第56話 近付く冬

 秋は深まり、魔女が消えてから数か月が経った。

 大学の定期テストが一か月後に迫り、晶穂は図書館に籠っていた。授業用ノートとテキストを広げ、シャープペンシルをかざす。周りには同じような状況の学生が何人もいる。

 図書館の窓に目をやれば、太陽が沈んでいく様子を見ることが出来る。講義の大半が終わったこの時間、多くの人がいるにもかかわらず、館内は静かだ。響くのは、ペンを走らせる音とページをめくる音、そして時折のぶつぶつという呟きだけだ。

 晶穂は日本史学のテスト範囲をプリントで確認し、テキストのページを繰った。教授の発言を、ノートをもとに思い出し、出そうなところを重点的に復習する。

 とんとん

「え?」

 肩を叩かれた気がして振り向く。しかしそこには誰もおらず、晶穂は首を傾げて机に視線を戻した。

(……あ)

 広げたノートの上に、コロンと飴が乗っていた。鮮やかな緑色の包み紙から、抹茶味のものだと分かる。置き主は誰かと再び周りを見渡せば、見知った後ろ姿を遠くに見つけた。

(リン先輩、ありがとうございます)

 彼も試験勉強期間の筈だ。うんうん呻っていた晶穂に飴玉を差し入れてくれたのだろう。ユキの記憶が一部戻り、リンの心に少し余裕が生まれているのだ。数日前の出来事も相まってほっと温かい気持ちになり、飴を口に放り込んだ。甘さが広がり、頭の靄が晴れていく。

「頑張ろ」

 一言呟き、晶穂は自主勉強を再開した。

 テキストの傍には、押し花にして栞に加工した四葉のクローバーがあった。


 数日前。日曜日だったその日、リンとユキ、晶穂は以前ユキの記憶を呼び覚ますために訪れた森に再びやって来た。晶穂以外の二人は二度目だ。前回は記憶を取り戻してすぐだったため、のんびりするために来たらしいが。

「ここ、覚えてる。小さい時、みんなで来た!」

「小さいって言っても、今もそんなにサイズは変わらん気がするが」

「お兄ちゃん、ひどいな! ぼくだって成長してるんだよ」

 ぷくっと頬を膨らませる弟を宥め、リンは爽やかな風に乱された前髪を掻き上げた。遠くまで広がる森林がこの風を運ぶ。隣でユキに微笑みかけた晶穂は、ふと見渡した草々の中に良いものを見つけて目を輝かせた。

「あっ、四葉のクローバー!」

「ほんとう!? どこどこっ」

 子どものようにはしゃぎ摘み取る晶穂と彼女について行くユキを見送り、リンは空を見上げた。鰯雲が広がり、群れ成すようだ。平和だな、と思う。持ってきたペットボトルの麦茶を口にした。

「ねえ、お兄ちゃん」

「何だよ」

 いつの間にか傍に戻って来たユキに見上げられ、リンは小首を傾げた。晶穂はと見れば、まだ離れたところで座り込んで何かやっている。弟の顔には悪戯っ子のそれがある。一体、何を口にしようというのか。

「もう、こくはく、したの?」

 ごほっ

 喉に流したはずの麦茶が逆流した気がした。勿論そんなことはないのだが、リンは動揺を抑えられず、動揺する自分に驚いて更にむせかえった。「大丈夫?」と背中をさすってくれるユキに手で大丈夫と示し、深呼吸して気持ちを整えた。

 落ち着いて来るとともに、ユキの発言を脳が反芻する。その意味を再確認し、リンは自分の顔が赤くなっていくのを感じた。晶穂が聞いていたらいけないと思ったが、相変わらず少し離れた所で草場にしゃがみこんでいる。こちらの動揺に気付いた様子はない。それに安堵し、少し声を潜めてユキに問い返した。その口調が荒くなるのは許して欲しい。内容が内容なだけに、平静ではいられない。

「な、な、何でそんなことを訊く!?」

「克臣さんが訊いてみろって言ってたから」

 すんなりと不思議そうな顔で言われた答えに脱力する。リンは額に手をあてた。

「あの人……」

 数秒その状態でおり冷静さを取り戻すと、リンは弟の目の高さになるよう膝を折った。頬が熱いのを自覚しつつ、声にそれが乗らないように気を付けた。

「……近いうちに、整理する。そう克臣さんに言っておいてくれ」

「わかった」

 にっこりとまなじりを下げ、ユキは晶穂のところへ駆けて行く。彼を見送り、リンは無意識に息を吐いた。

(告白、か)

 幼いユキは、その意味を理解せずに口にしたのだろう。リン自身とて、あの事件を通してようやく自覚したのだから。離れた所で晶穂とユキが、見つけたクローバーを手に笑い合っている。彼女の笑顔を見、青年は人知れず鼓動が早まるのを感じた。

 様子を何となく見ていると、不意に晶穂がこちらを振り向いた。一歩退きかけたリンの許に走り寄り、彼女は手にしたものを差し出した。

「先輩、クローバーです。四葉の! 三人で一つずつです」

「あ、ああ」

 クローバーを受け取り、ぎこちなく微笑み返す。心臓が五月蠅いが、それに晶穂が気付く様子はない。晶穂の笑顔が可愛いと思ってしまい、その感情の動きに驚く。

 自分の思いを相手に強いることは出来ない。自分勝手なものだ。しかし、ユキを通して克臣に宣言してしまった以上、近いうちに実行しなければならないだろう。

 ―――たとえ、どんな答えが返ってこようとも。


 


 静かな館内で響くのは、人の足音と本のページをめくる音だけだ。

 青年は古書専門の図書館の閲覧席で、ある書物を熱心に読んでいた。

 『古神事』

 日に当たり変色した表紙にはそうある。大昔の誰かが残した古文書で、偽書と言われる。歴史書ではなく、単なる物語集であると。

「だが、それだけが真実とは言えない」

 青年は乾いた唇を舌で濡らし、ニッと笑った。彼の短髪は美しい青色で、蛍光灯の光を反射する。好奇心に富んだ瞳は鮮やかな紫色だ。その瞳に暗い色が一瞬浮かんだ。

 図書館内は声を出す場所ではない。青年は心の中で考えをまとめ、持参したノートに書き写した。

「こんなところにいたのか」

「ああ、お前か」

 青年は知った声に振り向き、微笑を浮かべた。

「そろそろ帰ろうぜ。あいつも待ってる」

「わかった」

 静かに席を立ち、古文書を受付に返却する。受付嬢は落ち着いた館内を象徴する態度でそれに応じた。

 図書館を出て、二人は並んで歩き出す。目的地は同じなのだから。


 


 赤や黄色に色づいた木々がさわさわと揺れている。電灯に照らされ、葉は昼間のように光合成をしているのだろうか。そんなことが頭をよぎった。明かりに昼夜照らされ続けた植物は早く葉を散らすと聞いたことがある。

 リンはテキスト類の入った重いリュックを背負い直し、大学の正門をくぐった。閉館時間ぎりぎりまでいた学生は彼だけではなく、ぱらぱらと人影が左右別々の方向へと消えていく。あと数日で定期試験だ。皆、現実を直視せざるを得ないのだろう。傍から見れば自分も同じだと気付き、リンは人知れず苦笑した。

「リン先輩っ」

「……晶穂?」

 呼ばれて振り返ったリンは、駆けて来た少女を見やった。普段大学構内では滅多に声をかけてくることのない彼女だが、それについて問うとすぐに答えが返って来た。

「――そうですね、いつもなら。でも、図書館で先輩のファンの方々を見なかったのでいいかな、と」

「ああ……」

 てへへ、と照れ笑う晶穂の回答に、リンは納得した。入学当時から彼のファン(リンにしてみればいい迷惑)の女子学生達に目をつけられ、晶穂は軽く脅されているのだ。それを知ったのは彼女が銀の華に入って暮らし始めた頃、大学で見かけても無視する晶穂をリドアスで問い詰めた時のことだった。リンは普通に訳を聞いたつもりだったのだが、晶穂には尋問に聞こえたらしい。あの時は目に涙を溜められてしまった。今となっては苦い思い出である。

「じゃ、じゃあ、帰るか」

「は、はい」

 互いに目を合さずに前を見て会話する。一定の距離を保って横に並び、歩く。

 晶穂はちらっとリンの横顔を盗み見た。端整な顔立ちに鴉色の硬い髪。その奥に隠された優しさを知る彼女は、昨日サラに問われたことを思い出し、淡く頬を染めた。

「―――ねえ、晶穂って好きな人いないの?」

「へっ!?」

 二人で街に出、カフェでケーキを堪能している時だった。晶穂は苺に似たポワラのショートケーキ、サラはチョコレートケーキに舌鼓を打っていた。ケーキにフォークを刺しかけたところで動きを止め硬直した晶穂の顔を見、サラはにやりと笑った。

「あーあ。前はそんな反応、してくれなかったのに」

 至極残念そうに伸びをしたが、それは言葉だけだ。サラの顔には期待の文字が躍る。

「いるってことだね、その反応。……誰か当ててあげるよ」

「え、いや。そ、そんな話はいいから!」

 手を振り頭も振って抵抗する晶穂をスルーし、サラはずばり言ってやった。

「団長でしょ? 氷山リン」

「う……」

「ふふっ。否定しないところを見ると、図星だね。……ま、ばればれだし、みんな知ってるけど」

「え……えぇ!」

 真っ赤になってわたわたと慌て出した晶穂を面白そうに見ていたサラは、落ち着くのを待って席を立った。晶穂はまだケーキに手も付けていなかったが、サラは話している間にもきっちり食べていたのだ。置いて行くつもりはないが先に片づけてしまおうと立ち上がったわけだが、ごみ箱に向かう前に晶穂の耳元で囁いた。

「……早く伝えないと、持ってかれちゃうよ?」

 晶穂は夜道を歩きながらそのことを思い出した。もうすぐ扉を設置している場所に到着する。傍らのリンが扉に手をかける。向こうに帰れば、みんなが待っているのだ。

 晶穂は勢いに任せて青年の背中に声をかけようとした。それとほぼ同時にリンが半身で振り返る。

「ひゃあっ」

「……? どうした、晶穂。帰るぞ」

「あ、はい……」

 走る心臓を落ち着かせ、晶穂は仲間達が待つリドアスへつながる扉をくぐった。




 冬らしく朝晩冷えてきた頃、二学期の定期試験が開始された。レポート課題も期限内に提出し、リンと晶穂は無事に試験を突破した。

 上位数名の名が構内に貼り出され、経済学部の学科一位が氷山リンであったことは、言うまでもない。


 試験が終われば、冬休みに突入だ。

 大学の冬休みはそれほどないが。


 雪がしんしんと降り積もり、ソディールでは雪合戦があちらこちらで開催されるようになる。

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