第10話はい、あなたあーんして?
秋の気配が日に日に濃くなり、日の入りもめっきり早くなった。日中、外を吹く風の中にも冷たさが混じるようになって時分のこと。ティアナたちが夕食を済ませた一刻ほど後、クリスが帰宅をした。夫(仮)の帰りの知らせを聞いたティアナは彼が今日も夕食を取らずに部屋に引き籠ったことを確認し、彼の元へ赴いた。
とんとん、と扉を叩く。
「入れ」
返事を貰ったティアナは扉を大きく開けて手押しワゴンを部屋の中に押し進める。
「なんだ。きみか」
一階にあるクリスの書斎は控えめに表現しても散らかっていた。両面の壁に設えられた棚には書物がぎっしりと押し込まれ、ところどころ薬品と思しき瓶がいくつも並んでいる。かと思えば別の棚にはかぴかぴに乾いた雑草が積まれている。おそらくは薬草なのだろう。床にも書物が積まれ大きな書き物机の上も書類と書物と巻物と、その他色んなもので溢れている。
(うわぁ……。典型的な片づけられない人の部屋だわぁ)
ティアナは心の中で呆れた声を出す。
「どうした。何の用だ?」
クリスは物で溢れた机の前に座りペンを走らせている。ちらりとあげた顔に浮かぶのは迷惑という言葉。ティアナはにこりと笑った。
「旦那様にお夜食を持ってきたのよ」
「夕食なら食べた」
「どうせ王宮魔法局のご自分の研究室で適当にパンとか干した芋とかを摘まんだだけでしょう?」
ティアナはワゴンの上から料理を取り出した。マクレーン夫人が作ってくれた料理はどれも美味しい。腕の良い料理番は屋敷の主人が食に対して適当なのを嘆いている。
「トレイシーの入れ知恵か」
むむむ、とクリスの眉間にしわが深くなる。
「まあまあ。わたしにはもっと食べろとか言うくせに、自分が適当じゃ駄目よ。ずるいわ。今日はね、肉団子の煮込みなの。美味しいわよ」
スウィングラー家の執事トレイシーがこの屋敷に来てから早四日。日常生活の中で色々な変化が生じた。その一例が食事メニューだ。トレイシーも世間一般の娘に比べて細い体をしたティアナとオルタを心配したくさん食べろと言ってきた。しかし、今まで粗食だったのに急に言われても無理、とティアナが主張すると消化の良いメニューを出すようマクレーン夫人に指導した。挽いた肉を団子にして煮たり焼いたり。すね肉をとろとろになるまで煮込んだ料理や魚をすりつぶして焼いた料理など。バターの量を少なくしているのかこってりせずに食べやすい料理が食卓に並ぶようになり、ティアナの食事量も少しずつ増えている。
「食事は面倒だ。時間を取られるだろう」
「うふふ。そういう旦那様にはとっておきの方法があるの」
ティアナは肉団子の煮込みが入った深皿を手に持つ。片方にはスプーン。肉団子をすくい、夫へ近づく。
「はい、旦那さま。あーん」
「……あ……あーん……だと?」
可愛らしくしなをつくって演技がかった声を出したティアナである。
一方のクリスは顔面を白くして固まっている。すぐ近くに出されたスプーンとティアナを交互に見やる。
「はい。あーん?」
ティアナはもう一度可愛い声でクリスに肉団子を食べさせようとする。
「……きみはなにをやっている?」
「え? シェリーおばさんが、男はいくつになっても赤ん坊みたいなものだからこうして食べさせてあげると喜ぶもんだよって。食べる気になった?」
シェリーおばさんとはクロフトの町でフクロウ亭の二軒先の粉屋の女将さんである。ティアナに色々なことを教えてくれた。世間の男というものについて一から十まで教えてくれたのはシェリーおばさんだ。
「自分で食べる!」
クリスはティアナから深皿とスプーンを奪い取り、肉団子を頬張った。
「前の奥さんにはやってもらわなかったの?」
ゴフッとクリスがむせた。ティアナは夫(仮)の背中をさすってやる。それからワゴンに乗せてきた瓶からカップに水を注ぎ彼に手渡す。クリスは受け取った水をごくごくと飲んだ。
「トレイシーだな」
「まあね。どうせ分かることだからって。二十九歳まで独身ならカーティスが心配するのも無理ないわぁ~って思っていたんだけど」
トレイシーはティアナにクリスの基本的な情報を教えてくれた。現在の勤め先と地位、それから彼が昔結婚をしていたこと。てっきり初婚だと思っていたのだが、クリスは数年前に結婚をして、離婚をしていた。
「最初の結婚が上手くいかなかったんなら独身主義になっても仕方ないのにね。お金持ちの家も大変ね」
「一応義務ではあるからな。ただ、私はもう魔法使いの嫁はごめんだ」
クリスはその後も肉団子を食べ進める。お腹は空いているらしい。だったら、とパンの入った籠も差し出してみるといらないと手のひらを前に出された。
「ちぎって口の中に入れてあげましょうか?」
「シェリーおばさんとやらの発想を私に当てはめるのは止めろ」
「ええ~、でも角っこのミサングさんちの新婚夫婦もおんなじことやっていたわよ?」
「や・め・ろ」
「つまんないなぁ」
ティアナとしては嫁稼業をしっかり努めたいのに。とはいえ夜のお相手は契約内容に入っていないからするつもりもないが。だからそのぶん別のところで妻っぽいことをやってみたい。報酬分はしっかりと働く所存だ。
「そうだ。話し戻すけど、どうして魔法使いの嫁は嫌なの?」
問いかけるとクリスは渋面を作った。
「あ、嫌なら別に話さなくていいけど」
「私の元嫁も魔法使いだった。私よりも星の数は少なかったが魔法に熱心で野心もあった」
「ええと、クリスは四つ星の魔法使いなんだっけ」
ティアナが口を挟むとクリスは首肯した。
「トレイシーが教えてくれたわ。デュニラス王国における魔法使い制度について。あなたったら妻になにも教えてくれないんだもん」
「この国の住民なら知っていて当然かと思っていた」
まごうことなき本音なのだろう。本当に知らなかったのか、とその目が物語っている。ティアナは小さな町で生まれ育ったのだ。この世界には魔法という不思議なものが存在するということは知っているが、あいにくとクロフトの町に魔法使いはいなかったし、魔法具は値段も高い。お金持ちしか買えないのである。当然小さな町の大人たちも身近でない魔法使いについて詳しくはない。
「魔法使いは持って生まれた魔力の大きさによって階級を分けられる。一つ星から五つ星まで、だ。星の数が多くなるほど高い魔力を有するということだ」
「クリスはこの国に十人しかいない四つ星の魔法使いってトレイシーから聞いたわ」
大きな魔力を持つ人間は年々生まれにくくなっているとも聞いた。五つ星保持者は現在この国にはいないとも。四つ星の魔法使いは貴重で、そしてクリスは若くして王宮魔法局魔法薬部長官の地位に就いていることも教えてもらった。かみ砕いて言うとものすごく優秀ということだ。
魔力の星階級はデュニラス王国含め周辺国共通の制度だという。
「私の元妻は三ツ星だった。彼女とは政略結婚だったが。……あいつは私の研究を無断で持ち出して隣国に留学しに行った。結婚をした翌年の夏のことだった。その後離婚届だけが送られてきた」
「なるほど……。すごい奥さんだったのね」
それでひねくれちゃったのか。純情だったのね、とティアナは若かりし頃のクリスに同情した。
「とにかく、だ。私はもう結婚はごめんだ」
結婚した女に手酷い目にあわされ、結婚に夢を持てなくなった傷心男は仕事に邁進することで過去の傷を癒すことにしたということか。それなのに弟のカーティスは山のように縁談を持ってきて兄に再婚を勧める。そりゃあ嫁を金で雇いたくもなるというものだ。
「辛かったのね……」
ほろりとした声を出すとクリスは首を傾げ、「それよりもきみのほうはどうだ。暇は解消されたか?」と問うてきた。
ティアナはそうだった、と思い出した。
「暇の解消どころじゃないわよ! トレイシーったらわたしに淑女修業をさせるのよ。毎日頭の上に本を三冊乗せて歩かされるのよ! しかも踵の高い靴を履かされて! 落ちたらやり直しだし姿勢をびしっとしなさいって言われるし。発音矯正で毎日延々同じ詩を朗読させられるし」
「やることがたくさんできてよかったな」
「よくなぁぁいっ!」
ティアナは叫んだ。
トレイシーがスウィングラー家にやってきてからというものティアナの勤務条件から昼寝という文字は消え去った。優し気な微笑みを浮かべたトレイシーはティアナの銀色の髪の上に分厚い本を三冊ほど置いて、落とさずに歩く練習をしましょうと言ったのだ。意味が分からないと言えば、これも妻の仕事ですとにこやかに、けれどもきっぱりと宣言された。オルタも一緒になって毎日歩く練習が続いている。
「しかも……オルタの方が呑み込みが早いのよ……傷つく……」
「子供はなんでも呑み込みが早いからな」
「あれ、なんの意味があるの?」
「淑女教育だろう」
「どうしてそうなるのよ」
「ティアナが暇を持て余しているから適当に暇つぶしを見つけてやれとは言ったが」
「確かに言ったけど!」
頭の上に分厚い本を乗せられるとは思ってなかった。
「身につけて困るものでもないだろう」
「だって、ドレスとか飾りものとか、たくさん買ったのよ、トレイシーったら。全部必要なものですって」
「トレイシーが言うなら必要なんだろう」
「丸投げか!」
「屋敷のことは全部彼に任せてある」
「専用の侍女? っていうのもいま探しているって」
「まあ、必要だろうな」
ああもう、とティアナは地団太を踏みたくなる。なんだか大事になっている気がしなくもないのに、クリスはどうしてこうも平然としているのか。
「妻の仕事に必要なの?」
「たぶん」
ティアナは、はぁぁぁと長く息を吐いた。お金持ちの嫁稼業も楽じゃないらしい。いや、暇なのは嫌だと言ったけれども。本格的な修行をするとは思わなかった。
「知識も礼儀作法も身に着けておけばあとあと役に立つ」
「それは、そうだけど。急すぎて付いていけなかったの」
だから夜食を届けに来るついでに愚痴りに来た。それとトレイシーから言われたのだ。旦那様の食生活を改善したい、と。
「用件はそれだけか?」
「とにかく、よ。夫婦なんだから一緒に食事くらいしてよね。でないと食事作法とかそういうの上手く身につかないと思うのよ」
「教師と食べればいいだろう」
「じゃあ毎晩お夜食を持ってきてあーんしてあげる」
にこりと笑って言ってやるとクリスはうっと迷惑そうな顔をして、たっぷり十秒は迷って結局は「わかった。食堂に行く」と頷いた。
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