第2話 夜の温泉

 アラフォーともなると、女だからと得をすることは少なくなる。

 男性に美味しいレストランに連れて行ってもらったり、贅沢なホテルに泊まったり。若い女であるうちは、色んな役得があるのだ。大きな声では言えないけれど。

 尤も女も年を取れば、大抵の美味しいレストランには自力で行けるようになってしまうし、女性用プランでちょっと贅沢なホテルステイも可能だ。独身ならなおさら。

 しかし……。さすがにひとりでは行きにくい場所がある。温泉旅館だ。

「何見てんの、さっきから」

 黒猫のメナを膝に抱きながら、熱心にスマートフォンの画面を見ているわたしに、マスターの須賀が声をかけてきた。

 ここは、近所のバー。カウンターに座席が六つと、奥に狭いテーブル席がひとつあるだけの小さな店。店名は「ナイト・ストーリーズ」。老猫のメナは須賀の飼い猫だ。

「最近、寒いじゃない? 冷えてしょうがないの。だから温泉でも行きたいなって。できれば一晩泊まって、ゆーっくりしたいんだよね」

 見ていたのは近場の温泉のホームページだ。こういうのは、読んでいるうちにどんどんその気になってしまうのが困る。

「いいねえ。でも高いんじゃないの」

「平日なら激安価格で出てるのよ。今見てるページのは、部屋にも小さい露天風呂がついてるみたい。いいなあ、こういうところに泊まりたいな。でもね、ひとりだと割高なんだよね」

「そりゃあそうだろ、そんな贅沢な部屋。第一、そういうのはカップルで行くもんだよ」

「わかってるけど、相手がいないんだから仕方ないじゃない。じゃあ須賀さん、一緒に行ってくれる?」

「誘ってくれるなんて光栄だな。でも、メナがもうおばあちゃんだろ、泊りで家を空けるのはちょっとね……」

「そうだね、メナ、おばあちゃんだもんね……。わたしも猫飼いたいけど、実際は難しいし……ここでメナに会えるのを楽しみにしてるんだ」

「そのほうがいいと思うよ、俺も偶然拾わなかったら猫とは暮らしてないな。猫嫌いの女を家に呼べなくなっちゃうしね」

「ふふ、須賀さんも悪い男だなあ」

 キールを飲みながらそんな軽口を叩いていたら、隅のほうで飲んでいた男から声がかかった。

「君は須賀くんの彼女じゃないんだ」

 悪くない見た目の男だった。髪に白いものが混じっているくらいだからけして若くはないだろうけれど、中肉中背で姿勢が良く、品のいい感じ。

「違いますよ」

 笑いながら答えると、男がわたしをじっと見た。向こうも『悪くない』と感じたのかもしれない。いつもここに来るときは部屋着同然のわたしだけど、今日はスタジオ帰りだからそこそこきれいにしている。ベージュのジャケットに銀鼠色のタイトスカート。髪もちゃんと巻いてあるし。

「仲良さそうだから、彼女かと思ってた。前にもここで見かけたからさ」

 わたしのほうでは記憶に無かった。

「彼女じゃないですよ。須賀さんと変なことしたら、お店に来られなくなっちゃうもの」

 笑いながら言うと、須賀も素早く氷を砕きながら答えた。

「和香ちゃんは俺の妹みたいなもんですよ。ちょっと素行の悪い、ね」

「そ。三つ違いだもんね。あ、こんなこと言ったら年がバレちゃうか」

 そう言うと男は心得たように、

「そうなんだ、若く見えるね。素行の悪い妹か、それは大変だ」

 と、さりげなくフォローしながら笑ってくれた。

「ご結婚は?」

(お。確認作業が早いなあ)

 人妻狙いなら離れていくだろうけど、面倒も嫌なので正直に答えることにする。好きなタイプの見た目だし、ナンパしてくるようなら考えてもいい。もちろん出方によるけど。

「バツイチ、独身です」

「そうなんですか。では自由を謳歌しているということですね。婚活はなさらないんですか?」

「してません。もう結婚はする気ないです、わたし」

 わたしは基本的に、素敵な既婚男性をつまみ食いする方針で生きているのです、ということはわざわざ言わないでもいいだろう。

 アラフォーは微妙な年代だ。男が警戒するのもわかる。婚活している友達も多い。わたしはもう、興味ないけれど。

 欲情や恋は瞬間のもので、結婚は事業だ。わたしは最初の結婚でそれを知った。それまでは混同している部分もあったけれど、今は完全に離れた。

 共同事業だから、パートナーに不都合が生じれば関係解消もあり得る。

 不備があったのはわたしで、子供ができなかった。相手は子供を欲しがっていた。結婚して五年目に、元夫の恋人に子供ができた。

「お、今日はテレビでオスカー・ピーターソンのライブやってるのか」

 カウンターからちょうど見える位置に映像モニターが据えてある。わりと最近になって入った機器だ。

「あーこれですか。映画でも観ようと思ってモニター入れたんですよね。そうしたら和香ちゃんが勝手にジャズチャンネルを登録しちゃって」

「でもさ、オスカー・ピーターソンって音が大きすぎるよね。下品な気がするんだよな」

「そうなんですか。俺はあまり詳しくないんですよ、ロック好きなんで」

 わたしはちょっと用心し始めた。おかしな持論を語る音楽マニアおじさんは苦手なのだ。

「ジャズお好きですか」

「あ、そうですね、わりと……」

「和香ちゃんは音大出てて、楽譜を作る仕事してるんですよ」

「へえ、そういうお仕事があるんですね。ジャズなんかもやるんですか」

「やることもありますね」

「でもテーマはともかくアドリブ部分は楽譜がないでしょう」

「採譜に関しては採るのはそこですね。趣味で演奏されてる方なら、テーマはもうわかっていますし楽譜も普通に売ってますから」

「ふうん、それだと面白くなさそうだけどなあ。アドリブしないなんてカッコ悪いじゃないですか」

 そりゃあ、そうだ。でもできないから楽譜が欲しいのである。誰にも迷惑をかけず、敬愛するピアニストのアドリブをそっくり真似したい、というだけの話だ。

「まあ、色んな人がいますからね」

 面倒になって話を流した。


 店を出ると電話した。中途半端にその気になってしまったせいか、なんだか物足りない。こんなとき電話できる男は、一応何人かいるのである。

「和香ちゃんか。楽譜データ貰ったよ、ありがとう」

 開業医の近澤(ちかざわ)は、元々はわたしのお客さんだった。ジャズピアノ歴の長い、少し年上の妻子持ちだ。痩せてバランスのいい体躯で、すっきりした風貌。男にしては少し華奢な感じが、年齢の割に親しみやすい雰囲気を醸し出しているように思う。

「ところで、どうしたの? こんな遅い時間に」

「ん。会えないかなぁって思って」

 電話の向こうで、近澤がふふっと笑った感じがした。

「和香ちゃんは、いっつも急だからなあ。俺は明日も仕事なんだよ」

「そうですよね。ごめんなさい。じゃ」

 電話を切ろうとすると、

「車で迎えに行くよ。どこか行きたいところでもある?」

 と言ってくれた。

「あのね、寒いから、温泉に入りたいの」

「温泉? うーんこんな夜中からじゃ難しいよ。……あ、でもいいところがある。そこへ行こうか」


「へえ。こういうところがあるんですねえ」

 近澤に案内されたのは、『温泉付きラブホテル』というところだった。ちゃんと部屋に効能書きが貼ってある。神経痛、リウマチ、冷え性、等々。さっそくお風呂場を覗きに行ってみたら、小さな檜風呂にお湯が流れ込んでいて、一応かけ流し状態になっていた。

 すでに深夜十二時を回っている。近澤は一日の疲れが出たのか、ベッドに寝ころんでしまった。

「こっちにおいでよ、和香ちゃん」

「はい。それじゃお邪魔しまーす」

 わたしは近澤の隣に滑り込んだ。久しぶりの人肌。少し安心する。抱きついて、胸に顔を埋めた。

「仕方ないなぁ、和香ちゃんは。いろんな男と遊ばないで、俺だけと遊んでよ」

 唇が重なってきて目を閉じた。身体の奥の子宮に近い辺りが、ズキンと痛いくらいに疼く。

(そっか、わたし、したかったんだ。最近冷えてたのってそのせいかなぁ)

 自然に口元が緩み舌が入り込んでくる。トロリと下半身が蕩けてきて、力が抜けた。                          

                                おわり




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