5 階段の家
ひとりになりたい、という$0の願望はかなわず、次のフィールドはずいぶんと賑やかだった。
最初のフィールドと同様に、階段を縦横無尽につなげた屋内だったが、そこに先客がいた。
巨大な目を持つ芋虫のような蟲たちが、階段だらけの室内を動き回っている。見た目は芋虫だが数本の脚が生えており、その脚は人間の足首に似ていた。
蟲たちの腹が床にこすれる音、いくつもの体節がよじれる音、それから人間の足音が室内中に響いている。
フィールドの設定を変更すれば、このオブジェクトたちを消すことはできたが、$0は見なかったことにした。代わりにタスクプランを覗き、虫たちの歩行スピードを緩めた。
目の前を通りかかった蟲を捕まえ、その図体の上に横向きに腰かける。蟲は一瞬、とまどったように眼をギョロギョロと動かしたが、すぐに歩きだした。蟲はユーザーに乗られる前提で設計されているらしく、乗っているときの振動はそれなりに抑えられている。$0は段々になっている蟲の体節を手でつかみ、思考に耽る。
$-1は、$0の疑問には答えなかった。自分で決めろ、ということだろう。
自分はおそらく、今回の仕事で死ぬつもりだった。意図的な自殺はできないものの、過負荷をかけ続けて、機能停止を望んでいた。
これまで多くの$0たちは、タスクだけを見てきた。連続性のあるものを嫌い、物語性のあるものを遠ざけた。自分が本当の名前で呼ばれることを避け、$0を用いるのも、過去の$0たちを忘れないためだった。それは今までの$0たちのタスクを無駄にしない、という思いもあったかもしれない。
しかしそう考えると、自分は$0全体の利益を考えるべきではないか。自分のタスクだけではなく、後の$0のためにも。
後のことを考えると、寒気がした。仕事も与えられず、仮想空間に軟禁されるかもしれない。疲労で死ぬより、誰にも必要とされないほうがよほど恐ろしかった。
だが、それでも。
乗り物である蟲がちらちらとこちらを見てくる。目の前の壁を登り始める。蟲から落ちない程度に重力が変更される。
楽しい、などという感情はシミュレーションしない。それは映画や小説を作る時点で計測可能であって、わざわざAIがテストする必要もない。仮想空間で計測されるのは、リスクがあるものばかり。
ただ、それでも。
$0は蟲の表皮を撫で、その場に降りた。
***
その地に降り立ったとき、鐘の音を聞いた気がした。
この場所には音があったのか、と$0は眉をひそめた。
階段の踊り場に降り立ち、フィールド名を確認する。
The Endless Staircase.
中庭を囲むような、ロの字型の建物。屋上は階段状になっており、フードをかぶった十数人の人間が、中庭を中心に屋上を歩き回っている。人々は手すりを持ち、一方の列は階段を下り、もう一方はすれちがうように階段を上る。階段に終点はなく、始点もない。階段はすべてつながっているからだ。
矛盾している。もしらせん階段なら、階段を上っていけばいつかは必ず屋上につくし、下っていけば地上に降りる。しかしこの絵に描かれているロの字型の階段は、始点も終点もなく、回路のように、完璧に閉じている。
ロの字型の階段には、ご丁寧に、フードを被ったNPCたちがうつむきながら歩いていた。$0は彼らに向かって手を伸ばしたが、するりと透けて触れることはできない。足音も衣擦れの音もなく、亡霊のようにただひたすら歩く。
十数人の人型のオブジェクトが、黒魔術のように、無限階段を永遠に回り続けている。
$0は錯視階段を実際に回ろうかと思ったが、階段の上で横になった。NPCたちが$0を無視して通過していく。
(……そうか)
$0はなんとなく、得心した。自分がこの絵を好きだったのは、無現階段のオブジェクトを気に入っていたからではなく、この住人たちが自分と似ていたからだろう。
自分は$0であって$0ではない。本当の名前も呼ばれたくない。自分はただ、多くの$0たちの一番先にいるだけであって、自分一人が$0ではない。パーソナル全体が$0だった。
$0は頭の中で、エマージェンシーのキューを作成した。おそらく生涯で初めての、タスク中断のコールだった。現実世界できっかり1時間後に、ミラたちに届くように設定する。
このキューが届くころに、自分が生きているべきか、死んでいるべきか、まだ迷っている。
ただもう少しだけ、この階段を眺めていたかった。せめてこの思い出くらいは、後の$0のために残っていてほしい。そう考えると、自分は別のフィールドで、もう少したくさん遊んでおくべきだった。シミュレーションはつらいものばかりではないということを、残しておくべきだった。$1の言ったことは正しかったかもしれない。
次の$0には、このフィールドで遊べるくらいの趣味があるといい。
そう思いながら、$0は目を閉じた。
エンドレス・ステアケース 黒田なぎさ @kurodanagisa
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