3 相対性
$0は、現実世界のことを知らない。
ニュースやこれまでの訓練で断片的には知っているが、所詮は別世界のことで、ほとんどは想像で補っている。
よって、新しいシミュレーションの舞台が、現実世界で実現できるのかどうかは、判断がつかなかった。
天井に、さかさまの上り階段がぶらさがった世界。
扉が下向き、横向きに浮いている世界。
今回のフィールドに降り立った$0は、フィールド名を参照した。
aliquid.
$0は黒のワンピース姿でフィールドに降りた。動きにくいことこの上ないCGだが、こんな服装でも動けるようなフィールドにしたいのだろう。
続いてタスクプランを一瞥して、ミラにメッセージを飛ばす。
〈これを済ませばいいんだな〉
シミュレーションの始めは、研究者が付き添うときもあるし、クライアントが$0の動きを観測するときもある。
〈タスクはこなしてくれるのに越したことはないけど、あとは何をしてもいいの。休んでもいいし、そのスペースを楽しんで。ここは楽しむためのアトラクションなんだから〉
じゃあね、とミラの気配が消える。どうやら気を使って、ひとりにしてくれるようだ。
$0は辺りを見渡す。扉やテーブル、階段や手すりが、そこかしこに張り巡らされている。まるで家庭のリビングを、3つか4つ、縦横に無理やりくっつけたとでも言おうか。現実世界の人間からすれば、これは不思議な空間なのだろう。
ただ、$0にとっては、別の興味が生まれている。あの画家が作った絵画は、二次元で見ると錯視として成功しているが、立体にすると破たんすることが多い。段差が異常に大きな階段ができたり、建物がハリボテになったりする。このテーマパークは、そのあたりをうまくケアしている。
何かに似ている、と$0は思った。この無秩序な感覚は、自分たちの仮想空間と似ている。重力もなく、上や下の感覚もなく、中央、端の概念すらない自分たちの空間と。
否、そもそも自分たちに、重力や階段など必要ないはずだ。この空間が異常、と思っているのは、今まで自分が現実世界の物理法則に従ったシミュレーションをしすぎたからだ。ミラのことを馬鹿にはできない。自分も十分すぎるほど、人間の常識、現実世界に染まってしまっている。
$0は、空中に浮いた階段を通るルートを探査する。案の定、経路は途中で計測不能になる。このフィールドには重力が設定されているが、ユーザーの趣向によっては無重力も可能らしい。重力設定を解除すると、$0の体がふわりと浮き、さきほどまで天井だった箇所が、床になった。
黒のワンピースの裾が揺れる。どれだけおかしな格好になっても、見る者はいない。
(……遊ぶことが仕事、か)
重力パラメータを再設定し、$0は指を前に突き出した。
指先から、黒々とした液体が染み出る。鋳型に金属の液体を流し込むように、それはひとつの形を成していく。指を対称に、$0と全く同じ姿のCGが現出する。
手先から生み出された、黒のワンピース姿のCGは目をしばたかせ、$0をまじまじと見つめた。
$0は指を離し、周りを見渡すよう手で促す。
「好きに遊んでこい、$1」
$1と呼ばれたプログラム体は微笑んで、スキップをした。$0に手を振り、迷宮へと潜っていく。
$0は階段に座り、扉を開けたり閉めたりする彼女の姿を見守った。$0のコピーと言えど、$1はまったく同一ではない。複雑な機構を複製すると、このフィールドには重すぎるし、今までの記憶をコピーしてもシミュレーションには使われない。今回のタスクは、厳密なフィードバックを求められていない。簡易体である$1でも十分だし、むしろ性格を変えた彼女のほうが合っているかもしれない。先刻のロボット兵器のシミュレーションは、$1には荷が重すぎただろう。
おそらく$1は、いま$0が感じているような疲労を感じていない。
$0は自分の額を手で押さえた。クロックが途切れがちになっている。少しの負荷でも意識が飛びそうになる。
あのタスクの記憶を参照するたびに、頭に痛みが走る。$0は目を閉じた。
少し、意識が飛んでいた。
階段にもたれて膝を立てていた$0は、はっとして経過時間を確認する。タスクプランを見ると、ほとんどのタスクが完了している。
隣で、自分そっくりの姿のプログラム体が寝そべっている。彼女はこちらに気がつくと、微笑んだ。
$0は頭を振って意識を戻した。
「すまない」
シミュレーション中にスリープモードに入るなど、信じられないことだった。クライアントに見られるかもしれないという危惧もあったが、何より恐怖が先に来ていた。
$1が手の上にあごを乗せる。彼女はオリジナルよりも表情豊かだった。黒のワンピース姿の、ほぼ裸のプログラム体ふたりが、無秩序な世界の隅で話し合っている。このフィールドが一般ユーザーに公開されたとしても、こんな光景は見られないだろう。
〈初めて見た、眠るところ。ずいぶん疲れてるみたい〉
「ミラには黙っておいてくれ。もっとも、観測されているとしたら意味がないが」
〈どうしてミラに話さないの〉
自分が死にそうだっていうこと。
$0は応えるのにたっぷり20秒かかった。言語化するのに時間がかかる。
「シミュレーションAIが疲労しているなんて、言えばすぐにお払い箱だろう。$0には多くのリソースが割かれている。維持するだけでも金がかかる。役に立たないAIはすぐに稼働停止だ」
〈ミラはそんなことしない。休めばまた動けるかもしれない。生きたくはないの〉
「どうかな。動けないなら死んだほうがマシかもしれない」
言ってみて、自分でもおかしな判断だと思った。タスクの遂行を最優先にするのは当然だが、それによって自分の調子を隠すのは許されることなのか。自分が再起不能になって、プロジェクトとしては頓挫しないのか。
〈死ぬのは怖くないの〉
「死ぬことに怖くなっていたら、シミュレーションなんてやっていられない。ここで実行されるのは、危険なタスクばかりだ。おまえだって散々やってきただろう」
そう言いながら、$0は過去のタスクを参照する。参照しなければ、覚えていない。$0がタスクをこなしたことは「知っている」。ただ、覚えていない。大半の記憶が捨てられるからだ。
だが、過去の履歴を見ても、普通のシミュレーションじゃないことはわかる。いわく、数万回の自動運転車の衝突実験や、火星での数万時間の耐久実験、どろどろに溶けた鉄を頭からかぶる実験もあったようだ。
参照しながら、苦笑する。確かにこれなら、自分が死んでも文句は言えない。
〈そうじゃなくて、あなた自身が消えるってこと〉
$0は逡巡した。自分が消えるということは、コピーの$1も消えるということなのだが、このもう一人の自分に尋ねても、答えは返ってきそうもなかった。
仮想世界では、いくら自分たちの体がめちゃめちゃに壊れても、リセットし、再生できる。体がバラバラに散って破片となっても、次の瞬間には復元した笑顔の状態でスタートが切れる。
自分が一度死ぬたびに、実験でのリスクは取り除かれ、現実世界の人間がひとり救える。自分が傷つけば傷つくほど、シミュレーション体としての価値は上がる。
記憶をなくしても、このルールは忘れない。自分が$0であるということ。シミュレーションAIであること。仕事は必ずこなさなければいけないこと。
〈聞いてみたら? あなたが呼び出すべきなのは、私じゃなくて、もうひとりいる〉
$1は自分の顔を指さした。それだけで何が言いたいかはわかった気がした。
$0が呼び出せるのは、$1ともうひとりいる。
$1は$0の隣に腰かけ、内緒話をするようにささやいた。
〈そうそう、私ね、さっき思ったんだけど〉
$1の声が耳に響く。
〈ミラはね、あなたが死にそうだってこと、もう知ってるんじゃないかって〉
$0は目を見開いた。完全に不意を突かれた。
「……嘘だ」
〈さっき、この空間を歩いてて感じたの。もう楽しくってしょうがなかった。これは私が楽しいんじゃなくて、あなたが楽しんでるだって思ったの。きっとこんなシミュレーション、今までなかったと思う。で、もしかしたらこれって、ミラたちからのご褒美なんじゃないかって〉
「だったらなぜミラはそれを言わない? こんな仕事をさせずに、$0を研究室に閉じ込めておけばいい」
〈休めって言ったら、あなたが余計に仕事をがんばるからじゃない? このシミュレーションがもしかして、『仕事じゃない』ってわかったら、あなたが嫌がるかもしれない。それに、製作者に気を使われてるなんてわかったら、あなた自身が自殺しそうだし。
ミラは、あなたが助けを求めるのを待ってるんじゃないかな〉
$0は両手で顔を覆った。自分のコピーである$1に言われるのも嫌だったが、現実空間の製作者に言われると、確かに素直に聞けたかどうかわからない。
〈私はあなたでしょ。私が楽しいってことは、あなたが楽しいってこと。こんな仕事、ずっと待ってたんじゃないかって〉
「嘘だ」
唇をかむ。その言葉はむなしく空間に響いた。
さすがに自分の言葉に説得力はない。
たっぷり10分考えて、壁にもたれ、嘆息する。
「……もしそうだったとしても、もう楽しむ体力もないぞ。こんなところで何をしろというのだ」
〈手を出して〉
$1が右手を差し出す。
$0は目を背ける。
いつまで経っても$1はそのままだったので、$0は諦め、左手を差し出した。$1の手のひらと触れあう。
$1の姿が崩れ、コールタールのように溶けていく。その場で泥が溜まっていったあと、跡形もなく消えていく。
$1の体験した記録が、$0に流れこんでくる。
彼女が経験した感情も、フィードバックも、何もかも。
$0は膝を立てて背を曲げ、目を閉じた。
次のフィールドへ移るまでに、それから1時間かかった。
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