第11話 万年筆


 晴人の手は美琴の顔の横を通り過ぎて、その後ろにいる『何か』をガシリと掴む。

 状況を把握できずに、美琴は目を瞬かせた。

 美琴の背後に隠れていたものが、晴人の手によって無理やり引き摺り出される。

 それは、美琴がこれまでに何度も見た、あの白いワンピースを着た少女の霊だった。

「ッ……!?」

 美琴は反射的に、喉の奥で声にならない悲鳴を上げる。驚きと恐怖で息をするのも忘れた。ガタガタと体が震え出す。

 少女の霊は恐ろしい形相で長い髪を振り乱し、晴人の手から逃れようと必死にもがいている。

 金切り声を上げて暴れる彼女を晴人は無感動に見つめながらも、その手の力を緩めることはない。

 そして、晴人が徐に少女の霊体を自分の体に押し付けるようにすると、驚いたことに少女の体はズブズブと鉄が熱で溶けるようにゆっくり晴人の中へと取り込まれていく。

『ギィィイイィイイィイイッ!!』

 美琴は唖然としてその光景を眺めていることしか出来なかった。断末魔のような悲鳴を上げながら、少女の姿は跡形もなく晴人の中に消えてしまう。

 放心状態の美琴と、悲しそうに目を伏せる晴人だけがこの場に立っていた。

「な、に……今の……ねぇ、晴人……?」

「大丈夫。君は何も心配しなくていいよ。もう彼女が君に危害を加える事はないから安心して」

「ううん、そうじゃなくて……今、あなたは一体何をしたの……?」

 晴人は寂しそうに笑うだけで、美琴の問いには答えない。その表情が、十年前に見た別れ際の晴人の顔と重なって見えた美琴は胸騒ぎがした。

 晴人は気付かれないように、美琴から一歩遠ざかる。表情には出さずに、自分の中から出てこようとする少女の霊を必死に押し込めた。

 彼女の標的が美琴だと知ってから、晴人はどうしたら美琴を助けることが出来るのかと何度も考えた。

 そして辿り着いた答えが、彼女を自分の中に取り込み、自分ごと彼女の霊魂を浄化させる事である。

「彼女にもう自我は無いんだ。死んだ時の思念だけで動いている。僕もいじめられていたことがあるから、彼女の気持ちが全くわからないことはないけれど……これ以上美琴ちゃんが苦しむ姿は見たくないからね。君の未来の為に、彼女には僕と一緒に消えてもらうことにするよ」

「消える……? 一緒にって、まさか……」

「……うん。君を救うにはこれしか方法がないんだ。いくら僕でも長時間これ程までに強い霊を、自分の中に留めておくことはできない」

 どこか苦しそうに晴人の顔が歪む。その左半分に一瞬恐ろしい少女の顔が浮かび上がって、美琴は息を飲んだ。

 晴人は自分の顔を押さえて小さく呻き声を漏らしながら俯く。

 その時、顔を押さえている晴人の手が、うっすらと透けていることに美琴は気付いてしまった。よく見れば晴人の足先も既に見えなくなっている。

 晴人の体は、少しずつ薄れてきていた。晴人が言葉通りこの世から、自分の前から、消えてしまう。

 脳がそれを理解した瞬間、美琴は衝動的に晴人にすがりついた。

「い、いやっ晴人、逝かないで……私を一人にしないで……っ」

「美琴ちゃんにはもう大事な友達がいるだろう? 僕が居なくてもきっと大丈夫だよ。だから、泣かないで……僕は君の泣き顔より笑顔が見たいな」

 美琴を安心させるように、晴人は優しく微笑む。美琴の目からは止めどなく涙が流れた。

 その間にも晴人の体はゆっくりと足元から確実に消えている。流れる涙はそのままに美琴は晴人の望みを叶えるため、精一杯の笑顔をつくった。

 美琴がどんなに離れたくないと願ったところで、少しずつ晴人の姿は霧のように霞んでゆく。

 美琴にはもう、どうすることもできなかった。

「ねぇ、美琴ちゃん。最期に一つだけお願いしてもいい?」

「……うん、晴人のお願いならいくらでも聞くよ」

「ふふ、ありがとう……僕ね、昔大事にしていたお父さんの形見の万年筆を同級生に盗られちゃったんだ。それでこの山の中まで追いかけて、取り戻したのはいいんだけど……その拍子に崖から落ちちゃってさ。あの時は体のあちこちが凄く痛かったけど、それでも少しの間は生きていて、必死に助けを求めたよ。でも、結局誰にも見つけてもらえなくて、それからずっと一人だったんだ。本当はね……ずっと、寂しかった。もう一人ぼっちは嫌だから、僕のこと一緒に連れて帰ってもらってもいいかな?」

 申し訳なさそうに眉を下げる晴人に、美琴は何度も何度も頷いた。涙が次から次へと溢れてくる。

 晴人の体は、既に上半身しか見えていない。もう、時間がなかった。

「僕はこの大きな木の裏側にいるから。お願い……僕のこと、もう一度見つけてね」

「……晴人は私が絶対に見つける。必ず連れて帰ると約束するよ。だから、安心して」

 美琴の言葉に晴人は安堵したような表情で、それはもう嬉しそうに笑った。そんな晴人を見て、美琴も泣きながら、笑った。

「美琴ちゃん、ありがとう……君に会えて良かった。君が僕の家族になるって言ってくれた時、本当に嬉しかったんだ。今までも、これからも、僕はずっと君のこと大好きだよ。誰よりも君のことを愛してる……だから、必ず幸せになって」

「っ、私も晴人のことが好き!! ずっとずっとあなたのことを愛してる……ッ今まで、本当にありがとうっ!!」

 晴人の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。美琴と同じように、晴人も笑いながら泣いていた。

 愛しさのあまり、美琴は晴人の頬へ手を伸ばす。

 その手が頬に触れるより先に、晴人は最期まで優しい笑顔のまま、まるで空気に溶けるように消えていった。


 辺りは静寂に包まれる。

 はるひと、と呼ぶ美琴のか細い声も風に掻き消されてしまった。

 もうどこにも大切な人の姿は無い。美琴は晴人のいた場所を見つめて魂が抜けたように、暫くの間ただ立ち尽くしていた。

 ふと隣の大木を見上げて、晴人との約束を思い出した美琴はのろのろと足を動かした。

 まだ心がこの現状に追いついていなかったが、晴人の願いを叶えなければという想いだけが、美琴を突き動かす。

 大木の裏に回ると、木の根元の殆どが背の高い草に覆われていた。美琴は両手で草を掻き分けながら無言で進んでいく。

 木の太い根元の間に、一ヵ所だけ大きな窪みになっているところを発見した美琴は、身を屈めてその中を覗いてみた。そこには人が入れる程度の大きさの空間が出来ている。

 邪魔な草を避けながら中へと入り込むと、奥に白い何かを見つけた。恐る恐るそれに近付いた美琴は、力が抜けたようにその場にぺたりと座り込む。

 その白い何かは、人骨だった。

 ボロボロになった学生服らしき衣服のようなものを纏っている。その手元には、立派な万年筆が落ちていた。

 よく見ると万年筆にリアルなうさぎが小さく彫られている。そのうさぎは、美琴が出会ったあの白いうさぎとどこか似ているような気がした。

 美琴の直感が、この骨は晴人のものなのだと告げている。

 まるで見えない魔力に誘われるように、横たわっている人骨に手を伸ばした。地面に転がっている頭蓋骨を拾うとそれを目の高さまで持ち上げて、ふわりと微笑む。

「嗚呼……見つけたよ、晴人。あなたはこんなところでずっと一人だったんだね。もう大丈夫だから、安心して眠って……」

 その頭蓋骨を大切そうに抱き締める美琴の両目から、再び涙が溢れてくる。

 晴人と会えて嬉しかった。けれど、晴人ともう会えないんだと思うと、辛くて、悲しかった。

 あまりの苦しさに胸が潰れてしまいそうだ。

 それでも、美琴は晴人が救ってくれたこの命を無駄にしようなんて思わない。晴人は美琴の幸せを願って消えていったのだ。晴人の分まで生きて、幸せにならなければいけない。

 瞼を閉じれば、思い出の中の晴人が美琴に笑いかけてくる。美琴の大好きな笑顔で、自分に手を差し伸べてくれる。

 ゆっくり目を開いた美琴の視界には、地面に転がる白い骨が映るだけだ。今、美琴の腕の中にいる晴人が自分に微笑んでくれる事は、もう二度と無い。

 美琴の胸に言い様のない虚無感が押し寄せる。

「うっ、あぁ……はるひと、うぅっ……ああぁあぁぁあぁぁ……ッ」

 晴人の頭蓋骨を胸に抱いたまま、美琴は今日初めて声を上げて延々と泣き続けた。


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