疫がないのだ。


「もう少し眠っていたほうがいいわ。寂しくないようにわたしがついていてあげる」


 いや、二人きりという事実のほうが気になってしまうのだが。

 素直に横になると冷たい布を額に置かれた。冷気が火照ったおでこに心地よくロイは少々緊張しながら再び目を閉じた。




 翌日、少しだけ体が軽くなった。薬湯を飲み、しっかり眠ったおかげだ。

 だが、せっかく下がった熱も上がってしまいそうな事態に陥っている。


「ほら、ロイ。あーんして?」

「……」


 ロイのすぐ目の前にいるのはティアナだ。彼女は今、スープを匙ですくいロイの口元に持ってきている。潰したかぼちゃを牛乳で伸ばしたものだ。とろりとしたスープからよい香りが漂ってきている。

 だがしかし。このまま素直に口を開けることを理性が許してくれない。


「ロイったら遠慮しなくてもいいのよ?」

「……」


 年頃のきれいなお姉さんからものを食べさせてもらうことが初めてでロイは固まってしまっていた。


「ロイ。お姉ちゃんに他意はこれっぽっちもないんだからね」


 ティアナの後ろからとんでもなく低い声が聞こえた。オルタである。彼女の視線は完全にロイを威嚇するためのものだ。


「こらオルタ。ロイは病人なんだから優しくしなさい。オルタだって熱出た時、お姉ちゃん食べさせてって甘えてきたじゃない」

「ああああ! それここで言う?」

「ロイだって同じよ。風邪ひくと心細くなるんだから、思い切り甘やかしてあげないと」


 ティアナがさりげなくオルタの過去を暴露した。羞恥心に悶えるオルタに共感する。大人という生き物はこうして爆弾を落とすのだ。


「わたしも風邪ひいたときは思い切りお母さんに甘えたな。こうして食べさせてもらったの覚えている」

 懐かしそうに目を細めるティアナを前にオルタもロイも何も言えなくなる。


「だからロイも食べさせて欲しいでしょう?」

「いや……あの」


 その感情をこちらにも当てはめないでほしい。確かに心細いこともあるかもしれないが、しかしティアナから食べさせてもらうと後が怖い。ロイはティアナの後ろにいるオルタに視線をやる。


 案の定、ものすごく悔しそうな、それを耐えるような必死の形相でこちらを見やっている。

 ロイとティアナが静かな攻防をしていると、部屋の扉が控えめに叩かれた。


「はあい」

 ティアナの返事の後、扉が開きクリスが入室した。


「ロイの具合はどうだ?」

「クリス。熱は下がったわ。今は食事の時間なの。あーんしてあげるのに、遠慮しちゃって。こういうところ、旦那様に似るのかしら?」


 今、聞いてはいけないような台詞が耳に届いた気がする。

 ロイはとっさに聞こえなかったふりをして、そっぽを向いた。


「きみは一度男心を学んでこい」

「あら、男心ならシェリーおばさんに叩きこまれたからバッチリよ」

「そこからしてずれていることを自覚したほうがいい」

 クリスの苦言を「はいはい」と適当にあしらったティアナが再びロイに照準を合わせる。


「さあ、遠慮しないでね」


 いや、するだろう。ロイは別の意味でくらくらしてきた。ロイだって男である。人前で、妙齢の女性に甘やかされるなどもってのほか。しかも相手は師匠の妻である。

 それに、妙に冷たい視線を感じる。オルタと、クリスである。


「……自分で食べれる」

「こういうときは年上のおねーさんに甘えてくれてもいいのよ?」


 ティアナはものすごく何かを期待している。

 ロイはひくりと、喉を鳴らした。


「わかった、わたしがロイに食べさせてあげる」


 手を挙げたのはオルタである。年下の女の子からものを食べさせてもらう。それだって恥ずかし過ぎる。


「一人で食べられる」

「仕方がない。私が食べさせてやる。だからさっさと食べて早く寝ろ」


 今度はまさかのクリスである。

 さすがに師匠にそんなことをさせられない。


「あら、ここにいる全員が立候補? さあロイ、誰を選ぶの?」


 ティアナがわくわくした眼差しを寄越してきた。

 これは選ばないといけないものなのか。


 考えていると頭がくらくらしてきた。ロイは熱を出しているのだ。そのことをできるだけ早く思い出してもらいたいと思った。


「まったく。何をしているのかと思えば。奥様、少年の繊細な心を読んでやらなきゃ駄目だよ」

「マクレーン夫人」


 大きな声に三人が一斉に振り返った。

 ふくよかな体を揺らしながら「はいはい、どいたどいた」とマクレーン夫人がロイのすぐ隣に陣取った。


「こういうときこそわたしの出番ってね。ほら、全員部屋から出て行っておくんな。見られていると恥ずかしいもんだよ」


 マクレーン夫人の妙な迫力にティアナが「わかったわ。あとはよろしくね」と頷いた。彼女が出て行くとそれに続けてオルタとクリスも従った。


「あとで様子を見に来るわね」


 出て行く前にティアナがそんなことを言った。心配してくれていると思うと、なんとなく胸のあたりが暖かくなる。


「ほら、さっさと食っちまいな」


 マクレーン夫人がロイにスープ皿を手渡した。会話をしていたせいか少しだけ冷めている。その分やけどの心配なく口に運ぶことができた。


「おいしい」

「そりゃそうだよ。わたしが作ったんだから」


 マクレーン夫人が自慢げに胸を叩いた。

 スープを飲み続けるロイの横で、彼女は独り言のように続ける。


「奥様はおまえさんのことが心配なんだよ。いい空気になったねえ。わたしは今のお屋敷の雰囲気の方が好きだよ」


 ロイはこくりと頷いた。静かだったお屋敷がにぎやかになった。ティアナとオルタはいつの間にかこの屋敷に馴染んでいる。


 最初はクリスがどこからか連れてきた正体不明の二人に多少なりとも警戒感を持っていたのに。二人はなんの裏もない笑顔と態度でロイに接してくるのだ。


 気がつくと二人のペースに巻き込まれている。それはクリスも一緒のようだった。

 けれども師匠と同じくロイはそのことが嫌でもなく、ごく当たり前のように感じているのだった。

 食事の後、ティアナはロイの様子を伺いに来た。

 寂しいだろうと、ロイが眠る横で編み物をしている。


「ロイとオルタの靴下を編んでいるのよ。冬だものね。楽しみにしていてね」


 誰かが同じ部屋にいる。柔らかな空気に包まれながらロイは夢の中に旅立った。

 

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