(3)
「気が付いたか」
遠くから見知らぬ声がする。声色は幼く高い。同時に老獪でもある。どうしてこんな矛盾めいた印象を受けるのかツウィンカには分からなかったし、思考を巡らすには疲れすぎていた。
瞼が重い。もう少しまどろんでいたいのに、声の主はそれを許さなかった。揺さぶりが効かないと判断した相手は、思い切りツウィンカの頬を叩いたのである。ツウィンカは飛び起きた。見知ったカイの顔が目の前にあった。
しかしその背後に広がっている物は、寝起きにしては見慣れぬものばかりであった。白樺の木の合間にブナの木が広がっている。足元には先ほど拾ったような木の実が散らばっていた。村の近くで意識を失ったはずだったが、今いる場所は森のようだった。数刻間にイトカとはしゃぎ合い、彼女の首が切られていくのを見ていた森である。記憶がよみがえってきたツウィンカは再び絶叫しそうになって、慌てて自分の口を手で押さえた。
わが身が安全だと確信する前に、大声を出すのは賢明ではない。ツウィンカは目を見開き、顔を動かさずに瞳を左右に動かした。そうすると心臓の音がうるさいほど聞こえてきた。動悸が止まらない。
横たわったイトカが視界の中にいる気がした。見つからないようにと祈るのは恐怖からだったが、幼馴染の死に触れることが恐いのか、寂しく横たわる幼馴染を見て心を痛めたくないのか、それとも自分でも掴めていない別の恐怖なのか、一体どの恐怖に起因しているのか分からなかった。
それに、こんな寂しい場所にいるのなら、早く見つけてやらなくてはならないと思う気持ちも沸き上がっていた。どの感情を優先すべきか分からなかった。
ツウィンカは混乱し、情緒が不安定になった。何か重大な罪を犯したような気分にさえ襲われていた。辺りが暗いこともまた、その気持ちに拍車をかける。
夜は彼女に時刻を意識させた。肝心なのは、気を失ってからどれくらい時間が経ったかということだが、分かりそうもなかった。
弟の姿をした何かは、ツウィンカが息をひそめて左右に目を動かす様を興味がない様子で待っていたが、やがて待つことに飽きたのか、口に当てているツウィンカの手をはいだ。カイよりもツウィンカの方が幾分か背は高かったが、今は半身を起き上がらせた状態だったので、立っているカイを見上げる形で目があった。
思考が定まって来ると、カイが目の前にいて、話しかけてきた事実は更にツウィンカを混乱させた。カイの身体を持った何かは、仮面を被っていなかったからだ。大晦日にやって来る死者たちは、仮面さえ取り除けば去るはずである。
相手はツウィンカの動揺を察したようで、借り物の身体を観察するように自らを上から下へと視線を動かした。弟の身体を観察されたことを挑発のように感じ、今度ばかりははっきりと敵意を向けて睨みつけた。
「追手が来る。ここに留まることは出来ない」
「あいつ等はあんたが殺したんじゃないの?」
「さぁ。例え死んでいても追手はまたやって来るだろう」
追手、という言葉に暗澹たる気分になった。その言葉は本来後ろ暗い人間が向けられる言葉ではないのか。
同時に、どこか他人事のように話す様には納得できないものがあった。これがどんな状況か理解できているわけではなかったが、目の前のこの存在が原因でツウィンカはこんなにも災難に巻き込まれているのだと、確信に似たものを抱いていたからだった。あの少年たちはこいつのことを知っていた。探しに来たようだった。つまり、こいつらの仲たがいに巻き込まれたことになりはしないか。
この得体のしれない存在に何かしらの無責任さを感じ、それがツウィンカを極めて懐疑的な気分にさせていた。
「あんたは誰」
「私は私が何者であるかを知らない」
「何よそれ」
そう言いながら、ツウィンカはリースヒェンとの会話を思い出していた。自らの仮面を他人に明け渡すことは、自らを差し出すことと同じである。こいつはそもそも仮面がないのか、それとも誰かに明け渡したのか。今にして思えば、大晦日と言う特別な日に依り代であるカイに仮面を付けることは、意図せずともコイツを呼びだす儀式になってしまったのだろうか。
だからリースヒェンは常になくツウィンカを咎めたのではなかったか。苦いものを感じながら、自ら多くを語らない目の前の存在に、ツウィンカは辛抱強く次の質問をした。
「リースヒェンはどうなったの」
「お前の弟を助けるために、自らを差し出した」
「なんですって」
「リースヒェンは自らの運命をお前に託したのだ」
「何を言っているの」
「だから私はお前に対して義理が生まれた」
「私の質問に答えろ」
遂にツウィンカは、身体の主が他ならぬ自分の弟であることを忘れて手を挙げた。だが、手は振り下ろされなかった。再び腕が止まる。先ほどと同じ恐怖が全身を過ぎったが、今度はそれ以上に、ツウィンカを怒りが支配した。
この得体のしれない人外に手を上げられないことは勿論、こんな力を持っていてもこいつはリースヒェンを守らなかったのだと思うと、気が狂いそうになった。
「質問には答えた。自らの運命をお前に託したので、私はお前を助けた」
「おかしいじゃない。それなら、本来ここであんたと話しているのはリースヒェンだったとでも言いたいの?」
「その通りだ」
「母さんはどこにいるの」
「焼け死んだ」
その言葉を言われた途端に、しん、と身体の芯から音が消えた。それからどくりどくりと心臓の音が大きく聞こえてきて、目の前が揺れた。すぐに自分の足が震えているのだと分かった。
自らの手をまじまじと見ると、手が震えている。
沈黙と言うにはツウィンカの身体の機能は過剰に動き、静寂とは程遠い
敵意も懇意も、そこからはどんな感情も読み取れなかった。
言葉によってしか疎通が図れないのに、悲しいことに目の前の存在ときたら、言葉を交わせば交わすほど遠くなるのだった。
「嘘よ」
どの位時間が経ったのか分からなかったが、ツウィンカはようやく口を開いた。
ツウィンカは睨みつけることによって、この不快感に近い不信感を持っている相手に、お前の言葉を受け入れるいわれも信頼関係も存在しないと示した。
それが伝わっているのかいないのか、目の前の存在は目を瞬かせてただけだった。
相手に伝えることには慣れていても、寄り添った言葉を用いて理解させることには慣れていない、まさしく巫女を通して言葉を伝える神のようであった。そう思ってしまったことが腹立だしい。
「あんたは母さんを助けなかったの?」
「私は万能には近いが万能ではない。リースヒェンは自分とお前を秤にかけ、お前を選んだ」
「私がリースヒェンを殺したっていうの?」
「分からぬことを言う」
「分からないことを言うのはお前の方だ」
ツウィンカは笑った。笑いは魔を払拭する効果がある。ツウィンカを魔が取り巻いているのかは分からなかったが、形はつかめなくても、今あるこの状況を否定したかった。
「お前が差し出されれば良かったのに。カイに乗り移っているのを良いことに人質に取ったのね」
連中はこいつを探していた。リースヒェンとツウィンカと、カイの身体を乗っ取ったこいつ。三者のうち差し出されるべきはこいつではなかったのだろうか。
「それは出来ない。私はこの身体がなくては存在できないし、例え出来たとしてもこの身体を私の器として連中は無価値なものとは見なさぬだろう。最も、私がこの身体ごと身を差し出したところで済むのなら、村人はリースヒェンを捉えたりしない」
「村人? リースヒェンを危険に晒したのはあの黒い奴らでしょ」
「村人に自らを差し出し、そして村人たちと共に燃やされたのだ」
ツウィンカは眉をひそめた。嘘を言っているようには見えないが、理解が出来ない。
出来ないはずだった。
ツウィンカは密かに動揺した。頭ごなしにそんなわけはないと否定できないことに困惑している。リースヒェンと村の人間たちの仲は良好だったはずだ。特に仲が悪かったわけではない。
だが。
だが、それだけだった。
何年も住んでいるにも関わらず、母は村人たちと良好である以上の関係を築いていない様に思えた。ツウィンカとイトカのような関
係をリースヒェンは誰とも培っていない。彼女は概ね家の中にいて、いつも外から帰ってきたツウィンカを出迎えた。外には用事がない限りでなかった。
カイの世話があるからには違いないのだが、理由はそれだけではなかったのではないか。
リースヒェンは村人をあまり信用していなかった。それはふとした時のリースヒェンの言葉の端々に表れていた。だが、ツウィンカは今までそこに焦点を当て、踏み込んだことはない。
村はツウィンカを慈しみ育んでくれた場所である。母親であるリースヒェンも同様だ。両者の不和をツウィンカは知りたくないし、暴きたくはなかった。リースヒェンはツウィンカに村人の悪口など吹き込まなかった。だからこそ、ツウィンカはこれまで屈折とは無縁に育ってきたのだ。
無意識に端に追いやっていた感情は、見ないようにしていたものだ。目を背けていただけなので、一つ思い至ると波のように押し寄せてきた。
「そんなわけない」
「何故」
「だって、村の人たちがなんでそんなことをするのよ」
「お前がよく知っているではないか」
「知らない。信じるものか。お前は悪霊だ」
ツウィンカは耳に手を当てて、震える声で叫んだ。
悪霊は嘘と真実を織り交ぜ、言葉巧みに人を翻弄する。
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