第9話執事の到着

 変化はクリスに直談判をした三日後に訪れた。

 その日は珍しくクリスが屋敷にいた。彼曰く休みを取ったとのこと。ティアナは間を丸くした。てっきり彼のことを仕事中毒だと思っていたからだ。


「……珍しいこともあるのね」

「執事が来ることになった。彼は今日到着すると連絡を寄越してきた」


 クリスは簡潔に言った。珍しいついでに、彼は居間で本を読みながらくつろいでいる。屋敷にいても、いつも自分の部屋にこもりきりだというのに。


「執事?」

 初めて聞く単語をティアナは繰り返す。

「家の中の采配をする仕事をする人間を指す。私はいまの仕事が好きだ」

「わかってます」

 そんな改めて言われなくても、と思うくらいにティアナもオルタも彼が仕事好きだということは十分に分かっていた。


「今までは私一人気ままな独身生活だったが、家に妻がいるとそうもいかない」

「おお~」

 ようやく分かってくれたか。放っておかれても辛いのだ。暇すぎて。

「そういうことで家のことを取り仕切ってくれる執事を雇うことにした。いや、引退した元執事を呼び寄せることにした」


 どんな人間がやってくるのだろう。この間のカーティスのようにクリスの結婚に反対をしている人間だろうか。いや、彼が雇うのだから何もかも承知している人間に違いない。そわそわしながら過ごしていると、執事だという男性が到着をした。


「はじめまして、奥様。トレイシー・セバクウェイと申します。我が家は代々スウィングラー家の家令・執事を拝命しております。今日からよろしくお願いいたします」


 ゆっくりと穏やかな口調の好々爺だった。とはいえ姿勢はぴしりと正しく、白い髪をきちんと撫でつけている。こちらに向ける薄青の瞳からはティアナに対する好意が見受けられて安堵した。


「よろしくお願いします。トレイシー様」

「奥様、私のことはトレイシーとお呼びください」

「だけど」

「ティアナ様はクリス様の奥様なのです」

 いや雇われですけど、と目を泳がせるとクリスも「ティアナ、言う通りに」と口添えをしてきた。それがクリスの奥様の役割だというのなら仕方がない。


「では、よろしくお願いします。トレイシー」

「ええ、よろしくお願いします」


 トレイシーはにこにこと笑みを作った。そうすると目が糸のように細くなる。ほっこりとするよい笑顔だと思った。


 それからトレイシーは屋敷の召使全員と顔合わせをしていった。その間ティアナたちは手持ち無沙汰になって居間に退避する。トレイシーが来たことによってなにか変化があるのだろうか。屋敷のことを采配する召使とはどういう人間なのだろう。お金持ちの世界のことなどまるで分らない。ティアナの故郷のクロフトは小さな町で、金回りのよい家はごくわずかだった。町長の家ともうあといくつかの家だけだったが、彼らの住まう大きな屋敷には執事と呼ばれる役職の使用人はいなかった。


 これからどういう風に生活が変わるのだろうか、とティアナが考えていると居間の扉が開いてトレイシーが入ってきた。


「私が来たからにはもう安心です」

「はい……」

「専用の侍女と教師を手配致しました」

「は……えぇぇっ! 教師? いったい何の?」


 はい、と頷こうとしたティアナは驚いて素っ頓狂な声を出した。自分のために人が雇われるらしい。教師っていったい、どういうことだろう。トレイシーはティアナの大きな声に動じることもなくニコニコ顔を保ったまま。


「クリス様からご結婚の経緯は聞いています。エニスで出会って一目ぼれをして結婚したのだと。奥様にはこれから貴族の家の妻としての素養を身に着けていただきます。よい暇つぶしになりますよ」

 穏やかな顔と声ですごいことを言ってきた。暇つぶしで貴族の家の妻になれってか。いや、どんな無茶ぶりだよ、と頬が引きつる。


「もちろん、オルタ様にも同じ授業を受けていただきます」

「え、わたしも?」

 今までじっと大人たちの会話の行方を見守っていたオルタが口をはさむ。


「ええ。もちろん。どこに出しても恥ずかしくないようなお嬢様になれますよ」

「い、いやぁ、わたしお嬢様にはならなくても」

 オルタも姉と同じく声を引くつかせた。

「いいえ。礼儀作法を身に着けおくことはとてもよいことです。今後の身の振り方の幅も広がるでしょう。例えば三年後などに」

「三年!」


 それって契約期間のことではないか。

 トレイシーは笑みを深めた。柔和な、一見害のなさそうな微笑みである。彼はちらりとクリスを一瞥したが、クリスは何も言わなかった。


(な、なによもう。何もかも知っているってことなら最初からそう言ってよね!)


「もちろんわたくしめは坊ちゃんの味方でございますよ。どういう経緯であれ、坊ちゃんが伴侶を決められたのは良いことでございます」

「……いつまでも坊ちゃんはやめろ」

「分かっております、旦那様」


 トレイシーは飄々と答えた。クリスは再び本に視線を落とした。どことなく、不機嫌そうに眉が眉間に寄っている。


「とにかく損はさせませんし、奥様がたにとってはよい暇つぶしになります。クリス様は、魔法以外のことにはとんと無関心……いえ、気が回らないと申しますか。無頓着なところがありますゆえ、こうして私に白羽の矢が立ったわけです。きちんとお仕えさせていただきます」

「は、い……。よろしくお願いします」

 胸に手を当てて礼をされてはそう返事をするしかない。


「では。手始めに商人を呼んであります」

「なんで?」

「奥様とお嬢様のお召し物を準備しなければ」

「いや、十分に用意してありますよ」


 サディスに連れていかれた娼館にいたバーキット夫人が当面の支度を準備してくれたのだ。下着も衣服も間に合っています、と言うとトレイシーの笑顔が深まった。


「いいえ。用途に応じて相応しい装いというものがございますから」

 その笑顔に姉妹で固まる。怖い。その笑顔が。


 大人しくなった姉妹の様子に頷いたトレイシーはさっそく手をぱんぱんと叩いた。すると扉を開いて商人が中へ入ってきた。クリスはそれと入れ違うように立ち上がり居間から出て行く。

その後、即席のドレス店が居間に出来上がってティアナとオルタはそれぞれ迫力顔の商人と仕立て屋によって散々着せ替え人形にされたのだった。

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