第23話クリスの敗北
デュニラス王国の魔法使いの最高学府はエニス魔法大学である。広大な敷地の中には付属の魔法学校と、独立機関である王立魔法研究機関の建物も存在する。役職が上になるに従い研究とは関係のない会議や会合が予定に組み込まれる。とはいえ下っ端だと使い走りの仕事も多く、自分の研究に時間を割くことができない。研究熱心な魔法使いほど引きこもりになるのは仕方のないことなのかもしれない。
「やあクリストフ。結婚したんだって」
にこにこした顔で話しかけてきたのは昨年結婚をした魔法使いの男だった。クリスと同じ四つ星の魔法使いである彼は結婚をしてから変わった。
「まあな。奥方の様子はどうだ」
「ああ、変わりないよ」
社交辞令で聞き返せば魔法使いの男、クリスよりも年下の青年は破顔した。これまであまり感情を表に出すことのなかった、我が道を突き進む青年だったが結婚後は妻のことが世界で一番大事と公言して憚らない。その変わり様にクリスも内心驚いたことは記憶に新しい。
「クリストフもいまが一番楽しいころだろう。恋は素晴らしい。俺は妻と出会えたことに感謝をしている。毎日毎日妻に愛の言葉を囁いているんだ」
クリスの横に並んだ彼は尋ねてもいないのに惚気話を垂れ流す。妻が可愛すぎて辛いとか、妻の寝顔が愛らしいとか、妻に膝枕を強請ったら顔を赤くして願いをかなえてくれたとか、どのお菓子を食べようか迷っているときの顔が可愛すぎてたまらないとか、色々だ。
「よく飽きないな」
「当たり前だろう! 俺の妻は世界一可愛い。可愛すぎて観察日記を付けているくらいだ。ああでも、妻の可愛さを知るのは俺一人でいいから誰にも読ませるつもりは無いけれど」
その前に読みたいとも思わないし、おまえ観察日記なんてつけているのか、と若干引いた。しかし青年はクリスの呆れ交じりの視線に気づくこともなくひとしきり惚気まくった後「じゃあな」と言って自分の研究棟へ帰ってしまった。彼は王立魔法研究機関の正規の研究員なのだ。すなわちエリートでもある。
王立魔法研究機関とはその名の通り魔法に関する研究をするところで、正規の研究員として登用されるには魔力の高さや将来性、これまの経歴に成績も加味される。クリスも研究員になりたかったのだが、王宮の魔法局で出世したほうが魔法薬の材料を取りに行くときの通行証の自由度がより高いためこちらを選んだ。やはり魔法使いたるもの、己の探求心には貪欲でなければならない。
敷地内には聖堂や魔法使いの社交場などもあり、少なくない人が歩いている。
―あら、スウィングラー様よ―
―結婚したって聞いて驚いたわ。お相手は魔法使いではないのですって―
風に乗って年若い女たちの会話が聞こえてきた。適齢期の彼女たちは王立研究所に足繁く通って将来の伴侶を探しているのだ。
―まさか、四つ星の魔法使いが無能者でもなく、魔法とゆかりの無い女を伴侶に向かえるとは―
―街中で知り合った普通の娘だと聞いている。たくさんの再婚話を蹴って選んだのがよりにもよって魔法の血筋でもない女とは―
まったく、暇なことだ。皆、クリスの姿を見かけるとうわさ話の的にする。無能者とは魔法使いの家系に生まれた魔力の無い人間のことを指す言葉だ。じろりと睨むと人の結婚を話題にしていた男たちはそそくさと歩き出した。別に誰が誰と結婚しようと構わないではないか。貴族の家の結婚が家と家の繋がりなのは理解している。スウィングラー家もそれなりに歴史ある魔法使いの家だ。地方に領地を幾つか持ち、王宮での役職の他に領地からの地代収入で一家は生活を賄っている。家と家の繋がりが大事だというのならカーティスがそういう結婚をすればいいと思う。クリスは魔法使いとの結婚はごめんだった。
結局図書館に行く気も起きずにクリスは王立研究所を後にすることにした。
御者に屋敷まで、と告げようとしたクリスは考えを改めた。書店に寄るように言いつける。
(大体、ティアナは大胆過ぎだろう。人との距離が近すぎる)
この結婚はおおむね満足をしている。勢いで雇ったティアナはきちんと職務を遂行しようと日々努力をしている。トレイシーを呼び寄せると、彼も思いのほか彼女を気に入って、現在彼はティアナへの淑女教育に情熱を燃やしている。老後のよい暇つぶしになると考えているようだ。
クリスがティアナへの不満を一点あげるとすれば、それはクリスとの距離が時々おかしいところである。新婚だからと手ずから食事を与えようとするし、なんの躊躇いもなしにこちらにぴたりと引っ付いてくる。少しは照れて見せれば可愛げがあるのに、ああも堂々とやられるとこちらのほうが対応に困る。時々からかってくるのも面白くない。どうにも、人のことを初心な男だと考えている節がある。
本屋に到着をしたクリスは、女性向けの書架へ赴いた。女は年頃になると淑女読本を読むものだと誰かが言っていた気がする。よい淑女の手本として愛読されているものだ。
クリスはそれらしい本を抜き取りぱらぱらとめくった。
(結婚前の淑女はむやみに男性と二人きりにならないこと。思わせぶりな態度も禁物です。常に……)
しかし、ティアナはすでにクリスの妻である。婚約などという生ぬるいことをしたらカーティスに付け入る隙を与えると考えて既成事実をつくることにしたからだ。離婚の書類には夫と妻と証人の署名が必要だからだ。ちなみに結婚契約書の証人の署名欄にはサディスの名前が書かれてある。とんだとばっちりであるが、部下とはそういうものである。
立ち読みを進めていくが、本には未婚の女性の心得的なことばかりが書かれてある。クリスはむっと眉を寄せた。これを持って帰って、少しは見習えと諭しても「わたしたち夫婦よ」と言われればそれでおしまいだ。
クリスは少し迷ったが、その本を買って帰ることにした。
たまにはクリスの方が主導権を握りたいのだが、どうすればいいのだろう。一緒に寝るか、とか言ったら、いいけど別料金でとか返ってきそうだ。お金の問題ではないし、彼女が本気で考え始めたらどうしようと焦ってしまう。クリスはティアナをそういう目で見ているわけではない。
ティアナは多くは語らないが、エニスへやってくるまで厳しい生活を送っていたことは簡単に察しが付く。だから本当に立ち行かなくなったら体を売ることを躊躇わないだろう。彼女がその考えに行き着くことを理解しているからオルタは未だにクリスに対して警戒をしている。
彼女に手を出すつもりは無いが、男としてからかわれてばかりというのもつまらない。少しはぎゃふんと言わせてやりたい。クリスは帰りの馬車の中で脳内花畑の新婚魔法使いの言葉を思い出す。
よし、あれにしようと思い至り、ティアナが狼狽える姿を想像した。それは思いのほか楽しくて、早く本物のティアナに会いたいと思った。
屋敷に到着をするとティアナは出迎えてくれた。
「おかえりなさい、あ・な・た」
また、妙に芝居がかっている。呆れるけれど、元気のよい笑顔に出迎えられるのは悪くはないな、と感じるようになっていた。
「ティアナ、どうしていつも口調が変なんだ?」
「あら、こっちのほうが新婚らしいかなって。ほら、わたしたちは今新婚だけど我慢中ってことになっているでしょう?」
それはトレイシー以外の召使に対しての言い訳である。
夫婦なのに別々の寝室で眠って、夫婦らしい行いをしていないことを不審に思っているデイジー以下、そのほかの召使に向けた説明を先日トレイシーがさりげなく行った。貴族の結婚なのだから結婚してから一年は白い結婚でなければならないということと古い魔法使いの習慣に倣って、二人は年単位で清い関係のままでいるとかなんとか。そんな習慣どこにあるんですか、とデイジーは反論したらしいのだが、トレイシーが迫力顔で押し切った。苦しい言い訳ではあるが、召使たちは一応は納得したと報告を受けている。本当に苦しすぎる言い訳だが、これでひとまず一年の時間は稼げた。一年経ったあとのことはそのとき考えることにする。
「ほっぺにチューくらいなら契約範囲内に入れてあげるわよ?」
「……」
こそっと耳元で告げてきたティアナにますます渋面を作るクリスだ。完全にこちらをからかっている。たまには仕返しをしても許されるだろう。
クリスは従僕に上着を預けて居間へ向かった。いつも書斎に直行するのに珍しい、とティアナは目を丸めている。
二人きりになったところでクリスは意を決してあのセリフを言うことにする。
「たまには私も新婚ぽいことをお願いすることにする」
「へえ。なあに?」
ティアナはにこにこ顔を保ったまま。
「膝枕でもしてもらうか」
よし、言ってやった。クリスは心の中でものすごく満足をした。さあ、せいぜい狼狽えろ、顔を真っ赤にしろ、とティアナの出方を伺う。
ティアナは最初ぽかんとして正面に座るクリスを見つめた。
それから。
「なんだ。そんなこと? いいわよ、ほら、してあげるから。こっちへいらっしゃい」
「な、なんだと……」
あまりにあっさり受け入れるためクリスの声の方が上擦った。この娘、なんとも思わないのか。
「シェリーおばさんが言っていたわ。男って本当、いつまでたっても赤ん坊のように甘えてくるって。クリスもやっぱり甘えたいのね。ふふ、可愛いところもあるじゃない」
元気よく笑い飛ばしたティアナにクリスの方が顔を赤くして「少しは情緒ってものを学べ!」と叫んだのだった。
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