第32話意識が戻りました
ずいぶんと長い間眠っていたようだった。自分の体が、声が、頭の中が自分のものではないようで、記憶が混濁している。
ティアナは目をぱちぱちと瞬いた。
頭の中を覆っていた白い靄がゆっくりと晴れていく。それはまるで早朝に深くかかった霧が徐々に晴れていくような感覚にも似ていた。
「……クリス?」
瞳の焦点が合うと、目の前にはクリスの姿があった。どうやら自分は一人掛けの椅子に深く座っているようだ。
「ティアナ、私が誰だか分かるか?」
ティアナは当たり前の質問に頭をこくりと下げた。
「クリスでしょう?」
「お姉ちゃん! わたしは? わたしは誰?」
「オルタ。どうしたの、二人とも」
「うわぁぁぁんっ! お姉ちゃんが元に戻ったようぅぅぅ!」
オルタの名前を告げると妹が感極まったように目をウルルっとさせて抱き着いてきた。うわっと驚きティアナは妹を抱きとめる。いや、最近重くなったなとどうでもいいことを考えた。
「いま、誰と結婚をしている?」
「クリス」
「離婚の予定は?」
「え、なに。離婚したいの? わたし、なにか失敗した? ちょっと待って。ええと、挽回の機会を頂戴。膝枕してほしいのなら、いますぐするから追い出さないで!」
ティアナは慌てた。クリスはティアナと離婚をしたいのだろうか。それは困る。まだ彼に雇ってもらってほんの少ししか経っていないのだ。お金だって溜まっていないのに。あ、そうだ。契約終了でも、この期間の日当は貰えるのだろうか。それとも全部ドレス代で相殺だろうか。ドレス代に食費に化粧品代とティアナの妻業には結構な経費が掛かっている。ティアナは頭の中で忙しく今後の生活について考えた。
「膝枕から離れろ。オルタ、私に変な視線を向けるな。ついでに、離婚はしない」
「そ、そう……」
ティアナはホッとした。
「頭の方はすっきりしているみたいだな」
「なによ。頭が悪いって言いたいの? 失礼しちゃうわね」
ティアナがぷんすか怒るとクリスは苦笑を漏らした。けれども柔らかな瞳にティアナの胸がどきりとした。思えば彼は最近こういう風に無防備な笑みをこちらに向けるのだ。あれっとティアナは考えた。どうしてクリスが微笑んだら胸の奥が明るくなるんだろう。
「そういえば、わたしどうしてこんなところに。そうだわ、わたし!」
クリスとオルタが当然のように目の前にいるからすっかり忘れていた。ティアナはゲイルに拉致されたのだ。菓子店から気が付けば馬車の中で横たえられていて、しかも手足の自由を奪われていた。それなのに、どうしてクリスが目の前にいるのだろう。
ティアナはあたりをきょろきょろと見渡した。
ここは紛れもなくティアナの部屋である。クリスの屋敷の、あの黒い蔦に覆われた化け物屋敷と近所の子供から揶揄されているあの屋敷。
「ゲイルは? あいつはどこよ。あいつに一発蹴りを入れてやるんだから!」
「その必要はない。いや、確かにティアナからきつく仕置きをされたほうがいいのかもしれないが」
「やめておいたほうがいいよ。ゲイルが変な方に目覚めたら嫌だし」
「それもそうだな」
「ちょっと、二人で話を進めないでよ」
ティアナは話についていけなくて唇を尖らせた。
「今回のことは我が不肖の弟の責任でもある。兄として謝る」
「へっ……?」
クリスは紳士な顔をして謝った。それからクリスはやっぱり一人掛けの椅子をティアナの椅子の近くに持ってきて、腰を落とした。
彼の話によると、ゲイルとカーティスが共謀してティアナを誘拐したとのこと。ティアナに未練たらたらで、毎日この屋敷の周囲をうろちょろしているゲイルにカーティスが目を付けた。兄からティアナを引き離したい彼はゲイルを利用することにして接触を図った。
「ちょっと待って。ゲイルって、わたしのこと好きだったの⁉」
寝耳に水で、ティアナは話の腰を折った。そこからか、とクリスは若干呆れたが、ゲイルがティアナに長年にわたって好意を寄せ、それを拗らせていたことはティアナ以外周知の事実らしい。クロフトの町でもとっくに知られていたことだとオルタが得意げに言った。
(いや、わからないでしょ。奴っていつも人のことを見下していたし。しかも今回は下女にして愛人とか……いや、結婚するとかなんとか口走っていたような……?)
ティアナがオルタと外出をしたのは、彼らにとって絶好の好機だった。ティアナの侍女は魔力を持っていない。クリスは日中は仕事のため留守にしている。ティアナの後を付けた二人は菓子店の従業員を魔法で操り、ティアナとオルタをかどわかした。
その後はティアナの知る通りである。ゲイルはティアナから自由を奪いクロフトへ連れ帰ることにした。離婚をさせるために、そして言うことを聞かせるためにオルタの居場所を伏せた。
ティアナはクリスから説明を受ける最中、気が付いた。
「わ……わたし……途中から記憶がないのよ。ゲイルに何か飲まされて。そのあとから今まで」
言いながら顔を蒼白にする。彼はティアナのことを自分のものにしようとした。記憶が無い間に、もしも手籠めにされていたらと考えると急にぞわりと背筋が冷たくなる。
「大丈夫だ。きみの身にはなんにも起こっていない」
「そんなこと!」
分からないじゃない、と続けようとするとクリスが目線でティアナを制した。
「ゲイルとカーティスの身柄は拘束してある。私を誰だと思っている?」
「え、魔法使い?」
「四つ星の、王宮魔法局魔法薬部所属だ。魔法薬を調合することなど朝飯前だ」
きみを操っていた魔法を解いたのも私だ、と彼は付け加えた。クリスは頑なに自供を拒むゲイルに薬を調合し、自白させたのだという。ティアナを保護したクリスは、カーティスとゲイルを拘束し、ゲイルの乗っていた馬車でエニスへ引き返した。拘束魔法でぐるぐる巻きにされた二人を乗せた馬車は途中で馬と御者を変え夜通し走ったのだという。オルタはエニスのとある建物の一室に閉じ込められていた。ゲイルは最初からオルタを引き取る気などなかったのだ。
「そ、それがどうしたのよ」
「自白をする香をたいた」
「へえ、そんなのがあるんだ」
「ああ。洗いざらい吐かせた。だから大丈夫だ。きみはなんにも心配する必要もない」
クリスはしっかりとティアナの目を見て頷いた。それを聞いたティアナは安心をした。彼はティアナから目を逸らさなかった。それにすごい魔法使いが魔法を使ってゲイルを尋問したのだ。だから、彼の言うことを信じていいのだろう。
「私の弟がすまなかったな。あいつがゲイルをそそのかした。弟が手を貸さなければ、ゲイル一人ではあそこまで出来なかっただろう」
「本当だよ!」
オルタが叫んだ。
ティアナはクリスを見上げた。彼はカーティスの行動に憤っている。ティアナもとんだ迷惑をこうむったのだが、目が覚めた時にはすべてが終わっていて、怒りどころを見失ってしまったような気分だ。それに、クリスがとても責任を感じているし、心を痛めている。クリスは弟のことが好きなのだ。自分には無いものを持っていると言っていたし、彼の能力を認めていた。その弟が、自分のために暴走をしたことに傷ついている。
カーティスのやったことは簡単には許せないけれど、それでも目の前のクリスに怒りをぶつけたくはない。
「そうねえ。カーティスからふんだくれるだけふんだくっちゃおうかしら」
ティアナはわざと明るい声を出した。
「たくさんふんだくっちゃえ! 破産しちゃえばいいんだ。あんな奴」
オルタがぎゅっとティアナにしがみつく。彼女も怖い思いをしたのだ。ティアナはオルタの頭をよしよし、と撫でた。するとオルタがわんわんと泣き始めた。
ティアナはクリスを見上げた。すると彼も困ったように、ティアナを見返した。ティアナはゆっくりとオルタの背中を撫でていく。クリスはしばらくその様子を眺めていて、それから少し迷った後、こわごわとオルタに手を伸ばして、彼女の頭をぎこちなく撫でた。
ティアナはなんだか嬉しくなった。三人で一緒にいることがこのうえなく自然な気がして、それからクリスがオルタを気に掛けてくれることに嬉しくなる。
「今度、三人でケーキを食べに行かない?」
「……ああ」
「約束よ」
ティアナが笑うとクリスもゆっくりと笑みを作った。こういう日常って、とっても夫婦っぽいなあとティアナは思ったのだった。
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