第2章

第5話 過去の話


「ぅうっ、ひっく……お母さん、お父さん……どこぉ?」

 幼い子供の涙混じりの弱々しい声が、山の中に小さく響いて消えていく。

 生い茂る木々に太陽の光は遮られており、日中にも関わらず辺りは薄暗かった。

 草をかき分けながら、懸命にもその小さな女の子は手探りで道なき道を進んでいく。

 女の子のスカートから見えている膝小僧には血が滲んでいて、脚や腕にも枝にひっかけたような小さな傷が幾つもできていた。全身泥だらけで、鳶色の髪も汚れてしまっている。

 まだ幼稚園児ほどの子供には、此処が恐ろしい場所に思えてならなかった。

 怖いし、痛いし、早く大好きな両親の元に帰りたいのに、その帰り道がわからない。泣きながら、帰りたい一心でただひたすらに山道を歩いていく。

 その女の子は山の中をたった一人で何時間もさ迷っていた。


 事の発端は、女の子が白いうさぎを追いかけた事から始まった。

 田舎にある祖父母の家に両親と遊びに来ていた女の子は、家の外で昆虫などを観察していた。

 都会では馴染みの無い、多くの緑に囲まれたこの環境は子供にとって驚きの連続である。色々なものを見ているだけで楽しかった。

 そこに山から下りてきたのか、真っ白な毛並みのうさぎがやってきたのだ。好奇心の塊のような年齢の子供が興味を示さない訳がない。

 まるで子供を山奥へ誘うように逃げていくうさぎを追いかけて、気が付いた時には自分が今どこにいるのかもわからなかった。

 うさぎも見失ってしまって、女の子は独りぼっちになった寂しさと不安で目に涙を溜めながら父と母を呼ぶ。当然、それに応えてくれる声はなかった。

 それから歩き続けてどれくらい経っただろう。女の子の気力も体力も、もう限界に近かった。

 疲れ果てた女の子は近くにあった一際大きな木の根元に、へたりこむように腰を下ろす。

 寂しさや怖さよりも、段々と疲れによる眠気のほうが強くなってきた。瞼が重くなってきて、少しずつ意識が薄れてくる。

 このまま眠って次に目が覚めた時にはお母さんとお父さんのところに帰れていたらいいのにな、なんて有りもしない希望を抱きながら、女の子は目を瞑った。


「──君、大丈夫?」


 その優しい声は、突然上から降ってきた。

 寝ぼけまなこを擦りながら、女の子は声の主を見上げる。

 学生服を着た見知らぬ少年が、心配そうな顔で女の子を見つめていた。その少年は見たところ、女の子よりずっと年上のようだ。

「えっと、大丈夫……です」

 女の子は、つい見栄を張ってしまった。ほんとはちっとも大丈夫なんかじゃない。

 今だってこの山の中で初めて人に会えて、心のどこかでほっとしている。しかし、我慢したり強がったりするのはこの女の子の昔からの悪い癖であった。

 散々泣いて腫れぼったくなっている目を少年に見られたくなくて、下を向く。

 その黒髪の少年はボロボロになった幼い女の子の姿を見て、痛ましげに目を細めた。

「君、傷だらけじゃないか……日が暮れる前に早く帰ったほうがいいよ。夜の山は危ないからね」

「…………」

「……もしかして、道に迷ったのかい?」

 少年の問いに、女の子はこくりと小さく頷く。何故こんな山の中に子供が一人でいるのか、少年はようやく合点がいった。

 唇を噛み締めて涙ぐんでいる女の子を安心させるように、少年は優しく頭を撫でる。

 顔を上げた女の子の目から零れ落ちた涙をそっと指で掬った。あまり素直じゃない様子の女の子の本音は、その表情を見ればすぐにわかる。

 涙に光が反射して、女の子の黒曜石のような瞳は宝石のように美しく輝いて見えた。

 すがるように自分を見上げてくる女の子に対して、愛しさが込み上げてくる。

「じゃあ、僕が君のパパとママのところまで連れて行ってあげるよ」

「……本当に?」

「うん。一人で山の中にいて寂しかっただろう? よく頑張ったね。でも、今度から困っている時はちゃんと言わなきゃダメだよ?」

 そう言って微笑む少年が差し出した手を、女の子はおずおずとその小さな手で掴んだ。

 それだけで今までの不安なんて吹き飛んでしまいそうなほど安心した女の子は、また泣いてしまいそうになった。「君は泣き虫さんなんだね」と少年に言われて、女の子は無理やり涙を引っ込める。

 けれど、そんな自分を慈しむように見つめてくる少年の眼差しが気恥ずかしくて、また下を向いてしまった。どうやら女の子は少々人見知りのようだ。

 少年は苦笑すると、女の子の緊張を解すために歩きながら会話を続けることにした。

「君のパパとママはどんな人?」

「えっとね、二人ともすっごく優しくて、私のこと大切にしてくれるの! 私も大きくなったら、お父さんとお母さんみたいな大人になりたい!」

「そっか。素敵なご両親なんだね」

「うん!」

 大好きな両親の話に、女の子は自然と元気になったようだった。「お父さんは頼りになるけどおっちょこちょいで、お母さんは普段は優しいのに怒るととっても恐いんだよ」と、女の子は感情豊かに話し出す。

 それを少年はニコニコしながら聴いていた。

「お兄ちゃんのお父さんとお母さんは?」

「え、僕の両親かい?」

 まさか自分に話を振られると思ってなかった少年は、僅かに目を丸くする。そして昔を懐かしむように、少しだけ遠くを見つめた。

「僕の母は体が弱くてね、僕が幼い頃に肺炎で亡くなってしまったんだ。でも……優しい人だったと思う。彼女は、僕が生まれつき『欠けている』ことをずっと気に病んでいたけれど、そんなの気にする必要はないよって伝えてあげられたら良かったな……」

 女の子はその言葉の全てを理解した訳ではなかったが、漠然と少年のお母さんはいなくなってしまったんだと思った。

 少年の寂しげな横顔を見ていると、なんだか胸が締め付けられる。

「父は仕事が忙しかったからあまり会話をする機会はなかったけど、とても立派な人だったよ。母の治療費や薬代を稼ぐために、毎日休みなく働いていた。そんな父も過労で死んでしまったけどね」

「……じゃあ、お兄ちゃんは一人なの?」

「うーん……そうだね。長いこと一人ぼっちだよ。でも、今日は君がいるから寂しくはないかな」

 そう言って、少年は穏やかに笑う。

 お母さんもお父さんもいなくなってしまうなんて、自分には耐えられないほどに辛いことだと女の子は思った。

 迷子になって不安でいっぱいだった自分を救ってくれた少年に、何か出来ることはないだろうかと思案する。

 そして、女の子は何かを決心したかのような顔で立ち止まって、少年と繋いでいる手をぎゅっと握った。

「私、お兄ちゃんの家族になる!!」

「えっ!?」

 突然の宣言に少年は面食らった。子供の戯れ言で済ますには女の子があまりに真剣な顔をするものだから、茶化すことも出来ない。

 戸惑う少年に、女の子は無邪気な笑顔を向ける。

「私が家族になれば、お兄ちゃんは一人じゃないでしょ?」

 その言葉に少年は泣きそうな顔をした。あまりにも嬉しくて、思わず女の子を抱きしめる。

「うん……ありがとう」

 少年の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

 女の子は小さな手を少年の背中に回して、ぽんぽんと赤子をあやすように軽く叩く。「お兄ちゃんも、私とおんなじ泣き虫さんだね」と言うので、少年は「そうだね」なんて言いながら笑っていた。

 それから、少年に手を引かれて暫く山道を進んでいると、自分の名を必死に呼ぶ母の声が聞こえてきた。

 女の子の表情が、ぱぁっと明るくなる。

「お母さんの声だ!」

 声を頼りに母親の元へと駆け出そうとした女の子から、少年はするりと手を離した。

 繋いでいた手を少年に離されてしまった女の子は、吃驚して後ろを振り向く。

 少年は寂しそうな笑顔を浮かべるだけで、そこから動こうとはしない。

「お兄ちゃん、どうしたの? 一緒に行こうよ」

「……ごめんね、僕は一緒に行けないんだ」

 いくら訳を尋ねても少年は困ったように眉尻を下げて微笑むだけで、その理由を話してはくれない。

 もっと一緒に居たかったけれど、これ以上少年を困らせるのは良くないと思った女の子は、渋々彼を母の元へ連れて行くのを諦めた。

 自分を呼ぶ母の声が段々と近付いてくる。後ろ髪を引かれる想いで、女の子は少年を見上げた。

「また会えるよね?」

「そうだね……きっと、また会えるよ」

 またこの少年に会える。そう考えるととても嬉しくて、女の子は花が咲くような笑顔で少年に笑いかけた。

 少年も愛しそうに女の子を見つめている。

「わたしの名前は雨宮美琴。お兄ちゃんの名前も教えて」


「……うん、僕の名前は──」


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