第二部 ノイリシア王国編
捨てたはずのモノ
第223話 今だけ……
幼い頃、書庫で本を読み漁っていた。
見たこともない美しい景色に思いをはせ、戦いに傷つく人々の姿に涙した。
思えば、物語や歴史書が好きだった。この閉じられた世界の中で、外に広がる無限の世界を思い描くことは、唯一の楽しみだったから。
ある時、一冊の古い書物を見付けた。
その本は、書棚の端で埃を被っていた。
手に取り、埃を払った。汚れて見づらかった書名が、目の前に現れる。
―――『ソディリスラ来訪記』
これが、僕と彼らの出逢い全ての始まりだ。
「はぁはぁ……。ようやく、撒けたか?」
「はぁはぁ……。そ、そうみたい?」
遠くでは、リンと晶穂を呼ぶ声がする。あれはサラのものだろう。
いつの間にか、走ってリドアスから離れた森の中に入っていた。切り株が幾つかある他は、木と草だけのぽっかりと空いた場所。
リンは呼吸を落ち着けると、自分の右手が熱を持ち続けていることに気付いた。ふと手を見ると、そこにはしっかりと絡ませ合った晶穂の手がある。
「―――!」
ボッと顔を赤くするリンに目を丸くした晶穂が視線を落とすと、同じことに気付いて顔を真っ赤に染める。
「えっあっ……」
しどろもどろで狼狽える晶穂に、リンは意を決して声をかけた。
「……あ、晶穂」
「は、はい」
羞恥で潤んだ瞳がリンを見上げる。視線を外さないよう懸命に羞恥心を抑え込み、リンは口を開いた。
「……このまま、もう少しふたりきりでいてくれないか?」
「!」
晶穂の手が、再び強く握られる。リンの目は、真剣に晶穂の瞳を捉えていた。
だから晶穂も、その問いに精一杯の気持ちで応える。おずおずと、つながった手にもう片方の手を重ねた。
「……わ、わたしも。一緒に、いたい」
「……よかった」
ほっと安堵の表情を浮かべたリンが、晶穂をリードするように軽く手を引く。少し大きめの切り株を選び、晶穂を座らせた。そして自分もその隣に腰を下ろす。
半身が触れ合い、つながれた手はそのままに。
「……」
「……」
夜の帳は既に降り、頭上には満天の星空がある。その光一つ一つが、小さく瞬く。
二人は互いに触れ合ったまま、黙って身を寄せ合った。
相変わらず心臓は爆音を轟かせ、頭はしっかりと働いてはくれない。しかし同時に、今この時が安らぎと癒しを与えてくれる。
「あ、あのね……」
晶穂はリンの肩に頭を預けたまま、彼の顔を見ないようにして口を開いた。どうしたのかと首を傾げるリンに、たどたどしく声が届く。
「さっきサラが、ふぁ、ファーストキスって言ったでしょ?」
「う……あ、ああ」
思わず自分の唇を空いている方の手で塞いでしまいながら、リンは何とか相づちを打った。そこにはまだ、晶穂の柔らかさと熱が残っている気がする。
「……でもね、ほんとは初めてじゃなくて。り、リンが古来種との戦いの後に目覚めなくて、不安でわたし……」
「そ、それを言うなら俺だって、魔女を晶穂から引きずり出そうとして……」
お互いが相手の唇に触れていた。その事実に気付いて二人は顔を見合わせた。
「……ふふっ」
「……ははっ」
可笑しくなってきて、声を上げて笑い合う。静かな森の中に、リンと晶穂の笑い声が響いた。
笑い過ぎて涙が出て来た晶穂が、つないでいない方の手で涙を拭う。彼女の様子を見ていたリンが、すっと人差し指を立てた。
「ふぇっ!?」
「……秘密な、これ」
人差し指を晶穂の唇の数ミリ前に置き、リンは笑う。
「俺たちが、さっきよりも前に……してたこと」
「……うん」
お互いに『キス』という単語は恥ずかしくて口に出せない。しかし、それでも十分に伝わった。
再びそのことを思い出してしまって首まで真っ赤に染める晶穂を、リンは愛おしそうに見つめた。それから、つないでいる手を自分の側へ引き寄せる。
「きゃっ」
ぽすん、とリンの胸に晶穂が落ちてくる。しがみつくような形になり、より羞恥心にあおられた晶穂が離れようとするが、リンは離してくれない。
「リ……」
「今だけ」
「え……?」
耳元で切なげに囁かれ、晶穂は動きを止めた。そうすることで、リンの心臓が自分のものと同じように激しく鼓動しているのが聞こえてくる。見上げれば、リンも真っ赤な顔をしていた。
晶穂は気付かない。自分が上目遣いでリンを見上げていることを。それが、リンをあおっていることを。
「……今だけでいい。今だけ、抱き締めさせてくれ」
「……うん。でも、今だけじゃなくても、いい、からね?」
「ふふっ、そうか」
晶穂が頷くと、リンの腕の力が強まった。呼吸音がすぐ傍で聞こえる。心臓の音が溶け合って、もうどちらのものかわからない。
「……リン」
つながれていた手はほどけて、リンの晶穂よりも大きな手が晶穂の細い体を抱き締めている。晶穂は両手を伸ばして彼の背中にまわした。
「だいすき、だよ」
「……俺も、晶穂がだいすきだ」
「ありがと……っ」
晶穂の声がにじみ、震える。それに気付いたリンが、晶穂の目元を拭った。
二人の目が間近で合う。そのまま、ゆっくりと目を閉じた。
リンと晶穂を見失い、サラは「あ~あ」と残念そうに声を上げた。
「もっとからか……たくさん恋バナ聞きたかったのに」
「サラ、一瞬別の言葉が出かけてたぞ」
「ふふっ、知らないよっ」
エルハの腕に自分の手を絡ませ、サラは楽しそうに笑った。
「だって、晶穂がこっちに戻って来てくれて、更にあんな場面まで見せつけてくれちゃったんだよ? これが嬉しくないわけないじゃない。これでまた、みんなで一緒にいられるんだから!」
「……そうだな」
エルハはわずかに目を伏せ、すぐに笑みを浮かべた。
サラとエルハのいちゃつきを見慣れた銀の華の面々は、それほど彼らに注意を向けない。
「サラ、エルハ。あいつらはほっとけ。……今夜くらい、いちゃつかせてやれよ」
「克臣さん、もしや羨んでるんですか?」
「んなわけあるか! 帰るぞ!」
珍しく顔を赤くして、克臣がサラとエルハの頭を乱暴にぐりぐりと撫でた。「はーい」と素直に返事をしたサラが、エルハの腕を引く。
「帰ろ?」
「ああ、帰ろうか」
見れば、リドアス玄関前にいるのはもうサラとエルハの二人だけだ。年少組はほっと安堵したのか、早々に帰ってしまっているし、年長組もリンと晶穂を探そうとは思っていない。
エルハは、一瞬海の向こうを眺めやった。リドアスからは少し遠いが、灯台の明かりが見えたのだ。
その向こうにあるものに思いをはせ、エルハはサラと共に自室へと引き上げた。
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