第3話 夜のピアノ

 ナイト・ストーリーズ~男と女の千夜一夜物語~

「夜のピアノ」


                               乃村 寧音


 宵の口だからまだバーに客はいない。夏は夜、と言うけれど本当だ。日が落ちて光の粒が闇に溶け、夜の匂いが辺りに立ち込めてくると、なぜかホッとして外に出たくなる。わたしは黒猫のメナを膝に抱き、「ナイト・ストーリーズ」でマスターの須賀に愚痴っていた。

「昨日は久しぶりに内藤の家を力一杯掃除してきたよ」

「そいつはお疲れ様でした」

 須賀が笑いながら目の前にジンバックを置く。目尻の皺でさえどことなくセクシーに見えるいい男で独身の四十三歳。本人曰く『三十七歳まではモテたけど、最近はもうダメ』だそうだがまだまだイケると思う。わたしは手を出さないけど。

「内藤さん、最近も忙しいの?」

「うん、そうみたい。だからってわたしに頼られても困っちゃうんだけど」

 一杯目のジンバックが空になりお代わりを頼むと、別の客が扉を開けて入ってきた。須賀がわたしの前を離れた。ちらりと盗み見る。初めて見る顔じゃないが、話したことはない。 

 品のいい、育ちの良さそうな顔立ちの紳士。仕事帰りなのかスーツ姿だ。鼻筋が通って、なかなかすっきりしている。

(ふうん、わりとタイプ。ちょっと内藤に似てるかな。あっちのほうが美形だけど)

 目の裏に内藤の姿が浮かんだ。

 銀狐。

 それが内藤の仇名だった。痩せて目が細い、色白のピアニスト。確かにイメージは狐みたい。コンクール入賞歴も多くて、同じ音大に通ってはいたけれど、わたしと違って内藤は常にトップの成績だった。

 しかし音楽の道は厳しい。そう甘いものじゃない。内藤は演奏家への道を目指していたけれど、その夢は叶わないだろう、ということに途中で気が付いたらしい。

 まず滅多にいないレベルで頭が良く合理的だった内藤は、三年のときに大学を辞め、受験し直して普通の大学に入り、今は外資系の証券会社に勤めている。海外出張が多く、留守にすることが多いので、内藤は時折わたしに掃除を頼むというわけなのだ。

 須賀が戻ってきた。再び無駄話が始まる。

「でも内藤の家にはすごくいいピアノが置いてあるんだよね。そうじゃなかったら、いくらわたしが暇でも掃除なんか引き受けないな」

「和香ちゃんのところは、今は電子ピアノだけなんだっけ」

「うん。写譜の仕事するだけなら防音室は必要ないから。工事となるとお金がかかりすぎるし」

「内藤さんは彼女っていないの?」

「さあ、どうだろ。いるんじゃない、誰かは」

「大学の時って付き合ってたの?」

「あ、それはないよ。だって……」

(内藤は、基本的にゲイだからね。両刀だけど)

 言いかけてやめた。

 実は昔少しだけ付き合ったことがあるのだけど、今は本当にただの友達だ。わたしの中では、セックスするしないは関係ないから。

 ふと、さっきの男が話に入ってきた。

「ピアノをお弾きになるんですか」

「はい」

 答えると、上から下まで一瞥された。男は気が付いていないと思っているのだろうが、なんとなくそういうのってわかる。今日は白に近いグレイのサマーニットに黒のタイトスカートだ。アクセサリーはシルバー。家から来ただけだから普段着同然の格好だが、スカートが短いので、もしかしたら太腿で誘っちゃったかなと思った。

「和香ちゃんは音楽の仕事してるんですよ」

「そうなんですか。すごいですね。ピアノの先生ですか?」

「いえ、手を壊しちゃってピアノ教師は辞めたんです。今は別な仕事してます」

 わたしは写譜屋であることを簡単に説明した。男は植原と名乗った。不動産会社を経て、今は貸しビル業をしているという。年齢から見て当然妻子がいるだろう。こういう良い感じの男が余っていた試しはない。こちらとしても、独身と言われても逆に困ってしまうのだが。

「手を壊しちゃったというと、もう弾けないんですか」

「根を詰められないんです。仕事で弾くのは無理ですが、好きなように弾く程度なら大丈夫です」

「プロとなると厳しいでしょうからね。実は僕もピアノは好きでして、ひとりで弾いてるんですよ。全くの趣味ですけど」

「そうなんですね」

 話は自然に流れた。水のように。良い雰囲気だった。

「お綺麗ですね。ご結婚は?」

「バツイチ、独身です」

「でも……どなたか、いらっしゃるんじゃないですか?」

(きたきた)

 探られるような質問。こういう時はとりあえず聞き返すのが基本だ。

「植原さんも、かなりモテそうですよね。きっとどなたか、いらっしゃるんでしょう?」

 そう言うと、植原の表情が曇った。

「いえ。実は最近振られたばかりでして。僕は結婚しているんですが、内緒の彼女がいまして、その子に……。もう諦めようと思ってるんですけど、その子からまだラインが来るんですよ。どう思います?」

 そんなの知るか、と思ったけれど興味深かったのでそのラインを見せてもらった。男が女々しく追いかけている様子が垣間見れて面白かったが、

(恋愛なんか必死になったらおしまいじゃん。第一、こんなラインをとっておくなんて愚の骨頂。危機管理ができない男は趣味じゃないのよ)

 すっかりその気を無くして、わたしは植原にスマホを返した。

「良かったら連弾してもらえませんか? 事務所にピアノを置いてるんですよ。すぐ近くなので」

 男はまだそんなことを言っている。

「機会があれば」

 わたしは作り笑顔で言った。 

 そのとき、わたしのスマホがバッグの中でブルンと鳴った。取り出すと、内藤からだった。

『掃除ありがとう。久しぶりに帰ってきたら家がきれいで感動しました。良かったらこれから遊びに来ない?』

 今夜帰宅するのはわかっていたから、もしかしたら連絡が来るかもしれないなとは思っていた。とりあえず店を出て電話した。

「あ、和香ちゃん。ごはん用意するから、今からおいでよ。そのあと、連弾して少し遊ぼう」

「いいよ」

 連弾は誰とでもしたいことじゃない。仕事なら別だけど。


 余計な物の無い内藤の部屋はとても広く感じる。建物が高層なため眺めもいい。シンプルな内装のリビングに置かれた、一人暮らしには不似合いな大きさの大理石のテーブルで、パスタを食べながらワインを軽く飲んだ。

 内藤が用意してくれたトマトとサーモンの冷製パスタはレモンソースの味が絶品ですごく美味しかった。内藤は料理が上手い。

 食事のあと、一緒に防音室に入った。置いてあるのはグロトリアンのグランドピアノだ。癖がなく、水のようにいい音がする。こちらの出したいように、出させてくれる。

「すぐに弾けるやつがいいよね」

 譜面板に「マ・メール・ロワ」の楽譜が置かれた。ラヴェルが友人の子供たちの為に書いた連弾組曲。おとぎ話を題材にしており、とても可愛らしい。静謐で、残酷で、純粋で。「これ、大好き」

「知ってる。プリモ(高音部)を任せていい?」

「うん」

 最初の曲はパヴァーヌ。とてもゆっくりの三拍子。

 防音室というのは、入ってしまえば外の音も一切聞こえてこない。聞こえるのは自分たちの出すピアノの音だけだ。

 演奏が始まるとすぐに、くるんと入り込んだ。誰も聞いていない二人だけの音楽。音に包まれ、溶けていく。

(後ろで、知らない誰かがずっと踊ってるみたい)

 パヴァーヌを弾いていると、なぜかそんな気がしてくる。ゆっくり、ゆっくり、誰かが後ろで踊っているような、そんな感じがするのだ。もちろん誰もいないのだけれど。 

 お客さんがいないから、弾きながらのおしゃべりもできる。

「男と女って、おとぎ話みたいな感じじゃないとダメじゃない?」

「変な例えだね。でもわかるような気もするな。ちなみに男同士でもそうだよ」

「なるほど。ねえ、ちょっとキスしてみない?」

 わたしがそう言うと、内藤が笑った。

「そういう気分なの?」

「少しね。迷惑だったら無理しないで」

「そうでもないよ」

 ふと手を止めると、唇が重なってきた。

 夏の夜は夜明けまでが短い。それまでわたしたちは、ゆっくり楽しんだ。                                    

                            

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