ナイト・ストーリーズ 男と女の千夜一夜物語

チアーヌ(乃村寧音)

第1話 夜のババロア

ナイト・ストーリーズ~男と女の千夜一夜物語~


第一話「夜のババロア 」                    

                             



 階段を上がり少し重い扉を開けると、カウンターのスツールに黒猫が座っていた。二十二時を過ぎたところだけれど、珍しく客がひとりもいない。マスターに目礼し、中に入った。

「いらっしゃい」

 店は古い小さなモルタル壁の建物の二階屋に入っている、五坪ほどのバーだ。自宅マンションから近いこともあり、週に一~二回通っている。

「メナ、こんばんは」

 黒猫のメナは、柔らかい動作で音も立てずに飛び降り、傍に寄ってきた。わたしはメナを抱き、スツールに腰掛けた。

 三十代で一度結婚して離婚し、数年が経つ。アラフォーでひとり暮らし。全く寂しくないといえば嘘になるけれど、まあ、仕方がない。

 この年齢になれば、素敵だなと思う人は殆ど既婚者だ。付き合うにしても、レンタルDVDみたいに借りたら返すしかない。レンタル期間は、短い場合もあるし長い場合もある。その日のうちに返すことも、たまにある。

 外は小雨がパラついている。ひと雨ごとに寒くなってきていて、季節が冬に移行しているのを感じる。

「雨だから来ないかと思ってた。何にする?」

「ジントニック。そっか、雨だからお客さん少ないのかな」

「ここ、繁華街と違って家から来る人が多いからね」

 このバーは住宅街の中にあり、周囲は夜になるとひっそりしてしまう。駅から遠いわけではないのだけれど、駅も小さいのだ。

「お腹が空いちゃって、コンビニでも行こうかと思ってたらここに来ちゃった」

「あ、そう。じゃ、パスタでも食べる?」

「んー、いらない。ナッツだけちょうだい」 

 その時、ドアが開いて男が入ってきた。見慣れない男だった。わたしから見ればそうなのだけれど、その男はハッとしたようにわたしを見た。マスターと二言、三言話していた様子からも、どうやら初めての客のようだった。

 白っぽいシャツに黒のジャケット、ベージュのパンツ。きれいめカジュアルなスタイルが、細身の体に似合っている。ちょっと見は若く見えるけれど、年頃は同じか、少し上かもしれない。女もそうだけれど男も首や手に年齢が出る。優男で柔和な雰囲気だけれど、隙はない。仕事の場では厳しいタイプかもしれないな、となんとなく思った。

 つい観察してしまったのは、好きな顔立ちだったからだ。男はまたチラリとわたしを見て、声をかけてきた。

「いつも、ありがとうございます」

「え、あの……」

「すみません、わかんないですよね。『クープラン』のものです。佐村(さむら)って言います」

「あ、『クープラン』の。こちらこそ、いつも美味しくいただいてます。すみません、お顔がわからなくて」

「普段は奥にいるんですよ。お客さんは僕を知らないことの方が多いと思います。レジ前にいることは少ないので」

 最近見つけて時々行くようになった、ひと駅隣のケーキ屋の人なのだ、とわかった。その店のお菓子はどれを食べても品の良い甘さで、ひとつひとつがとてもきれいで、店構えもお洒落なので気に入っていた。

「あれ、美味しいですよね。タルト生地のカップにチーズケーキが入っていて、表面がキャラメリゼしてあるの。大好きです。いつも買っちゃう」

「うん、あれは人気商品です」

「和香(わか)ちゃん、酒もいけるけど甘いものもいけるんだ。だからいつもダイエットのことばかり気にしてるんだな」

 マスターがからかうように言う。確かにわたしは、年中ダイエットしている。そのおかげでぎりぎり中肉中背を保っているのだ。

 もうちょっとマシな格好をして来れば良かったと後悔した。シャーリングの入ったピンクベージュのカットソーに、黒のAラインスカート。それにチャコールグレイのロングカーディガンを羽織っただけ。家で仕事していて、かっちりした格好をする必要がないので、いつも普段着みたいになってしまう。

 店の中に三人しかいないせいか、自然に会話ができる雰囲気になった。ふと佐村に「どんなお仕事をなさってるんですか?」と聞かれ、わたしは自分が『写譜屋』であることを説明した。

 もともとはオーケストラの楽譜をパート譜にしたりする仕事なのだけれど、テレビ局に詰めて編曲家のアレンジを待ち、スピード勝負でバンド譜を作ったりなど、案外仕事は幅広い。わたしはクラシックだけでなく、ポピュラー音楽にも強かったので重宝された。

 機械的に楽譜を作るだけなら誰でもできるけれど、最終的にはある程度のセンスを要求される仕事だ。独立した今は、ホームページを作って個人の注文も受けている。これが意外に当たって、仕事は常に半年先くらいまでは埋まっている。

「へえ」

 佐村は興味深そうに聞いていた。雨に降られたせいなのか、ジャケットから薄い男の匂いがする。ケーキ屋だから甘い匂いがするのかと思ったらそうでもないのだ。懐かしいような、刺激されるような感じがした。

「珍しいお仕事ですね。やはり音大ですか?」

「はい。ピアノ科の出身ですけど、手を壊しちゃって。それで知り合いに紹介されて、写譜の事務所に入ったのが最初です。そこでは十年くらい勤めました。今はひとりでやっていますけど」

「そうなんですか。音楽の仕事っていいですね。僕も、きれいなものを見たり、聞いたりするように心掛けてはいるんですけど、なかなか。でも、こういうことってお菓子作りにも関わってきますしね」

「いつも、きれいなお菓子だなって思っていましたよ。あれこれ工夫されてるんでしょうね。そういえばクープランって」

「ええ、そうです。フランスの作曲家の。でも僕勘違いしていて、『クープランの墓』ってクープランが作曲したと思っていたんですよね」

 思わず笑ってしまった。それは、違う。

「ラヴェルだったんですね、あれって。でも、お菓子屋の名前としては『ラヴェル』より『クープラン』のほうがいいですよね?」

「うん、いい。なんか、『クープラン』のほうが響きが可愛い」

 佐村がわたしの顔を覗き込んだ。ぴたりと目が合って、ちょっとドキドキした。

「そうだ。せっかくなのでお願いしちゃおうかな。食べて欲しい新商品があるんですよ。ダイエットが気になる女性にぜひ試してほしいものが。カロリー控えめのババロアなんですけど、試作品を作ったので、これから店に食べに来ませんか?」


 マスターはやれやれ、という顔をしながら見送ってくれた。このバーでわたしが男と出て行くことは初めてじゃないので。

 外に出ると雨はやんでいた。

 近道を行こう、と言われて路地に入ると、キスされた。冷たい湿気が纏わりついてくる。

 頭の中でちょっと考えて、(あ、三か月ぶり)と思った。前の人は、どんな感じだっけ……。もう薄れている。

 キスは、すぐに離してもらえるかと思ったらそうでもなくて、唇を密着させたまま深くなってきた。この人、上手いかもしれない。舌の根本まで探られると、身体の中心に水が溜まる感じがして、予期しない段階で子宮がずしんと重くなった。わたしはまだここにいますよ、とでも言いたげに。


 まさかお店の二階にベッドとバスルームがあるとは思わなかった。クリスマスの時期は店員皆で泊まり込むことがあるのだという。それにしても。

「自宅が遠いんだよ。嫁が決めたマンションで、ここから一時間もかかるんだ。だから遅くなったときは、店で寝ちゃうんだよね」

 結婚しているというのは初耳だけれど、今聞いても手遅れだ。もう、ベッドで激しいやつを一回済ませてしまった。キスのあとは手を繋いで、イチャイチャしながらここへ雪崩込んだのだから。時刻は三時。そろそろ帰らなきゃと思いながら、バスタブから出られない。

 お世辞にも広いとはいえないバスタブで、わたしは佐村に寄りかかり後ろから抱かれていた。関節が柔らかくほどけてしまったような気がする。

 お湯はすっかりぬるくなって、すでに体温のほうが温かい。密着していると気持ち良くて、このまままた交じり合ってしまいそうだ。

「ねえ、待ってる人のことが気になるの……?」

 佐村が後ろから、吐息交じりに訊いてきた。何を言われたのかわからず、素直に答えてしまった。

「誰も待ってないよ。ひとり暮らしだから」

「ん? ケーキ、お子さんの分も買ってなかった?」

「毎日一個ずつ食べるから、三~四個一度に買うことが多いけど、家族はいないよ」

「え? じゃあ、奥さんじゃないの?」

 佐村の顔に、失敗した、という表情が浮かんでいた。それでわかった。この男は人妻狙いだったのだ。

 この年齢になると、勝手に「結婚しているに違いない」と思い込まれて、それ前提で口説かれる、という現象が起こる。もちろん遊び相手としてだ。人妻は面倒くさくない、ということが男の頭には抜き難くあるらしい。人妻にだって、面倒なのとそうでないのがいると思うのだが。

(余計なこと、言わなきゃいいのに。でも、もしかしてこれも計算の内かな?)

 そんなことを思いながら、わたしは何も気が付かなかったふりで言った。

「ねー。ババロア、まだ食べてないな」

 佐村は、助かった、という雰囲気で、

「あ、今用意するよ。お土産に三つ」

 と言いながら、バスルームを出て行った。


 それから三日間、わたしはおやつに不自由しないで済んだ。カロリー控えめにもかかわらず、味が濃く弾力がある。さすがの出来だ。きっとよく売れるだろう。でもわたしはもう、買いに行かないだろうけど。

 そのババロアは、申し分なく美味しかった。


                                     おわり

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