第10話 記憶


 時を同じくして、美琴は山の中にいた。

 いくら歩いても家なんて一軒も見当たらない。見渡す限り、緑が生い茂っている。

 それでも、美琴は晴人を探した。諦めたくなかったのだ。諦めたら晴人という存在が自分の中から消えてしまう気がして、恐ろしかった。

 ただ闇雲に草をかき分けながら山の中を歩き回る。もうどれくらい歩いただろうか。酷い疲労感に、何度も地面に膝をつきそうになった。だが倒れる訳にはいかない。

 美琴は最早、気力と意地だけで動いていた。徐々に足が重くなり、息も荒くなってくる。

 その時、自分以外の何かが草を踏み鳴らす音が聞こえて美琴は立ち止まった。警戒しながら辺りを見回す。耳を澄ませて、音の聞こえたほうへ視線を向けた。

 すると次の瞬間、草むらから白いうさぎが飛び出してきた。そのうさぎは美琴を一度だけ見上げると、すぐに逃げ出す。

 自分に白い背中を見せて逃げていくうさぎ。確か昔もこんなことがあったような気がする。

 そのうさぎを見た瞬間、美琴は何故か衝動的にこのうさぎを追いかけなければと思った。理由は自分でもわからない。

 ぴょんぴょんと身軽に跳び跳ねる白いうさぎを追って、美琴も更に山奥へと足を踏み入れていく。

 今までの疲れなんてどこかにいってしまったかのように、不思議と体が軽く感じた。

 そのうさぎは此方の様子を窺うように時折立ち止まる。その行動は、まるで美琴のことを待ってくれているかのようだった。

 暫くの間、美琴がうさぎと追いかけっこをしていると、少しだけ広い場所に出た。

 目の前には大きな一本の木が聳え立っている。一体どれ程の長い時間が経てばこんなに太い幹になるのだろうか。千年は生きていると言われても納得してしまう程に立派な木だ。

 美琴はその木を見上げて呆然としていた。見えない何かに誘われるように木に近付いて、幹にそっと手で触れる。

 その間に白いうさぎはどこかに行ってしまったようだが、それ以上に美琴はこの光景に衝撃を受けていた。

「私は……この場所を知っている……」

 強烈な既視感が美琴を襲う。

 昔……そう、あれは今から十年前だ。此処に来たことがある。

 まだ自分が幼かった頃、うさぎを追って山に迷いこんだことがあった。あの時はまだ両親も生きていて、家族三人で祖父母の家に遊びに来ていたんだ。

 この山で迷子になった幼い自分は泣きながらあちこち歩き回って、そして辿り着いたのがこの大木だった。

 疲れ果てていた自分がこの大木の根元で小さな体を丸めて眠りにつこうとしたその時、誰かが声をかけてきた筈だ……でも、一体誰が?

 記憶を辿ろうとすると、頭に鋭い痛みが走る。けれど、今あの時の事を思い出さないと、これから一生後悔するような気がした。

 痛みでよろけて倒れ込みそうになるのを、足に力を入れて必死に堪える。美琴は目を瞑って全神経を集中させた。

 ぼんやりとしていた思い出の輪郭が少しずつはっきりしてくる。

 艶やかな黒髪に琥珀色の瞳、優しい笑みを浮かべて幼い自分に手を差しのべている少年の姿が鮮明に美琴の脳裏に蘇った。

 その記憶の中の少年は、今自分が探し求めている彼と何一つ変わらぬ姿で微笑んでいる。

「そ、んな、嘘……」

 頭に浮かんだ一つの仮説に、美琴は無意味に何度も首を横に振った。そんなことあるわけがない、と自分の考えを否定する弱々しい声が口から漏れる。

 混乱している美琴は、背後から自分に近付いてくる存在に気が付かなかった。


「……美琴ちゃん?」


 後ろから聞こえたその聞き慣れた声に、美琴は弾かれたように勢いよく振り返る。

 そこには、会いたくて仕方なかった晴人が驚いたように美琴のことを見つめていた。

 その姿は間違いなく、美琴の幼い頃の記憶に存在する彼と顔や服装どころか年齢も寸分違わず一致している。

 その事実に、美琴は否応なしに全てを理解してしまった。自分以外には見えないこの友人が、歳をとらない理由を。

 しかし、理解してしまったその真実をすんなり受け止める事が出来るかどうかはまた別の話だ。

 今、自分は笑えばいいのか、それとも泣けばいいのか。美琴の中で様々な想いが混ざり合う。

 本当なら晴人に会えて嬉しい筈なのに、こんなにも胸が苦しい。

 美琴は辛そうに顔を歪めて、目を伏せた。

 いつもと様子の違う美琴を前にして困惑したように晴人は眉尻を下げる。それでも心配そうな眼差しで、晴人は美琴に一歩近付いた。

「何かあったのかい? どうしてこんな山奥に……」

「晴人……あなた、少しも変わってないんだね」

「…………え?」

 美琴の言葉が何のことを指しているのかがわからず、晴人は首を傾げる。その仕草も、表情も、美琴がよく知っている晴人のものと全く同じものだ。

 この数ヵ月間ずっと隣にいたのだから、忘れる筈がない。

 美琴は眉をひそめて自分の拳を握り締めると、晴人の目を見据えた。曇りのない瞳に見つめられて、晴人が息を飲む。

 ひと呼吸おいて、美琴は口を開いた。

「どうしてあなたは十年前に会った時と同じ姿をしているの? どうして、歳をとらないの……?」

「…………ああ、そっか。思い出しちゃったんだね」

 美琴の言葉に、晴人は一瞬目を見開いて微かに唇を震わせた。

 しかし、納得したような諦めたようなどちらともとれる表情と声の調子で、困ったように笑う。

 美琴は心のどこかで自分が導き出した答えを、晴人は否定してくれるのではないかと思っていた。

 いや、否定して欲しかったのだ。「何言ってるの美琴ちゃん、そんな訳ないじゃないか」そう言いながら苦笑する晴人を期待していた。

 けれど、晴人から返ってきたのは肯定の言葉だ。美琴の顔がくしゃりと泣きそうに歪む。

 十年前、うさぎを追って山に迷い込んだ幼い美琴を助けてくれたのは紛れもなく目の前にいる晴人だった。

 学生服を着た優しい隻眼の少年。

 だが、今も昔も晴人の見た目は少しも変わっていないのだ。十年という月日が経っているのにずっと少年のまま、成長していない。

 美琴が晴人の年齢に追いついたということは、晴人の時間は止まっている。

 そして、自分にしか見えていないこの友人の正体は、少し考えれば美琴にも予想はついた。

「君の想像している通りだよ。僕の肉体はもう、存在していない。だから歳をとることもないんだ。見た目が変わらないのは当然さ」

「…………どうして、言ってくれなかったの」

「……黙っててごめんね。でも、初めは君に会うつもりなんてなかったんだ。成長した君に会えた事は凄く嬉しかったけど、君には僕と違って未来がある。僕みたいなのが傍に居たら邪魔になるからって、遠くで見守ってた。だけど、いつも悲しそうな顔をする君を見ているのが辛かったんだ……少しでも笑顔になって欲しくて、君に近付いた」

 美琴の両親が亡くなった事を知った晴人は、彼女が自分と同じになってしまったと思った。

 親を早くに亡くした晴人は一人ぼっちで生きてきたし、死んでからも山の中で長い間ずっと孤独を抱えていたのだ。

 寂しかった。誰にも見つけてもらえなくて、悲しかった。そんな時に晴人は幼い美琴と出会う。

 濡れたような黒い瞳が印象的な、小さくて可愛らしい女の子。

 その純粋な目に真っ直ぐ見つめられた時、晴人は泣いてしまいそうだった。今まで誰の目にも留まらなかった自分を初めて見つけてもらえたのだ。

 その日からずっと美琴は、晴人にとって特別な存在なのである。

 自分に向けられた無邪気な笑顔が愛しくて、無防備に慕ってくれる小さな女の子に、つい手を伸ばした。

 あの時、手離した子供が成長してまた此処に戻ってきてくれたのだ。嬉しくない訳がない。

 あの子と話したい、また自分に笑いかけてほしい。そう思わずにはいられなかった。

「望んではいけないと知っていたのに……それでも、美琴ちゃんと一緒にいたかったんだ……無条件で僕を受け入れてくれる君の優しさに、つけこんだ。僕は嘘つきで卑怯な人間なんだよ」

「っ、あなたは卑怯なんかじゃない! 少なくとも私はあなたに救われたわ……! 晴人と過ごした日々は、私にとってかけがえのない宝物だもの!!」

 自嘲する晴人を美琴は両腕で強く抱き締める。言葉もなく目を見開いてされるがままになっている晴人の左目から、静かに一筋の涙が零れ落ちた。

 小さく震えた声で紡がれた「ありがとう」という言葉が、美琴の鼓膜を揺らす。

 晴人は一度だけ壊れ物を扱うかのように両腕で優しく抱き締め返すと、すぐに美琴から体を離した。

 涙で濡れたお互いの瞳を見つめ合う。

「死んでるとか生きてるとか関係ない。私はこれからも、あなたと共にいたいの。お願い……私の傍にいて、晴人」

「……ありがとう。美琴ちゃんが幸せになるためなら、僕はなんだって出来るよ。だから……そのために邪魔な君には僕と一緒に消えてもらう」

「……晴人?」

 見たことがないくらい恐い顔をしている晴人に、美琴は戸惑う。

 不安げな美琴に、晴人は眉ひとつ動かすことなく手を伸ばした。


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