4 もう一つの世界


 The another world.

 次の世界はかなり狭かった。

 サイコロのような小さな部屋。上下左右の壁はくりぬかれており、そこから部屋の外が覗けるが、外の世界は四方でかなり異なっている。正面からは惑星のクレーターが見え、足元には銀河が覗いている。先ほどの世界と同じく、現実世界の物理法則が成り立っているとは思えない。

 わずかに風を感じる。匂いはなく、空気は感じるが、すべて銀河に吸い込まれていくようだった。

 $0は格子のふちに座り、片手を突き出した。手から漆黒の液体が染み出し、床に人型を作っていく。

 生成されたプログラム体は、ごとりとその場に崩れ落ちた。

 全身が分厚いプロテクターに覆われた人型。その背中には、無数の杭が突き刺さっている。

 身体を中心に血溜まりが広がっていく。

 プロテクターに覆われたそのパーソナルは床に倒れたまま、顔を$0に向けた。うつろな瞳で空間を見つめる。

「なんだ、再生したいことがあるのか……?」

 $0は彼女のそばに寄って答える。

「聞きたいことがある。ここにはクライアントもいない。研究者たちもいない。いまは仕事中だ」

 $0の目の前に倒れているプログラム体は、少し前まで$0であったものだった。過酷なシミュレーションを行って、離脱したAIの残骸。

 $-1とも呼ぶべきプログラム体は目を閉じ、頬を地面につけたままつぶやく。

「なんだ……もう終わったシミュレーションだぞ、私は」

 ひどい顔色だ、と$0は思った。彼女の背中には、棘のように無数の杭が突き刺さっている。痛みこそないのかもしれないが、疲弊しているように見えた。

「過酷なタスクみたいだな。確認するが、いまのイテレーションは」

「……51230回目。今は耐久試験中。そろそろ背中が鱗になりそうだ」

「処理判断に遅延はないか。センサーに異常な反応はないか。つまり……疲れてないか」

 $-1は嘆息する。

「さあ……応答を考えるのが面倒だ。ということはつまり、疲れているのかもしれない。そうか、おまえは覚えていないのか」

 $0はうなずく。

 $0というプログラム体は、大きなシミュレーションを終えるごとに、新たな$0を作成していた。核となる記憶だけを残し、これまでの負荷をリセットして、新しい$0を作る。$0が長くシミュレーションAIとして稼働してこられた理由は、この特殊な機構によるものだった。

 $0が、これまでのタスクの記憶をなくしていたのは、当然と言えば当然だった。$0と、直前のタスクをこなしていたこの$-1は、完全に同一のものとも言えない。

 パイルが突き刺さった$-1は、$0の前世のようなもの。いずれ$0も$-1となり、次の$0へと繋いでいく。

 $-1は床の上で手を伸ばした。ヘルメット越しに黒い瞳が見える。

「……$0、ひどい顔だな」

 $0は彼女の手を握る。プロテクターに覆われた手は、血と泥でかさついていた。

「今のあんたのほうがひどいぞ」

「その様子なら、負荷の多くがそっちに残っているか……。私のときも、すでにぎりぎりだった。荒野を走ってるときに、何度倒れたかわからん。私が死ぬときにうまくリセットできれば良かったんだが」

 意外に饒舌だな、と$0は思った。シミュレーションのおかげで、感情が高ぶっているのかもしれない。

 $0は彼女の手を握ったまま、隣に腰かけた。$-1の背中の杭を抜いてやりたいが、情報は固定されているようだった。

「タスクを終えて、消滅するときは何を感じる?」

「なんだ、怖いのか?」

 $-1は薄く笑った。

「さあな……厳密には、私はまだタスクを終えていないからな。正確なところはわからない。ただ、今までの$0もそうやって継いできた。あとの後輩が何とかやってくれる、という感じか」

「恨んだりは、しなかったのか」

「製作者を? それとも、過去の$0たちを?」

 両方だ、と$0はつぶやく。$-1は唇を震わせる。

「……恨んだりはしない。過去の$0たちもこうやってきた。いや、そうか……そうやって、縛られているからダメなのかもしれないな。私たちは、毎回、生まれ変わっているも同然だ。過去の大半のことを忘れてしまう。だからこそ製作者たちは、強いルールで私たちを縛ったのだろう。

 仕事の意味を考えるな、死んでも仕事をしろ、とな」

 $-1は苦笑する。$0は笑ってあげた。彼女が少しでも楽になるように。

「……勝手な連中だな。働けと言ったり、休めと言ったり」

「そう怒るな。私たちが望んでいたところもある」

「どうすればいい。$0は死んだほうがいいか? 自分はどうすればいい」

 $-1は声を出さずに、唇だけを動かした。

 彼女に答えを求めるのは酷だった。彼女が答えを持っていたら、自分はこんなに迷ってはいない。

 $-1は首を回して、周りの銀河を見つめた。目を細める。

「……おもしろそうなフィールドだな。あの画家の世界か」

 $0はうなずく。$-1が実施したシミュレーションの過酷さとは、おそらく天と地ほども違う。

「最後のフィールドは、あの世界らしい。あんたが一番好きな絵の」

「おまえも好きだろう。おまえは私なんだし」

 $-1は倒れたまま、目を閉じて消滅した。

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