第95話 気恥ずかしい関係

 梅雨が明け、久々に眩しい太陽が地上を照らす。

 何となく湿っていたテキストやノートの水分が抜けた頃。

 晶穂はいつもと同じように大学での講義を受けていた。教授の指が黒板を弾く。ここが重要だと示す、彼の癖だ。

 学生たちのペンが走る。次の試験に出る場所を聞き逃すまいと皆必死だ。単位命となりがちな大学生にとっては、死活問題なのだ。

 この講義は、教授が研究する日本文学を中心にその研究史や研究内容を主に扱う。

 今日は平安時代の恋愛物語についての講義だ。見目麗しく、聡明な青年貴族と女性たちとの恋愛を中心に講義は進んで行く。

 晶穂はそれを聞きながら、

(時代もあるんだろうけど、わたしは、わたし一人を想ってくれる人と生きていきたいな……)

 そんな思いがふと生じた。それと共に一人の青年の姿が思い出され、慌てて消す。講義中のため、手を顔の前で振ることは出来ない。頭も振れなかったが、どうにか心の中でその映像をかき消した。

(び……びっくりした)

 思わず頬に手を添える。心臓が不自然に跳ねる。

 晶穂の挙動を不審に思ったのか、隣に座っていた女子学生がひそひそ声で話しかけて来た。

「どうしたの、三咲さん? 顔、赤いけど、熱あるの?」

「ううん、大丈夫。ありがとね」

 晶穂も小声で返し、彼女が前を向いてから密かに息をついた。

 リンのことが頭をよぎっただけでこの始末だ。これから彼の前で冷静でい続けることが出来るだろうか。

 幸い、リドアスには常時たくさんの人がいる。完全な二人きりになる機会はそうないため、この点は安心出来る。短い時間なら、平静を装うことも出来るから。

 午前中の講義が終わり、学生達は各々好きな場所で昼食を食べる。晶穂も他の例に漏れず、学食で一人座ったわけだが、リンが皆の前で交際を宣言した日のことを唐突に思い出した。

 つないだ手が熱かった。燃え上がりそうで怖くもあったけれど、それが心地よくもあった。リンと、大切だと想い続けた人と同じ気持ちで隣に立つことが出来ること、それが心の底から嬉しかった。

 リリリン

 もうすぐ昼休み終了のベルが鳴る。そんな時間に、晶穂のスマートフォンが鳴った。メールの着信音だ。誰かと思いメールを開くと、

「……え?」

 日本にいるはずのない人物の名があった。長らく敵対関係にあった少女の名だ。気が強く、それでいて体の弱い彼女の顔が浮かぶ。

「ツユが、何の用だろ……」

 ソディールにもスマートフォンと同じような通信機器はある。それが日本のスマートフォンと通信することが出来るとは知らなかった。

 メールを開くと、日本語とはかけ離れた文字が所狭しと並んでいる。ソディール特有の文字だ。ゆっくりとなら読めるようになったその文字を指で追う。

「……」

 メールを読み終え、アプリを閉じた。

 内容は近況報告と謝罪文。気を失ったリンを伴い里を出た時、ツユはまだ目覚めていなかった。クロザとゴーダからその後の処理等々について聞いたのだろう。

『あたしたちの勝手で、あなたたちには辛い思いをさせ続けた。お詫びして済む話じゃないけれど、これからあたしたちは、人を傷つける側ではなく、人を救う側になる。そのために、あなたたちとは協力関係でいたい。自分勝手なお願いだけど、どうかお願いしたい』

 そんな文面だ。最後に追伸もあった。

『友達ごっこから始まったけど、あなたとは友達になりたい。本当の』

 それだけだ。

 ツユの命は、晶穂の魔力のお蔭で伸びたのか、またダクトの援助を失くして縮んでしまったのか、それは分からない。

 それでも彼女が生きる目的のようなものを見つけたのなら、もう少し長くクロザたちと共にいられるかもしれない。そうなればいいな、と晶穂は思う。

 大学からの帰り道。前を歩くリンの背中を見つけた。声をかけるべきか否かを一瞬迷い、晶穂は意を決して彼の背をぽんっとたたいた。

「晶穂」

「お疲れ様、リン。……一緒に帰ってもいい?」

「……ああ」

「……」

 会話が続かない。

 黙したまま数十メートルを歩き、リドアスにつながる扉まではもうすぐだ。

 リンは晶穂に後ろからはたかれた時、驚くより先に心臓が走った。駆ける足音と軽い背をたたく音、その二つで無意識に背後にいる人物を特定したからかもしれない。

 それを少女に悟られるのが気恥ずかしくて、リンは努めて平静を装った。

 実は今日一日で、何度か晶穂を大学構内で見かけた。声をかけるか否かを迷い、結局はかけなかった。

 午後に晶穂を見かけた時、丁度リンは同学年の女子生徒数人に声をかけられていた。何やら雑誌編集部の月刊誌に載せる記事のためのアンケートに協力するよう依頼されたのだが、部員の少女達の目が怖かった。リンがしばしば遭遇するその目は、彼をアイドルか何かと勘違いしている少女の憧憬と思慕の眼差しだ。大学に入る前から感じることのあったものだが、リンにとってはある種恐怖の対象だ。

 異世界の住人である自分は、日本の人々にとっては異質な存在だ。ほとんどの人は異質な存在であることに気付かず、それでいて忌避することはない。けれど、異常な恋慕を寄せられることが多い。リンは、それを与えられ過ぎて辟易していた。

 いいな、と思うこともなかった。

 そんなリンの前に現れた、今隣で耳を赤くしてうつむく少女は、彼の心情と思考を根底から覆した。

 本当は、一目惚れしていたのかもしれない。初対面同然の相手を狩人からああやって助け、リドアスにまで連れて行った経験はない。自覚など、後からついて来た。

 このまま、リドアスにすぐ戻るのは惜しい気がした。

「なあ、晶穂」

「ん、なに?」

 扉まではあと十数歩。鍵を開けてしまえば、一瞬だ。

 周りにたくさんいた帰宅中の学生たちは、この路地までやって来ることはまずない。家と家の塀に挟まれた狭い道。二人並んでギリギリの広さだ。幾つかあるソディールにつながる扉の一つを設置する場所。

 リンは不意に立ち止まり、先に数歩進んでいた晶穂がどうしたのかと振り返った。その彼女の目をじっと見つめ、リンは囁くように尋ねた。

「……あの時のお前の言葉、夢じゃないよな」

「えっ…………うん……」

「そか。よかった」

 不器用で困ったような笑みがリンの顔に広がる。晶穂は唐突な心臓の疾走を感じ、思わず自分の胸に手をやった。激しく、どくんどくんと音を立てている。

「ど、どうしたの、急に。らしくない、よ……っ」

「ほんと、どうしたんだろうな」

 リンの右手が晶穂の左腕に触れる。そのまま引き寄せられる。そう晶穂が思った瞬間だった。

「あーーーー。氷山何やってるんだ、そんなところで!?」

「……何もないですよ、先輩」

「嘘だろ。そんな何もない路地に入り込むなんて、きょうび小学生でもやんねえぞ」

「ちょっと先に何があるのか気になっただけですよ」

「お前、意外と子どもなのな?」

「そういうことです」

 突然背後から声を上げたのは、リンが受ける講義でよく一緒になる一年上の先輩だった。彼の仲間数人も一緒にリンたちがいる路地を覗いている。

 リンは苦笑いをしながら、背中に隠した晶穂が見つからぬように願っていた。咄嗟に晶穂の前に立ちふさがる格好になった。足元に大きめの空き箱が転がっているため、丁度晶穂の足は先輩たちの側からは見えないはずだ。

 晶穂の手を握るリンの手に熱がこもった。絶対見つかってはいけない。不自然な汗が背を伝う気がする。

「早く帰って課題やれよ」

「先輩も」

 リンの心配は杞憂に終わった。先輩たちはそれ以上詮索することなく、あっけなくその場を去って行った。

 ほっと息を吐き出したリンは、背後で立ち隠れる晶穂の手を握りっぱしにしていたことに今更ながら気付き、慌ててその手を放した。乱暴にではない。すっと、不自然にならないよう気をつけながら。

「……ごめん」

「大丈夫。……まさか、先輩に呼び止められるなんてね」

「俺も迂闊だった。………もう少しで、抱きしめられたのに」

「え?」

 晶穂はリンの言葉の最後が聞き取れず、訊き返した。しかしリンは頬を染めただけで返答せず、

「……さあ、帰ろうぜ」

 晶穂の隣を通り過ぎ、扉の前に立った。

 夕闇に沈む空に雲がかかり始めている。梅雨が過ぎたとはいえ、雨が降るのかもしれない。

 晶穂は熱が染みついた自分の手を握り締める。今そこには、初夏のからりとした暑さとは違う、妙に冷えた空気が掴まれていた。

 リンの大きな手に自分のそれを伸ばしかけて、止まる。

 晶穂は手を自分の傍に戻し、リンの隣へと歩いて行く。

「うん、帰ろっか」

 全てが終息した。

 その安堵が、今度はこの不器用な関係性を連れて来た。

 扉をくぐると、いつものリドアスの影が西日に照らされている。

 これで、平和に穏やかな日々を送ることが出来る。

 そう思うのは早過ぎたと、気付くのはもう少し先のことだ。

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